幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

反射する回廊
 その『異界』に降り立った瞬間、無数の人影に取り囲まれた。
 ……否、それは正しくない、と一拍遅れて気付く。
 Xを取り囲む人影は、皆が一様の姿をしていた上に、それがよく見覚えのある姿であったから。Xもすぐにそれに気づいたのか、ぽつり、と声を落とす。
「鏡、か……」
 そう、鏡だ。周囲に張り巡らされた鏡が、Xの姿を複雑に映しこんでいることで、まるで「X自身」に取り囲まれているかのような錯覚をもたらしていた。
 Xは目の前に立ちはだかる一枚の鏡に向けて手を伸ばす。鏡の中のXも手を伸ばす。短く刈りこまれた白髪交じりの髪に、実年齢より少し上に見える以外には特筆すべきところのない痩せた顔の男性。片目が見えていないがゆえか、わずかに焦点がずれている、ちぐはぐな色をした目が、ぼんやりと見つめ返してくる。その姿は、私が知る『こちら側』のXと何ら変わりがない。
 ただ、眺めているうちにその姿が徐々に変化しているのに気づく。酷くゆっくりとした変化ではあるが、髪がわずかに伸び、白髪が減って行き、痩せていた顔も肉付きを取り戻して、若返っていくように見える。一方で、Xはその変化に気付いているのかいないのか、普段通りの表情を変えることはしなかった。
 若返りと思える現象はそのまま続いていくかと思われたが、ある一点を境にまた元の姿へと戻っていく。どうも、ある一定期間のXの姿を行き来しているように見えた。もしかすると、今までの『異界』でもそうだったのかもしれないが、私には判断がつかない。
 ともあれ、Xはしばらく鏡に映っている自分の姿を見つめていたが、不意に、その視界の隅で何かが動いた。Xが動いていないにもかかわらず、だ。Xもはっとしてそちらに視線を向けようとするが、何せこの無数の鏡だ、どちらの方向で何が動いたのかを正しく判断することができない。
 Xはその場から動き出した。この『異界』の中で何が動いたのかを確かめようというのだろう。『異界』の規模を確かめること、『異界』で起こる現象をその目と耳で捉えることは私がXに与えたタスクだ。
 だが、言葉にならない不安が胸の中にわだかまる。その予感が外れることを祈りながら、私はXの視界を映すディスプレイをじっと見据えていた。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 鏡の『異界』は果たしてどこまで広がっているのか、私には想像がつかない。もちろんXにしてもそうであろう。それでも、鏡と鏡の隙間を渡り歩きながら、時折視界の隅を動き回る「何か」を追いかける。
 どこまでも、どこまでも続いていく、鏡張りの回廊。進んでいる方向も定かではなく、ゆるやかに姿を変え続ける自分自身を映し込みながら、手探りで歩き続ける。その時、また視界にXの動きとは別の動きをするものが横切った。だが、今までよりその影は随分近いのか、今までよりもずっと大きな姿で映りこんだ。
 だから、追いかけているのが「何」なのか、私にもはっきりわかった。
「X……?」
 私が呟いた、次の瞬間。
 Xの視界が激しく揺さぶられた。何が起こったのか、と思う間もなくXが左に視線を向ける。Xの目を通してディスプレイに映し出されたのは、X自身――に見える何者か、であった。
 何故それがXの鏡像でないとすぐにわかったのかと言えば、Xを見つめる「それ」の表情が、まるで普段のXのそれとは異なっていたからだ。その面に浮かんでいるのは、満面の笑み。晴れやかな笑顔と共に、Xの姿をした「それ」はXに向かって拳を振り上げる。
 Xもただ一方的に殴られるだけではない。突き出された拳を片手で受け流し、自分もまた目の前の「それ」に殴りかかろうとする。しかしその一撃はまるで鏡映しのように、一瞬前の自分がそうしたのと同じく受け流されてしまう。
「あはは」
 一、二歩下がり、Xと同じ顔をした「それ」が笑い声を漏らす。それも確かにXと同じ声だったけれど、Xがそんな風に笑ったところを私は見たことがない。
「やっと。やっと、俺にもツキが回ってきた」
 その口からこぼれ落ちるのは、こちらにも通じる言葉。けれど、言っている意味がわからない。そう思っていると、「それ」は予備動作もなくぐん、と顔を近づけて、Xの肩を掴んで背後の鏡に押し付ける。がん、という激しい音はXの後頭部が鏡にぶつかった音だろう。
「なあ、代わってくれよ。……もう、こんなところにいるのは、まっぴらなんだよ!」
 高らかに叫んだ「それ」は、Xをぎりぎりと鏡に押し付ける。すると、どのような仕組みによるものだろう、Xの体がじりじりと後ろに下がり始める。否、より正確に言うならば――背中にした鏡の中に、沈み込もうとしているのだ。
「今度はお前の番だ。俺の代わりに、囚われてくれ」
 肩を押さえつけられたXは手足を動かしてもがくが、「それ」の手が離れることはなく、そのままXを鏡の中に押し込めようとする。
 このまま続ければ、Xの意識体は完全に鏡に沈められてしまうだろう。その状態で引き上げが行えるのかも定かではない。これは、もう引き上げてしまった方がいい、と指示を出そうとした、その時だった。
「勝手な、ことを、言うな」
 ぼそり、と。聞こえたその声がXのものであると、気付いたのは一拍の後。
 がん、ともう一度大きな音が響いて、視界が激しく揺れた。一体何をしたのか、私には一瞬判断がつかなかったが、どうやら「それ」に勢いよく頭突きをしたらしいということが、額を押さえてふらふらと下がる「それ」を見てわかった。
「くそっ、石頭……っ!」
「仕事の、邪魔を、するな」
 その声と同時に、Xは「それ」の顔目掛けて迷いなく拳を突き込んだ。Xと同じ顔が醜くひしゃげた、と思った次の瞬間、ぱりん、という硝子の割れる音が響いて、「それ」の姿がばらばらになったかと思うと消え去ってしまう。Xが足元を見れば、粉々に割れた鏡が落ちていて、Xの姿を無数に映しこんでいた。
 Xはその鏡の残骸をサンダルの裏で踏みしめると、己の手を見る。右の拳が切れ、赤い血がぽたぽたと流れ落ちている。Xの体は意識だけの存在ではあるが、その辺りは現実と同じように再現される。もちろん、痛みだって感じているに違いないのだが、Xは痛みに顔をしかめることすらせず、ぴんと背筋を伸ばしてその場に立つ。
 すると、今度は鏡像のひとつがゆらりと蠢いて、腕を伸ばしてくる。鏡から血まみれの右手が突き出てくるのを、Xは間一髪、一歩下がることで避ける。だが、その背後からも更に手がXを引き込もうとする。
「なあ」
「なあ、おっさん」
「代わってくれよ」
「俺の代わりに、ここに」
「なあ」
「なあ……!」
 辺りを取り巻くXの鏡像の一つ一つが、いつの間にか壮絶な笑みを浮かべて、X自身とは異なる動きを始めていた。その全てがXを鏡の中に引き込もうと血のしたたる右腕を伸ばしており、もはやXの逃げ場はなくなっていた。
 それでも、Xは全く動じることなく、――その言葉を、唱える。
「引き上げてください」
 それは、『こちら側』にいる私たちに対する合図。Xの意識体を肉体へと「引き上げる」ための。私は、既にスタンバイを済ませていたスタッフを見渡し、指示を、下す。
「すぐに引き上げて!」
 エンジニアとサポートの新人が異界潜航装置を操作することで、ディスプレイとスピーカーにノイズが走る。そのノイズの最中に、声が、聞こえた。
「なあ。どうして、俺が、こんな目に、」
 
 
「お疲れ様、X」
 引き上げ作業は無事に済み、Xの意識は『こちら側』の肉体に戻った。寝台の上に起き上がったXは自分の右手に傷がないことを確かめるように、握ったり開いたりを繰り返している。
「……まだ痛む?」
 私の問いかけに対し、Xは浅く頷いた。意識体の痛覚は、肉体に戻ってからもある程度の時が経つまで残るようで、この辺りはもう少し研究の余地があると感じている。意識体と肉体の関係性は専門ではないが、Xの円滑な運用のためには理解しておく必要がある。
「それにしても、災難だったわね。鏡の中から襲われるなんて」
 もちろん相手は『異界』だ。あれがただの鏡であるとも思えなかったし、事実として鏡の中から現れたXの姿をした何者かがXの前に立ちはだかることになった。あれが一体何者だったのかは、結局わからずじまいだったけれど――。
 そう思っていると、Xと目が合った。Xが何かを言わんとしていることを察して、私はXに許可を出す。Xは、私が許可をしない限り口を開こうとしないから。
 Xはしばし何かを考えるように視線を彷徨わせて、それから改めて私に視線を合わせて言った。
「あれは。私と同じようなもの、だったのでは、ないでしょうか」
「あなたと同じ……?」
「私と同じように、『異界』を渡るもの。もしくは、迷い込んだ、もの」
 迷い込んだ。その言葉にほとんど反射的に唾を飲んでいた。そのような現象が無いとは思っていない。むしろ、Xのような例よりも、そちらの方が大多数だと思っている。
 例えば――。
「例えば、神隠し、のように」
 神隠し。人間がある日忽然と消え失せる現象。昔からそのような現象は神の手によって、こことは別の世界に連れ去られたことによるもの、と捉えられてきた。そして、それがあながち的外れでもないということを、我々異界研究者は知っている。
 知っているからこそ、私はこうして研究を続けているのだから。
「あの、あなたと同じ姿をしていた相手は、神隠しに遭った人間、だった……?」
「かもしれない、という、だけですが」
 私は何とも言えない気分になって、寝台の上のXを見下ろす。
 ――なあ。どうして、俺が、こんな目に、
 最後に、ノイズに混じって聞こえた声。あれは、理不尽にもあの世界に迷い込んだまま抜け出すこともできなくなってしまった者の、魂の叫びだったのだろうか。
 私は何も言えなくなってしまって黙り込む。Xは確かにこちらの指示をこなそうとして、その途上で実験続行が難しいと判断して引き上げを要求した。何一つ問題はない、実験結果としても上々だ。なのに、何が引っかかっているのだろう。
 いや、わかっているのだ。私は――。
 すると、Xがふと、口を開いた。
「……もし。あなたが、命じるならば」
 Xの、少し焦点のずれた目がこちらをひたと見据える。
「もう一度『潜航』を行い、先ほどのあれと、代わってきますが」
「まさか」
 つい、声を上げてしまう。一瞬でも頭の中をよぎってしまった可能性を否定するために。
「あなたにそのようなことを命じることはないわ。安心して、X」
 そうですか、と言ってそれきりXは俯いて黙り込んだ。Xの考えていることは、私にはどうにもわからない。ただ、今ばかりはこちらの迷いを見透かされた気がして、胸が激しく鳴り響いているのがわかる。
「そう、そうよ」
 これは、ほとんど自分に言い聞かせるように、口を開く。
「私たちの目的はあくまで『異界』の観測よ。……今は」
「……今は?」
 Xがふ、と顔を上げて問いかけてくる。私は、その真っ直ぐな視線を受け止めようとして、それでも自然と目を細めずにはいられなかった。
「ええ。今は、まだ」
 そう、まだ私たちにできることは限られていて。
 けれど、いつかはその向こう側に手を伸ばすだろう。それがなるべく早いことを祈りながら、私は今日も『異界』を観測するのだ。

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