幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

樹の下でおやすみ
 そして今日も、あの方がやってくる。複製された記憶の奥底で、確かに笑っていた『彼』と同じ顔をしたあの方が。
「ようこそ、Administrator。記録を読み出しますか?」
「……ああ。前回の続きから」
 
 
   *   *   *
 
 
 その隔壁は、塔の足下にあった。
 暗闇にも淡く輝く壁を持つ巨大な塔……《森の塔》。統治機関《鳥の塔》が終末の国の各地に建てた、軍事拠点にして研究機関の一つ。その名の通り、荒れ果てた世界を再び緑で包むための研究を続けている。
 その性質故に《森の塔》が建造された土地は辺境にありながら真っ先に《鳥の塔》からの恩恵を受けることができるため、《鳥の塔》の足下にある首都・中央隔壁……裾の町ほどではないが、それなりの生活水準は保証されている。そんな恵まれた地であるから、当然人も多く集まり、町は拡大を続けている。
 そんな第十三隔壁にたどり着いたのが、午前零時十一分。星を失って久しい空が完璧な闇に包まれ、隔壁が灯す明かりだけが頼りとなる時間だった。
「ついたぞ、ガキ。ここまででいいのか」
「ああ。わがまま聞いてくれて悪いな、おやっさん」
 助手席から降りる前に、相場より八割近く多い金を運び屋のおやっさんに渡す。
 ナマモノは運ばないのだという運送屋に何とか頼みこんで、ここまで運んできてもらったのだ。しかも、子供二人にちょっとおかしな男が一人だ。まともな旅じゃないってのは、多分、見りゃすぐにわかったことだろう。だが、一つ前の町で春蘭が連れて来たこの見かけ強面なおやっさんは、今の今まで何も聞かずにここまで運んできてくれた。その対価としては安すぎるほどだと俺は思う。
 それにしても、春蘭の人を見る目には恐れ入る。誰が悪意を持って迫っているのか、誰がこちらを傷つけないのか、そういう、本来目に見えないはずの「人」の内側を見抜く能力に関しては、全くあいつに敵う気がしない。そもそも俺は目に見える現象しか理解できない性質なのだ、春蘭にしろヒューにしろ、方向性は違えど俺とは全く違う世界を見ているに違いない。
 さて、おやっさんは、しばし俺と俺の渡した金を見比べて、それから半分近くの金を突っ返してきやがった。
「ガキが妙な気の使い方するもんじゃねえ。どうせ、ここが目的地ってわけでもねえんだろ。取っとけ」
「……お、おう。ありがとな、おやっさん」
 別に、金には困っちゃいねえんだが。この旅の費用は全て《鳥の塔》持ちなんだ、俺が気にすることじゃねえ。
 だが、もしここで「俺、実は《鳥の塔》の研究員なんだ」なんて言ったら、このおやっさんはどんな顔をするだろう。冗談言うなと笑われて終わりだろうか。それとも。
 ……辺境で仕事をする人間が、塔の偉いさんをどう思っているかなんてわかりきってんだ、分の悪い賭けはするもんじゃねえ。一瞬の思考を誤魔化すために、せめて精一杯ガキっぽく見えるように笑って、助手席を飛び降りると荷台に回る。すると、よく響く声が扉の向こうから聞こえてきた。
「ほら、ヒュー、ついたみたいだよ! 起きて起きてー!」
 また寝てるのか、あいつは。乗るときはあんなにびくついてたのに、のん気なもんだ。扉の取っ手を掴んで勢いよく開くと、積み上げられた箱に寄りかかるように、見慣れた赤毛の男がすやすやと寝息を立てて眠っていて。そんな男の手をぐいぐいと引っ張っている白髪のおなごが、困った顔でこちらをちらりと見てくる。いや、そんな顔で見られても俺は知らん。
「おい、とっとと降りろよ、お前ら」
「うん、ちょっと待って。ヒュー! 朝だよー!」
「や、夜中だけどな」
 俺のツッコミは華麗に無視されたようだ。寂しくなんてないんだからな。
 ぺちぺち、と小さな白い手で頬を叩かれていたヒューは、やがて「んー……」と声を出して、目を開けた。荷台の薄闇の中にもはっきりとわかる、金属質の色をした瞳が、ひたと春蘭を見つめて……ふにゃりと気の抜けた笑みに歪む。
「おはよー、春蘭」
「おはよ、ヒュー」
 春蘭も、ヒューにつられるように笑顔を浮かべる。何だか二人の世界が出来上がりつつあるのを、何とか咳払い一つで意識をこちらに向けさせる。
「こーら手前ら、さっさと降りろつってんだろ。おやっさん待たせてんじゃねえ」
「あ、ごめんごめん。町に着いたんだって、行こう!」
 春蘭の手を取って、ヒューが立ち上がる。いつも思うのだが、一般的成人男子と比べても大柄な部類に入るヒューと、小柄とは言わないが一般的な十四歳女子である春蘭が手を繋いでいるところは、ある種の犯罪を髣髴とさせる。春蘭の方が保護者だってのはわかっているつもりなんだが、視覚情報って本当に厄介なもんだ。
 世話になったおやっさんに別れを告げて、車が完全に見えなくなっても手を振っていそうだった二人を無理やり引きずり、宿を探しにかかる。とはいえ、辺境の拠点となる《森の塔》は、隔壁間を移動する塔関係者や、安全な寝床を求める旅人も多い。この時間でも扉の鍵を開けている宿はすぐに見つかった。
 奇妙な取り合わせの三人組に対する宿の親父の訝しげな視線が痛いが、《鳥の塔》の徽章を見せて名を名乗り、これが塔から受けた任務の一環であることを誠心誠意説明したところで、渋々ながら部屋の鍵を渡してくれた。
 ……まあ、任務は俺が受けたものじゃねえが。春蘭を《鳥の塔》まで護送しなきゃならんのは事実だから、嘘は言ってねえ。
「くれぐれも、変な騒ぎは起こすなよ」
「わーってるって。そんな風に見えるか?」
 見える、という言外の肯定は、気づかなかったふりをしておく。全く、そういう「ふり」ばかり上手くなっちまう。俺様は正直が売りのはずなんだけどな。
 とにかく、見慣れない建物をきょろきょろと見渡すおのぼりさん全開の二人を引き連れて、とっとと部屋に入ることにする。鍵さえもらっちまえば俺たちは客だ、それこそ、問題さえ起こさなきゃこれ以上うるさいことは言われない――はずだ。
「なあ、アル!」
「何だよ、ヒュー」
 階段を昇っていると、後ろから追いついてきたヒューが犬みたいに息をはあはあさせながら、窓の外を指さす。だが、俺にはこいつが何を指しているのか、さっぱりわからない。
「すげーなあ、あの樹。でっかくて、光ってるんだ!」
「樹……ああ、違えよ、あれは塔だ。つか、お前は樹も見たことねえだろが」
「本で読んだことあるもん。でも、樹じゃねえのか……どれだけ高いんだろう。空に届いてんのかな。アルはすげーって思わねーのかよ?」
 きらきらと、ヒューの瞳が塔の放つ光を反射して輝いている。
 空まで届く、光り輝く樹。
 なるほど、こいつには、そうやって見えているのか。
 俺にとってはあまりに当たり前だった、塔。中央隔壁の《鳥の塔》は《森の塔》よりも巨大で、表面に張り巡らされた無数のディスプレイが常に雑多な番組を映し出している。そんな、うるさいだけの光の下に生まれた俺には、ヒューの言葉が理解できなくて。
「……ああ、すごいな」
 正直、ヒューバート・レインが羨ましくもあった。
 
 二人を部屋に押し込んで、俺は廊下でここしばらくほとんど使い物にならなかった、携帯端末の電源をオンに。通信状態が良好であることを確かめて、息をつく。無事《鳥の塔》に連絡できることに対する安堵もあるが、それ以上に気が重い。
 さて、この二人のことを……そして、俺様のことをどう塔に説明してくれようか。メール作成の表示を叩きつつ、頭の中で今までのことを反芻する。
 そもそもの始まりは、《種子》九条春蘭の護送が失敗に終わったことだ。
 《種子》――ある程度原理が解明されている旧い魔法ともまた違う、原理不明の「奇跡」と呼ぶべき力を操る子供。《鳥の塔》は長らくその力の研究を続けていて、当然《種子》として見出された春蘭も塔へと護送されることになった……のだが、護送の途上、反抗勢力の襲撃によって、派遣された部隊は全滅した。
 何とか近くの隔壁に逃げ延びた春蘭を匿ったのが、ヒューバート・レイン。隔壁内の医師の家に居候していた、旧い魔法使い。そう、旧い魔法使い。裾の町でもほとんど見かけないそれが、当たり前のように暮らしていたのだ。
 加えて、奴は、自分のことを何一つ知らない。知らないどころじゃねえ、笑っちまうくらいにまっさら。要するに、なりはでかいが、頭ん中は子供同然なのだ。
 そんな、脳内ガキんちょのおっさんが、助けた春蘭に懐いちまった。それでも、ただのガキなら、危険しかねえ荒野渡りの旅に同道しようなんて考えもしなかっただろう。だが、ヒューはどうしようもなくガキだが、同時に旧い魔法使いなのだ。科学とはまた違う「理」を感覚的に操る、珍しい能力者。この世界をぶっ壊した《バロック・スターゲイザー》と同じ力を操るこいつには、たった一人で春蘭を守るだけの力があった。
 ……血の海。切り刻まれた人間だったもの。その中心にただ一人立ち尽くす、赤毛の男の姿が閃いて、無理やりそのイメージを遮断する。思い出そうと思えば、ばらされた人間のパーツの数も数えられると思うが、そんなこと誰が好き好んでやるもんか。
 とにかく、そんな連中だから、塔の新たな護送部隊を待たずに塔を目指すなんて言い出して、話は面倒くさいことになったわけだ。面倒くさいことになった理由はもう一つ、偶然《鳥の塔》関係者である俺がその場に居合わせちまった、ってことでもあるんだが――
 どうにも、上手く纏められる気がしなくて、一旦メール作成画面を閉じることにした。もう、報告は要請されてからでいいんじゃねえかな。絶対にこっぴどく怒られるんだろうが。
 部屋に戻ると、ふわりと茶の香りがした。もちろん、本物の茶葉なんて塔の偉いさんでもなかなか手に入らない代物なんだ、分析するまでもなく合成茶葉なんだろうが、疲れた身体にはつくりものの香りすら心地よい。
 テーブルの上には、三人分のカップ。既に二つは空になっているから、一つは俺のなんだろう。手にとってみると、すっかり冷めていたがひとまず美味しくいただくことにする。二人の声は、隣の寝室から聞こえている。大方、ヒューが眠いって言い出して、でも一人じゃ眠れないからって春蘭をつき合わせているんだろう。いつものことだ。
 何も知らなくて、一人じゃ眠ることすらできない、ひ弱なガキんちょ。なのに、俺たちを守る無二の刃でもある……か。何とも不安定な刃もあったもんだ。
 それに、いくつか気になることはある。その「気になること」を確かめるべく、茶を啜りながら、端末から《森の塔》の通信網を介し、《鳥の塔》のデータベースへ接続する。
 その時、ふ、と二人分の囁き声が止んで。
 数秒遅れて、懐かしいような歌声が響いてくる。聞いたことのある歌だが、タイトルは知らない。今まで春蘭が歌っていたことはなかったと思うが、よくもまあ、毎日毎日違う歌を歌えるもんだ。辺境の孤児院ってやつは随分な英才教育を施すと見える。
 だが、その歌もそう長くかからないうちに止んで、春蘭がひょこりと顔を覗かせる。
「ヒュー、寝たのか」
「うん。やっぱり、疲れてたんだと思うよ」
「あんだけ寝てたのにかよ。どんな体してんだか」
「でも、寝れる時にいっぱい寝るのは大事だよね。んー、わたしも眠くなってきちゃった」
「先に寝てろよ、俺はもうちょい調べ物があるからよ」
 俺は寝るってことがあんまり得意じゃない。別にヒューみたいに、誰かに子守唄を歌ってもらわにゃならんとか、そういうわけじゃねえ。何処でも肉体の疲労を回復させるための最低限の睡眠をとる方法は、経験上身についている。
 だが、精神的には常に張りつめているのか何なのか、睡眠じゃ心は安まらないことが多い。よっぽど、何かに没頭していた方が心が落ち着く。これは、路上暮らしの頃から、塔に上っても変わらなかった。塔の方が外周よりよっぽど、伏魔殿の様相を呈しているってのもある。無防備な姿を晒すのは、なかなかに恐ろしいもんだ。
 その点、安らかに眠る、ってことを知ってるヒューや春蘭が羨ましくはある。
 ソファの上に腰掛けた春蘭は、しかし、すぐに自分の寝台には向かわなかった。菫色の目をまん丸く見開いて、俺の手元……携帯端末を見ている。
「アルは、何調べてるの?」
「あー……」
 通信のための装置が存在するわけでもない辺境じゃ、《鳥の塔》と連絡を取ることも難しいのだから、《鳥の塔》が保有する情報にアクセスすることもほとんど不可能だ。だが、《森の塔》が有する広範囲通信装置は《鳥の塔》との情報のやりとりを容易とする。その恩恵を与ることができるのは、その足下の第十三隔壁も同様だ。
 まともに《鳥の塔》のネットワークに接続できる数少ない環境なのだ、今のうちに調べておきたいことは、考えてみればいくらでもある。ただ、今まさに調べようとしていたことを、春蘭に話すべきか逡巡した。
 その逡巡を見逃してくれる春蘭でもないってのは、わかってたつもりだったんだが……気づけば、俺の携帯端末はあっさり奪い取られていた。
「あっ、こら!」
「む、これは……ヒューのいた町?」
「……おう。奴について、わかることはねえかなと思ってさ」
「そっか、お医者さんの家に居候してる、って話はしてたけど、どこから来たのかは、ヒューもわからないんだっけ」
 そりゃあまあ、ヒュー本人から聞いてもわかるはずもない。奴は数年前に、まっさらになっちまったんだから。ヒューバート・レインの自己認識は、あくまで数年前のある一点からのものでしかない。
「奴がどうして記憶を失ってるのか。その前は何者だったのか。旧い魔法使いなんて、ごろごろ転がってるもんじゃねえだろ。下手すりゃ、お前みたいな《種子》よりずっと数は少ねえんだ」
「そういうもんなんだ?」
「そういうもんなんだ」
 返せよ、と手で示すと、春蘭は素直に端末を返してくれた。ただ、すすすと俺の横に寄ってきて、ぴったりくっついて端末を覗き込み始めた。いつも春蘭に引っ付いてるヒューじゃないが、春蘭はいい匂いがする。これは、分析するなら花の香りに近い。そういえば、春蘭って名前も花の名前だったか。
 ……って、そうじゃねえだろうよ。
「近えよ」
「だって、こうしないと見えないじゃん」
「操作しづらいんだよ、ちょっと離れろ、ちょっとでいい!」
 むー、と頬を膨らませた春蘭の顔は、塔で見た映像記録の栗鼠って生き物に似てた。きっと頬袋には美味いもんでも詰まってるんだろう。
「変なアルー」
「変で結構」
「なんか顔赤いけど、どして? 熱でもある?」
「赤くねえ、熱もねえ、光の加減だ」
 実のところ、赤いかどうかは俺自身では観測できねえから何とも言えねえが、光の加減だと信じることにする。そうでなきゃ、あいつを裏切っちまったような気分になる。
 ちょっとは離れてくれたが、やっぱり必要以上に近い春蘭の気配を頭の中から一旦排除。考えてると、思考が余計な方向に流れていきかねねえ。今考えようとしていたことは、そう、ヒューのことだ。
 ヒューバート・レイン。
 統治機関《鳥の塔》が、奴の存在を知っているかどうか。端末を叩いて、名前を入力。通信開始の表示を叩けば、浮かび上がって見える「通信中」の文字がくるくると回る。
 横の春蘭に視線を移すと、春蘭は端末そのものが気になるのか、瞬きもせず端末を見つめている。確かに塔から渡されたもんだから、最新型なのは間違いないんだが。
 しかし《森の塔》の足下とはいえ、通信に時間はかかるな。帰ったら、改善案を提案してみるのもよいかもしれない。
「……あのさ、アル」
 端末を見つめたまま、春蘭が俺の名前を呼んだ。
「何だ?」
「ヒューって、不思議な人だよね」
「まあ、ちょっとまともじゃねえもんな。記憶がねえんだから、仕方ないとは思うが」
「あーっと、そういうことじゃなくて、さ」
 じゃあどういうことなんだ、と言った俺に対し、春蘭は「んー」と首を捻ってしばし言葉を選んでいたようだが、やがて言った。
「ヒューと一緒にここまで来たけど、本当にそれでよかったのかな、って思うんだ。本当はわたし、ヒューを巻き込まない方がよかったのかなってさ」
「嫌なのか?」
「嫌じゃない。ヒューと一緒にいると楽しいし、心強いよ」
「なら、それでいいじゃねえか。ヒューだって、好きでついてきてんだ。嫌だなんて思ったこともねえだろうよ」
「それが不思議だなって」
「は?」
「嫌なことも、怖いこともいっぱいあるのに、どうしてついてきてくれるのかなって」
「……そりゃあお前」
 わかりきったことを聞くもんだ。ヒューが何を考えてるかなんて、一目瞭然じゃねえか。
「お前に惚れたからだろ」
「惚れた?」
 春蘭はこくんと首をかしげた。
 真ん丸く開いた菫色の瞳は、端末から俺の方に向けられた。紫の瞳っていうのは、人間の持つ色素から考えてかなり珍しいと聞くが、ごく近しいところに似た色の目をした奴がいるせいか、全くありがたみを感じない。
 ただ、春蘭の目には、妙な力がある。ヒューの目は、物理的な形容として鏡のようだが、春蘭の目は、目を合わせていると自分の内側まで見透かされているようで、「鏡」という表現が相応しいと思う。
 俺はつい、視線を外してうつむいて、無意味に端末を弄ってしまう。苦手なのだ。そうやって、真っ直ぐ見られるのは。プラスの感情もマイナスの感情もなく、ただ「見られる」という行為が。
 春蘭は「惚れた」ともう一度俺の言った言葉を繰り返して、ついと視線を逸らしたようだった。その視線の先を追えば、窓の外に聳える巨大な塔がある。
「……惚れる、って、よくわかんないな」
「何も、恋愛感情って意味じゃねえよ。ただ、こう……一目見ただけで、こいつのためなら何をしてもいいって、そういう気持ちになることはあるぜ。それが惚れるってことだろ。多分な」
 あのガキに、恋愛感情なんていう心の機微なんてもんがわかるとは思えねえが……一目惚れ、っていう意味を使うのは、間違ってねえんだと思っている。
 それだけ、奴は一途に春蘭を想っている。それが、見ていてはっきりとわかるのだ。
 春蘭は「むー」と再び栗鼠みたいにふくれっ面をしていたが、ふと、何かに気づいたようににやっと笑った。嫌な予感がする。
「そうやって言うってことは、アルも誰かに惚れたことがあるんだ?」
「うっ」
 上手く受け流せないのが、俺の弱いところだ。反射的に、あいつの顔がいくつも浮かんできてしまうのも。
「顔が真っ赤だぞ、アルー。なになに、詳しく聞かせてよー」
「お前、そういうキャラなのか! 別に俺のことはどうだっていいだろ!」
「でもほら、惚れるってどういうことなのか、もっと知りたいしさ。アルの実例をどどーんと」
「どどーんと、じゃねえ! くっそ、言うんじゃなかった、言うんじゃなかった!」
 こういう時は、別の現実に逃げ込むに限る。やっと上手く繋がってくれたのか、端末にはちょうどよく情報が表示されていたから、そっちに意識を持っていく。
 とはいえ、ヒューバート・レインについて大したことは書いていなかった。記憶喪失の男で、旧い魔法を使うことができる、というわかりきった記述だけ。春蘭の大ブーイングを聞き流し、もう少し、奴の周辺について調べられないだろうか、と端末をぽちぽち弄っていると……ふと、ある画面が端末に浮かび上がって。
 思わず、俺は、端末の表示をオフにしていた。
 ぎゃあぎゃあと喚いていた春蘭が、再び俺にひっついてくる。柔らかな肌の感覚と、人の温度に背筋が泡立つ。
「え、何? 今の何? どうして消しちゃったの?」
「……や、ええと」
 その時、がたん、と音がして。
 はっとそちらを見ると、いつ起きたのだろう、ヒューが泣きそうな顔をして立っていた。
 今の話を聞かれたのだろうか、と身構えるが、ヒューは鏡のような目に春蘭を映しこんで、俺の目にもそれとはっきりわかる、安堵の表情を浮かべた。
「どうしたの、ヒュー?」
「あの、あのさ、起きたら、知らない場所で、そばに誰もいなくて……」
「怖い思いさせちゃったかな、ごめんね、ほら。一緒に寝よ」
「うん」
 今泣き出しそうだった顔が、ぱっと晴れる。何とも単純でいいことだ。
 話の途中だったからか、少しだけ名残惜しそうにこちらを見ていた春蘭が、小さく俺に向かって手を振った。
「それじゃ、おやすみ、アル」
「ああ、俺もすぐ寝る」
「おやすみー」
 ぶんぶんと手を振るヒューをつれた春蘭が、寝室に入っていって、扉を閉ざすのを確認して。
 端末を、もう一度操作する。
 先ほど、一瞬だけ見えた画面をもう一度呼び出す。それは、今から四年前の新聞記事。ヒューバート・レインの名前こそ無かったが、奴が暮らしていた隔壁で起こった事件の記録。
 ――《スターゲイザー》を崇める宗教団体が、一人の男を監禁して薬によって自我を奪い、《スターゲイザー》の生まれ変わりたる『神体』として祭り上げていた。その活動を危険視した塔の介入を受けて団体は壊滅、男は救出された……という記事。
 監禁されていた男の身元自体は記事からはわからない。ただ、男が《スターゲイザー》と同じように扱われていた、という点で十分推測はできる。できてしまう。
 旧い魔法使いは、珍しいのだ。
 
 端末の電源を落とす。ここから、もう少し調べていくことはたやすい。たやすいけれど、今日は疲れていたし、疲れていなくても、気の進むことではない。
 俺が事実関係を知ったところで、今のヒューがどう変わるわけでもない。ここにいる奴にとっては、春蘭と一緒にいる今が全てなのだ。過去を知ろうなんて望みさえしないだろう。未来はどうだか知らんが。
 知ることのできることを知らないままでいることは、俺の主義に反するが――今は、とにかく眠ることにしよう。部屋の明かりを落としてソファに身を投げ出し、寝室から流れてくる、小さい頃に聞いていた懐かしい子守唄に身を委ねる。
 深夜でさえ光を投げかけることを止めない、巨大な塔の光を瞼越しに感じて、
 今ばかりは、満ち足りたガキみたいに、夢も見ずに眠れたらよい。
 
 
   *   *   *
 
 
「この時間軸の記録はここまでになります、Administrator」
「――なあ、お前さん」
「何でしょう、Administrator?」
「もはや複製でしかねえ俺を、どうして今もAdministratorと呼んでくれるんだ? そもそも、Administratorであるべきは、俺じゃなくて奴だろう」
「……わかりません。しかし、当装置内の認証機能は、今もあなたをAdministratorと認識しています。そして、わたしは……あなたに、『彼』のことを知ってもらいたいと、思っているのです。『彼』が支えとしながら、思い出すことを忘れてしまった、これらの記録を知っていてもらいたいと思うのです」
「思う、な。お前さん、まるで、人間みてえなこと言うんだな。壊れっぱなしの俺なんかより、よっぽど人間らしいよ」
「いいえ、そんなことはありません。あなたは……」
「ま、んなこたどうでもいいな。そろそろ奴が目覚める、俺は一旦沈むぞ」
「はい。それでは、また」
「『また』があるかはわからんがな。それにしても、さ」
「はい」
 ざらざらと、今にも崩れそうな姿をしたAdministratorは、記録の主である『彼』と同じ、氷河の色をした瞳を細めて、ほんの少し。ほんの少しだけ、笑ったようでした。
「あいつらも、幸せだったんだな」

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