幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

夢から覚めたその場所で。
 ――かつて、かの町には、既に世界から失われたはずの花が咲き乱れていた。
 ――かつて、かの町には、女神と呼ばれる人物がいて、町に奇跡を起こしていた。
 ――かつて、かの町では、一人の女によって、失われたはずの夢と希望が全ての人々に与えられていた。
 ――故に、かつて、かの町はこう呼ばれていた。
 ――『楽園』、と。
 
 
 曇天の下に広がるのは、無限とも思われる荒野だった。
 そのところどころには、そこが人の住んでいた場所であった名残とばかりに、途切れ途切れのアスファルトの道や建物の残骸などが、無造作に転がっている。そんな道なき道を、一台の大きな装甲車が走っていた。車体に書かれた文字から、それが国のあちこちに点在する居住地――『隔壁』を巡るバスであることがわかる。
 隔壁間を移動するということは、気候や地形が人を拒むだけでなく、《スターゲイザー》の大破壊以降現れるようになった、凶暴な変異生物に襲われる危険をも伴う。故に、バスもこれだけの重装備になってしまうのだ。
 もちろん、隔壁から隔壁へ移動しようなどという人間は少数派であり、それこそ、中央の《鳥の塔》の命令で辺境に赴く兵隊か、物好きな旅人くらいだ。
 そういうわけで、今、バスに乗っているたった二人の客もまた、『物好き』の一種ではあった。
「悪ぃな、付き合ってもらっちまって」
 掠れを混ぜた低い声でけたけた笑うのは、一人の女。
 肌の色は黒く、髪の色は微かに灰を混ぜた白銀。後ろで結ばれた、くるくる巻いた髪のところどころには、鮮やかな青のメッシュが入っている。つんと尖った鼻、長い睫毛に縁取られた切れ長の目は、ともすれば近寄りがたい印象を受けるほどに整っているが、肉感的な唇に浮かぶいたずらっぽい笑みが、愛嬌を与えている。
 身に纏っているものは男物のジャケットと細身のズボン。色こそ地味であったが、ジャケットの前を大きく開いて、シャツの上からでもわかる大きな胸を惜しげもなくさらした着こなしは、酷く扇情的だ。長い足を組み、腕を頭の後ろに回して椅子にもたれかかっている姿を見れば、誰もが一度は目を留めるに違いない。
 だが、女と向かい合う席に座っている青年は、それとは全く違う意味で目を留めずにはいられない、特徴的な見かけをしていた。
 漆黒の外套を纏った青年の肌の色は、女と対照的な、白磁のような白。剃り跡もない禿頭は、元より青年が体毛というものを全く持たないことを表している。温度を感じさせない肌と、頭から顎にかけて描かれた整った骨格の線は、やけに青年の横顔を作り物めいたものにしていた。また、目をミラーシェードで覆っているために表情がわかりづらく、余計に無機質さを際立たせてもいた。
 ――実際、作り物ではあるのだが。
 青年は、なおも笑い続ける女に顔を向け、薄い色の唇を開く。
「まあ、正式な依頼だからな。文句はないさ」
「友達から金を取るなんて、つくづく友達がいのない奴だよなあ、お前さん」
「……友達、なあ」
「ああっ、今、友達じゃないって思っただろ! あたし傷ついちゃうぜーマジ傷ついちゃうぜー」
 辺境訛りを混ぜた男言葉で、女は大げさに嘆く。そんな女を、無表情で――ただし、ものすごく呆れたオーラを全身から醸し出して――見ていた青年は、ふと運転席でハンドルを握る運転手に問う。
「あと、どのくらいで到着します?」
「そろそろ見えてくる頃だ。ほれ」
 壮年の運転手は、フロントガラスの向こうを顎で示す。女も、それにつられるように、席から身を乗り出してそちらを見た。
 果てしなく広がっていると思われた荒野に、ぽつりと何かが生まれたかと思うと、徐々にその姿がはっきりとしてくる。砂埃の向こうに見えたそれは、巨大な壁。
 『隔壁』。
 砂や灰の害や、獣の襲撃から身を守るための強靭な壁に囲まれた、居住区の一つ。だが、近づくにつれ、それがぼろぼろに破壊されていることがわかってくる。
 しかし、それを見ても、女も青年も驚きはしなかった。ただただ、じっとそちらを見つめているだけで。
「いやー……なんつーか、改めて見ても、現実味がねえよな」
「待ちわびた故郷への帰還だろ、ジェイ」
 青年の言葉に、ジェイと呼ばれた女はあからさまに眉を寄せた。
「そういう可愛くないこと言うような奴だったっけ、お花ちゃんよ」
 微かな棘を含んだ女の言葉に、青年は初めて口の端を歪めて言った。
「大人になるってのは、そういうことだろ」
 
 
 二時間だけ、待っていてほしい。
 そんな女の言葉に、バスの運転手は二つ返事で応じた。元々、この隔壁がこのような姿になってしまってから、この路線には客が寄り付かなくなってしまったそうだ。それこそ、女と青年が久方ぶりの客であり、また女が運賃を大盤振る舞いしたために、ありがたいことに、貸し切りと変わらない扱いで構わないという。
 かくして、大きな鞄を片手に提げた女は、隔壁の、扉の意味を成していない扉を大股にくぐる。青年は、ミラーシェード越しにその扉に描かれた『十七』の文字を見ながら呟いた。
「第十七隔壁……楽園の跡地、か」
 その声に含まれていたのは、感慨のようなもの。しかし、女はそんな青年の言葉に気づいていなかったのか、数歩先から大声で呼びかける。
「おーい、シスル、置いてくぞー」
「私を置いていって困るのは、そっちだと思うんだが」
「あーあー可愛くなーい」
「いちいち私に可愛げを求めないでくれ、頼むから」
 肩を竦めながらも、青年は女の後に続く。
 町は、もはや町としての原型を留めていなかった。建物のことごとくは、植物のような、金属のような、不思議な質感の何かに押しつぶされ、貫かれていた。その「何か」は、この世界から失われて久しい、大樹の根のようにも、見えた。
 町中にのたくる根は町の中心部から伸びているようであり、女の大股の足取りは、迷いなく、根が生み出されているその方向に向かっていた。青年は、わざと一歩遅らせて、女の後を追いかける。
 その時、不意に何かが視界を横切った気がして、女と青年は同時に立ち止まる。二人は、お互いに目を見合わせて……実際には、女から青年の目を見ることは出来ないのだが……頷きあう。
 刹那、再び崩壊した建物の影から現れたものが、二人に飛び掛ってきた。
 それは、人の背丈ほどもある犬だった。だが、その体を包む毛は全てが鋭い針だ。ご丁寧に、剥いた牙までが金属質の光沢に覆われている。青年は女を庇うように前に出ると、腰から大振りのナイフを抜き放つ。
「三十秒!」
 青年の背中に、女が声をかける。青年はちっと舌打ちし、「簡単に言ってくれる」と口の中で呟きながらも、顔だけは真っ直ぐに鋼の獣に向けていた。
 獣は、当然女と青年のやり取りに構うことなどなく、自分の前に立ちはだかる『餌』を噛み砕こうとする。だが、青年はその瞬間に自ら前に出て、ナイフを握った腕を獣の口腔に叩き込んだ。
 表面こそ金属に覆われているが、口の中は普通の獣と変わらず、唾液に覆われた柔らかな肉でできていたようだ。青年のナイフは、狙い通りに獣の下顎を穿った。
 だが、その瞬間に吼えた獣は、そのまま青年の腕を食いちぎろうとする。即座に腕を引いた青年だったが、その皮膚に牙が食い込み、腕が半ばまで引きちぎられる。
 それでも、青年は顔色一つ変えず、逆の手でもう一本のナイフを引き抜いてみせた。痛みを感じていないのは明らかで、黒い服と白い皮膚の下に隠されていたのは、それこそ目の前の獣の色に似た、金属質の骨格と作り物の筋繊維だ。循環液を傷口から滴らせながらも、青年は体を低くして、獣の動きを待つ。
 一瞬体を傾がせた獣の目は、思わぬ痛打を与えてきた目の前の青年への怒りに燃えている。青年は喉から息を吐き出しながら、獣の牙をぎりぎりのところで回避し、すれ違いざま獣の目を狙ってナイフを放つ。だが、その一撃は、目を覆っていた硬い膜によって弾かれてしまう。
 口から泥のような血を流す獣は、今度こそ青年を噛み砕こうと、青年の華奢に見える体に向かって体当たりを仕掛けてきた。青年は避けることもせず、棘に身を貫かれながらも、なおも果敢に獣の急所を狙ってナイフを放とうとする。だが、流石に体格の差は覆せなかったのか、青年の体は獣の前足に押しつぶされそうになる。
 その時。
「……三十秒だ!」
 青年は吠えた。瞬間、獣の頭が、爆ぜた。
 いや、青年から見てそう見えただけで、事実は違う。
 青年が獣を引きつけている間に離れていた女は、その肩にほとんど大砲のような筒を担いでいた。鞄の中に仕込んでいた、組み立て式の携帯砲台。そこから放たれた弾が、決して脆いものではない獣の頭を、一撃の下に粉砕してみせたのだ。
 ぐらり、と獣の体が揺れ、今度こそどうと地面に倒れて動かなくなる。今の一撃のあおりを食って所々に小さな傷をこさえてしまった頭を撫でる青年に、女はにぃと獰猛な笑みを浮かべてみせる。
「三十秒ジャストだろ」
「……いつもいい加減なのに、そこだけは正確だよな、ジェイって」
「惚れてもいいんだぜ?」
「考えとく」
 屍となった獣の前足をどかして立ち上がる青年を尻目に、女は曇天に視線を映す。実際には、何を見ているわけでもなく、空気の中に混ざる音を聞き取っていた。そこには、今の獣が放っていた声とよく似た音が、混ざっていた。
「……今ので、他の獣も起こしちまったかな」
「急ごう。中に入れば、追ってはこないだろう」
「そうだな」
 女と青年は、お互いの武器を手にしたまま、にわかに獣の気配に満ちはじめた町の中を駆ける。壁を失った町は、これほどまでに脆いのだということを、痛感させられる。
 獣以外に生きたもののいない町の中心にあったものは、樹木のような、触手のような何かに覆われた、元の形も定かではない建造物だった。二人は迷わずそこに飛び込み、女がベルトに仕込まれていた灯りを灯す。
 闇が払われたそこは、外以上に異様な状態にあった。壁や床、あらゆるところに鈍色の根が張り巡らされているさまは、それこそ、生き物の体内に入り込んでしまったかのような錯覚を呼び起こす。
「……ルナ」
 ぽつり、と。女の呟きが、空間に反響する。
 女の青い瞳は、建物の真ん中にのたくる、根の発生源にあった。とはいえ、それ自体が根に覆われてしまって、その奥を見通すことはできない。
 武器を下ろした女は、そんな根の一つに触れる。温かくも冷たくもない、硬い根。それに向かって微笑みかけながら、女はジャケットのポケットから、握った手を引き抜いた。
「ずっと、会いに来られなくて、ごめんな」
 女の手の中にあるのは、薔薇の形をしたコサージュだった。微かにくすんだ、黄色の薔薇。それを、のたくる根の中にそっと置く。
「あの日、お前が咲かせてた、本物の花とは違うけどな。それでも、お前が好きだった花だよ、ルナ」
 女の声は、今まで彼女が放っていたものとは違って、酷く穏やかであり、かつ感傷的な響きを帯びていた。
 青年は、獣の気配に気を配りながらも、黙って女の背中を見つめていた。女が何故、ここに訪れようと思ったのか知っていただけに、言葉が出ない。
 ――かつて、この町には、既に世界から失われたはずの花が咲き乱れていた。
 ――かつて、この町には、女神と呼ばれる人物がいて、町に奇跡を起こしていた。
 ――かつて、この町には、この女を含めた三人の旅人が訪れて……
 その結果が、この惨状であることを知っていただけに、青年の口も重くなる。けれど、青年は、どうしても、言わずにはいられなかった。
「ジェイ……ルナリアは、もう」
「知ってる。どこにもいない。これは」
 自分で捧げた薔薇のコサージュを、自分の手で握りつぶして。
「自分で自分の妹を殺した、あたしの自己満足さ」
 女の声に、もはや先ほど見せた感傷の色はなかった。女は、長い睫毛に縁取られた目を瞬かせて、立ち上がって青年に向き直る。その表情は、やけにさっぱりとしたものであった。
「ありがとさん、シスル。依頼は、これで仕舞いだ」
「そういえば、行きの金しか貰ってなかったな……帰りは、どうするつもりだ」
 青年の声には、感情は篭っていなかった。ただ、女が帰りのことを考えていなかったとなれば、この根の奥に眠る誰かと共に「ある」ことを選ぶことを意味するではないか……と、青年が思いかけたその時、女は不意に、にやっと笑って言った。
「友達だろ? 町の外までエスコートしてくれよ」
 その、余りにもしれっとした要請に、青年は明らかな呆れ――そして、一握りの安堵――を滲ませながらも、きっぱりはっきりと言った。
「依頼だな。規定の金は貰うぞ」
「おーい! 傷心の美女相手にその仕打ちかよー!」
「自分でんなこと言う美女は見たことがない。よってアンタは傷心の美女じゃない。さあ金を払え」
「ほんっとーに、可愛くねええええええ!」
 女の叫び声と青年の笑い声が、かつての『楽園』の跡地に響き渡った。

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