幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

行きて帰りし後始末(4)
 途端、何かが、扉の向こうからあふれ出す。
 それを何と形容すべきか、俺にはわからなかった。色も形も定まらない、質量があるかどうかもヌイさんの視界越しには判断できない、けれどヌイさんを圧倒するほどの力をもって存在するらしい、何か。
 もはや濁流というべきそれは、ヌイさんの元より小さな体を押し流そうとする。それでも、ヌイさんは不安定な床を踏みしめ、壁にしがみつき、じりじりと前に進んでいく。
 ヌイさんの視界のほとんどを埋める濁流によって判別しづらいが、扉の向こう側は、さほど大きくもない空間であるらしい。おそらく、「かつてのヌイさんが住んでいた部屋」。見かけは変容してしまったが、まだ、間取りそれ自体は『こちら側』のそれを維持しているらしい。
 つまり、この、無限にあふれ出てくる何らかは、侵食する『異界』そのものと言うべきもの、なのかもしれない。この部屋の奥にあるであろう、ヌイさんお手製の異界潜航装置のプロトタイプは、今もなお『異界』の扉を開き『こちら側』を侵食し続けている。
 もはや壁にしがみつくのも諦めたのか、身体を低くして、ほとんど床を這うようにして、ヌイさんは何とか奥へと進んでいく。視界に入る手に、形容しがたい何かが絡みつく。そこから、肌の色がゆっくりと変化し始める。ヌイさんの意識体があるべき形を失おうとしているのが、わかってしまう。
 思わず、意識体を引き戻すシーケンスを開始しようと、タブレットの上に指を滑らせた――ことを、ヌイさんが気づいたはずもない。けれど、俺の動揺を読み切ったかのように、溢れる轟音の中にヌイさんの鋭い声が聞こえてくる。
「まだ問題ない! もっちー、意識体の変化率を確認して。いつもの水準以上、もしくはアタシが変な行動し出したら引き上げて」
 プロジェクトで行っている『潜航』でも、意識体が『異界』によって何らかの影響を与えられ、変化を見せることは当然あって、それを監視するための機構も当然備わっている。ヌイさんの言葉の通り、意識体の変化率を監視する画面を開く。まだ数パーセントにも満たないが、既に数パーセントの変化が起こっている、と言っても過言ではない。
 意識があるべき形から変化してしまってからでは、そして、ヌイさんが狂ってしまってからでは、遅いのだ。つまり、ヌイさんの指示は何一つ正しくない。正しくないとわかっていながら、俺は、すぐさま引き上げシーケンスを行えずにいた。
 ヌイさんはありとあらゆる色を混ぜ合わせた波をかき分けるように前進し続け、「あった」と掠れた声で言う。
 ヌイさんの視線の先には、タワー型のコンピューターをいくつか繋いだような形の装置。一瞬そんなシルエットが見えた、というだけで実態は定かではない。何しろそこを中心に濁流が発生しているのだから。
 ――異界潜航装置の、プロトタイプ。
 プロトタイプとは言うが、現在運用している潜航装置とは方式が違うだけで、『異界』への扉を開く、という本来の目的に関しては現在進行形で完璧にこなしている、もの。
 ヌイさんが、何をしようとしているのかはわからない。ただ、肩からかけた鞄から端末を取り出し、手探りで装置に繋いだのはわかった。その間にも不定形の何かがヌイさんの手に絡みつき、染み込み、ヌイさんの脆弱な意識を『異界』の色に染め上げようとする。
 顔にも降りかかるそれを手の甲で拭いながら、ヌイさんは一心不乱に端末を操作する。視界がちらついて、端末の画面もろくに見えない。俺に見えてないのだから、当然視界の主であるヌイさんにだって見えていないはずだ。それでもヌイさんは手を止めない。
 タブレットの端に表示させた、意識体の変化率はぐんぐん上昇している。まだ命綱を引き上げる条件には至っていないが、このままのペースで続ければ確実に『異界』に飲み込まれる。仮に飲み込まれなかったとしても、ひとたび意識体が変化してしまえば、意識を引き上げて肉体に戻したところで、元のヌイさんではなくなっているだろうし、二度と戻ることもない。俺が、『異界』の存在に接触する前のヌイさんを知り得ないように。
 ヌイさんがそれを理解していないとは思えないが、なおもオペレーションを続ける。ヌイさんの聴覚が捉える轟音とノイズでよく聞こえないが、どうも手を動かしながら何かをぶつぶつと呟いているようだった。とはいえ、これはよく聞こえなくて幸いだったのかもしれない。ヌイさんの持つ知識を下手に受け取るのは「メンタルに悪い」。つまるところ、正気の領域にない可能性が高い。
 だが、変化率が、『潜航』における上限値を振り切る。時間切れだ。俺は引き上げシーケンスを開始しようとして――。
「通った!」
 全ての雑音を貫くヌイさんの甲高い声。
 刹那、あれだけうるさく響いていた音が止み、視界を埋め尽くしていた無数の色彩も、ぴたりと静止する。まるで、そこだけ時間が止まったかのよう。
 もはや装置につないだ端末も、それを握るヌイさんの手も、元の形を失いつつあった。ひゅうひゅうと嫌な呼吸の音が聞こえてくるところを見るに、体にも影響が及んでいるのは間違いなさそうだ。
 何もかもが静止した世界で、ヌイさんだけが生きてそこに存在している。
 おそらく、ヌイさんは潜航装置への干渉に成功したのだ。そして、際限なく広がっていた『異界』の動きを止めるような何がしかの操作を行ったのだと、思っていたが。
 静止していたのは、たった数拍のこと。
 突如、視界を埋める色彩が爆発的な音とともに動き出す。先程の濁流よりもさらに激しい勢いで、今度は逆方向に流れ出す。つまり、目の前の異界潜航装置が、何もかもを吸い込もうとしているかのような挙動に変化したのだ。
 そういえば、さっきヌイさんは言っていた。装置の働きを逆転させるのだ、と。その言葉通りに、溢れていた『異界』が逆再生じみた挙動で本来あるべき場所へと収束していく。その場にいるヌイさんをも巻き込んで――!
 ヌイさんは手にした端末を投げ捨て、床にしがみつきながら叫ぶ。
「もっちー! 引き上げて!」
 その叫び声を聞くのとほぼ同時に、引き上げシーケンスを開始していた。シーケンスの開始とともに、ヌイさんの視界を映していた画面が暗転し、音声の取得も止まる。
 引き上げシーケンスとは、肉体と意識との目に見えない結びつきを利用し、空間的な隔たりを無視して強制的に意識を肉体へと引き戻す、荒っぽいにもほどがあるシーケンスだ。
 しかし、流石、異界潜航装置の導入開始から二年もの間エラーらしいエラーを吐かなかったヌイさん謹製のシーケンスだ。着実に各フェーズをクリアしていく。画面を埋め尽くすログにも、エラーの文字はない。
 そして、最後のフェーズも問題なくクリア、引き上げ完了を告げるログを吐いてタブレットの画面は静けさを取り戻す。
「ヌイさん、ヌイさん!」
 タブレットを放り出し、助手席のヌイさんの肩を叩く。ヌイさんは未だ目を閉じたまま、動く気配を見せない。
「ヌイさん、聞こえてます?」
 冗談じゃない、ここまで来てヌイさんが戻ってこなかったら、俺の寝覚めが悪すぎる。リーダーたちにもなんて説明すればいいんだ、と思った、その時。
「……っ、頭いったぁ……」
 ヌイさんの表情が歪み、掠れきった声が乾いた唇から漏れる。どうやらログが示していたとおり、引き上げは成功していたようだ。
 ヌイさんの瞼が開かれる。ぎょろりとした目の中で、ちいさな瞳がふらふらと彷徨う。
「大丈夫っすか? これ見えてます?」
 ヌイさんの目の前で手を振ってやると、数秒の後に目の焦点が合った。
「見えてる。あー、頭痛いし気持ち悪いし……。X、こんなの毎日やってたの、信じらんない」
 X。長らくプロジェクトが抱えていた異界潜航サンプル。今、ヌイさんが経験したような一連の『潜航』を日々こなし続けた、『潜航』のプロフェッショナルだ。超人と言い換えてもいい。本来「使い捨て」を想定していた異界潜航サンプルを、二年に渡って何一つ不足なく続けてきたのだから。
 とはいえ、そのXは|お務め《、、、》を果たしていなくなった。そういう取り決めだったから。
 で、当然ヌイさんはXではなく、あんなハイスペック超人と同じにするものではない。別のスペックは突き抜けているが、あくまでそれは「開発」に特化していて、別に『異界』に赴くのに向いているわけではない。
「動けそうです?」
 んー、と言いながら、ヌイさんは横になったまま腕をあげて、手を握ったり開いたりする。
「めちゃめちゃだるいけど、問題はなさそう」
 先程、ヌイさんの視界越しに見た、完全にあるべき形を失っていた手が脳裏に蘇るが、どうやら意識が肉体に戻ったことによって、本来の形と動きを思い出したらしい。手だけでなく、腕も足も、動かすのに支障はなさそうだ。
 呻きながら起きあがろうとするヌイさんを、肩を押して制する。
「すげー顔色っすよ。しばらく安静にしててください」
「ごめーん、ありがと」
「治ったら飯のひとつやふたつ奢ってください。めちゃくちゃ冷や冷やしたんすからね?」
「オーケイオーケイ」
 ひらひらと手を振るヌイさんは、顔色こそ最悪だが、声のトーンは普段と何一つ変わらない。ほんとにわかってるのか、この人。これだけ人のこと巻き込んどいてまるで悪びれる様子がないあたり、大物というかなんというか。
 ヌイさんが目を閉じて大人しくなったのを確認して、窓の外を見やる。フロントガラスの外は相変わらずおかしな色の空と、おかしな住宅街。『こちら側』の人類を拒む光景が広がっている。
「……さっきので、解決したんすか?」
 傍目には、何が変わったようにも見えない。先ほど、タブレット越しに見ていたヌイさんが何らかのオペレーションをしたのはわかったが、結局のところこの場で観測しているだけの俺には、何一つ実感が湧かない。
 そして、ヌイさんも目を伏せたまま「わかんなーい」と声を上げる。
「想定通りの動作してたからだいじょぶとは思うけど、時間が経たないとなんとも」
 時間をかけて『異界』がここまで広がったように、一度広がってしまったものをあるべき場所に押し込むのにもそれなりの時間がかかる、という試算らしい。これも結局のところ机上の計算に過ぎないから、時間の予測はしているけれどあてにならない、とはヌイさんの談。
「どうにせよ、結果がわかるのはまだ先ってことすね」
 そゆこと、とヌイさんは言って深く息をつく。
「あー、お上にも報告しなきゃ……。めんどくさ。仕事でもないのにレポート書かされるのマジ勘弁なのよね」
「言っとくけど、俺は手伝わないっすからね」
「えー、もっちーったらつめたーい!」
「そりゃ全部ヌイさんが悪いっすからね。ここまで付き合ったんですから、むしろ褒めてもらいたいもんすよ」
「それはそれ、これはこれじゃない! アタシのレポートがぐだぐだなの、もっちーが一番よく知ってるでしょ!?」
 ヌイさんは元より他人に見せるための資料を作るのを嫌うし、無理やり作らせても極めて下手くそだ。ものを作るために手を動かすのは好きだが、考えていることを人に伝わるように出力するのがとにかく億劫なのだという。そんなんだからいつまでも潜航装置の構造がヌイさん以外に説明できなくて、監査に「属人化」と苦い顔をされるのだ。ただ、クソ真面目にヤバい知識を出力されたらそれはそれで誰にも読ませられない禁書になりそうではあり、厄介に過ぎる。
「っつーか、案外元気っすね」
「そうね、そろそろだいじょぶそう。時間とらせたわね」
 ヌイさんが体を起こす。まだ顔色はやや悪いが、意識を引き上げた直後よりは幾分マシになっているようで、ほっとする。この調子なら、研究所に帰る頃には元気すぎて鬱陶しいくらいのヌイさんに戻っていることだろう。多分。
 倒していた背もたれを起こしながら、ヌイさんはぶつぶつ言う。
「落ち着いたら装置そのものも回収しないとね。悪用されても困るし」
「できねーっすよ、ヌイさん以外には」
 そりゃそっか、と不敵に笑ってみせる横顔は、どこまでも普段通りのヌイさんだ。
 ヌイさんが改めて助手席に収まったのを確認し、俺もシートベルトを締めてキーを差し込む。こんな奇天烈な場所に置かれていても、俺の愛車はしっかり動いてくれそうで胸を撫でおろす。こんなとこで周りと同じように歪んでしまっていたら、彼女に何て言えばいいんだ。いや、「この子、前よりかっこよくなったんじゃない?」とか言い出しそうなところはあるが。
 シートベルトを締めながら、ヌイさんが「ああ、そうそう」と顔を上げる。
「今日のこと、他の連中には黙っててね、特にあずみには。上には許可取ってるけど、アタシの独断だから」
「だと思いましたよ」
 だって、リーダーがあらかじめヌイさんの意図を聞いていたら絶対にリーダー自ら出向いていただろう。メンバーの責任はリーダーの責任でもある、とかなんとか言って。ついでに、人為的に開いた『異界』への興味を隠しもせずに。リーダーは極めて優秀なリーダーではあるが、結局のところそういう人だ。異界研究者には俺を含めてろくなやつがいない、というのは今に始まったことじゃない。
 誰の家かもわからない民家の車庫に車を突っ込んで、切り返す。どうせもう誰も住んでいないのだ、咎める奴もいない。
「あとさ、もっちー」
「何すか?」
 車の鼻先を元来た方向に向けたところで、ヌイさんを見る。ヌイさんは、未だちょっとばかり青ざめたツラながらも、妙にうきうきした調子で言う。
「久しぶりに外に出たんだし、ちょっと寄り道したいなー。この近くにハードオフがあって、ジャンク品のラインナップがなかなか」
「はいはい、今すぐ研究所に帰ってレポート書くんすよ。飯は書き終わった後に奢ってもらいますからね」
「やだー! いやぁー!」
 ぎゃあぎゃあ喚くヌイさんをよそに、アクセルを踏む。もちろん、目的地は我らプロジェクトの拠点である研究所だ。
「折角外出許可出たのに! そのまま帰るなんてありえないと思わないの!? ねえ!?」
「いやー、俺はヌイさんじゃないんで」
「信じらんない! 鬼! 悪魔! もっちー!」
 何なんだよその三段活用。何度目かもわからぬ溜息をついて、空っぽの住宅街を走り抜けていく。やがて、先ほど通過したものものしいバリケードが遠くに見えてくる。『異界』が完全に消えるまで時間がかかる以上はバリケードも戻しとかないと危険だな、と思ったところで、不意に、ヌイさんが口を開いた。
「ありがと、もっちー。付き合ってくれて、嬉しかった」
 意外なまでに殊勝な声音に、思わずそちらを見てしまう。対向車も後続車もいないし、わき見運転を監視するような人間もこの場にはいないから、ちょっとくらいは許されると信じて。
 かくして、ヌイさんは真っ直ぐに俺を見ていた。口元は少しだけ微笑んでいるように見えたけれど、その目は真剣そのものだった。
「アタシ一人で行ってもよかったんだけど。……まだ、もうちょい、『こちら側』に未練はあるからさ」
 ――だから、ありがとうを。
 ヌイさんの言葉に、俺は、すぐには口を開くことができなかった。
 そう、いつだって『異界』に行くのはそう難しくはないのだ。「行きはよいよい帰りは怖い」という古い歌のように。もしくはごっそり消えた異界研究の先人たちのように。問題はどこまでも「帰る」こと。ヌイさんが潜航装置のプロトタイプを弄ったあの瞬間、俺が引き上げなかったら、ヌイさんの意識はそのまま逆回しの渦に飲み込まれて、『こちら側』から消失していただろう。その状態から改めて引き上げが可能だったかと言われれば、正直自信がない。
 ヌイさんは元よりそれを予測はしていたのだろう。だからこそ、俺という観測者を連れて来た。自分の命綱を握らせるために。
 どうしようもなく勝手な人だ。振り回されるこっちの身にもなってほしい。
 だが。
「どーいたしまして」
 命綱を握らせていい、という程度の信頼を寄せてもらえていることは、素直に喜ばしく思ってしまう。その程度にはちょろい自覚がある。
 バリケードを戻すために一旦車を降りれば、空はすっかり見慣れた色で、周囲もありきたりな『こちら側』の景色に戻っていた。滞在時間は大した時間ではなかったはずだが、なんだかとても疲れてしまった。研究所に戻ったら、ヌイさんのレポート作成を監視しながらめいっぱい甘いものを食べたい。美味い肉でもいい。とにかくカロリーが欲しい。心からそう思う。
 それから――。
「ヌイさん」
「んー?」
 体の動きを確かめるかのように大きく伸びをしていたヌイさんが、声だけで返事をする。下手にこちらを見られても困ったので、よかったと思う。ヌイさんの目を見ていると、何もかもを見透かされているような気がしてくるから。
「ヌイさんは、いつか、いなくなるんすかね。『こちら側』から」
 ヌイさんは言った。まだ、もう少しだけ『こちら側』に未練がある、と。
 では、もし、その未練がなかったら?
 今日の出来事とヌイさんが語った話は、そのシミュレーションをするには十分に過ぎた。
 責任感の強いヌイさんのことだ、やらかしの後始末をする、という選択は変わらなかっただろう。だが、帰り道のことは何一つ考えなかったに違いない。一人で向かって、一人で解決して、そして誰にも知られぬままに姿を消していたはずだ。ヌイさん曰くの「アレ」を探して。
 かくして、ヌイさんはこちらに振り向き、「そうね」と俺の言葉をあっさり認める。
「あずみへの借りを返しきった頃には。あと、もっちーにも」
「俺?」
「世話になってる礼くらいはさせてよ、今日のことだけじゃなくてさ。アタシみたいな頭のおかしいおっさんの話に付き合ってくれるだけでも、得難い仕事仲間なんだからさ」
 そう、どうしようもなく勝手だが、それはそれとして義理堅く、律儀で、クソ真面目。ヌイさんは、そういう人だ。
 俺はバリケードに手をかけながら、わざと肩を竦めてみせる。
「じゃ、今日でまた貸しが一つ増えましたね」
「そ、アタシからすりゃでっかい借りよ。だから、アタシがいなくなるのは、相当先」
「ならいいんすけど。その間に、潜航装置についての資料は全部まとめといてくださいよ。監査がうるせーんすよ」
「ああーそんなの考えただけで憂鬱すぎるぅー」
 見るからに「がっくり」という仕草をするヌイさんを横目に笑う。ざまあみろ、というやつだ。
 まあ、もし本気で資料作成に着手するようなら、手を貸すのはやぶさかではない。今日のレポートは絶対に手伝わないと決めているが。唸るヌイさんの目の前でミニストップのアップルマンゴーパフェでも食ってやろう。そうしよう。
「ねーもっちー、飲み物くらいは買って帰ろ? 研究所の自販機、ろくなのないじゃない」
「まあ、そりゃそっすね」
 本当にクソみたいなラインナップの自販機を思い出して、こっちまでげんなりする。それこそ水以外を求めるなら、敷地の外のコンビニに行った方が数百倍マシというレベル。一体どこから集めてきたんだ、あの銘柄も怪しいジュースの数々。
 二人がかりでバリケードを引きずって、元の位置に戻して。人除けの物理的な結界には、もうちょっとだけ頑張ってもらうことにする。
「じゃ、行きましょ。喉乾いたし疲れたし」
 言いながらも、ヌイさんはバリケードの向こう側を振り返る。このまま『異界』が完全に閉ざされた後に、この先がどうなっているのか。それは、時が過ぎなければわからないことで、今の俺にはとんと想像もつかない。
 ただ、一度『異界』の存在に触れて変質したヌイさんの目には、俺に見えている以外のものが見えている――ことも、ある。だから、もしかしたら、ヌイさんは既に問いに対する答えを知っているのかもしれない。
 とはいえ、今、この場でそれを聞く気にはなれなくて。
「何飲みます?」
 俺が声をかければ、ヌイさんは小走りに車の方に戻ってきて、言う。
「アタシ、大吟醸がいい。最近ビールとチューハイだけで飽きてたのよね」
「ふざけんなよレポート書けよ」
「酒飲みながらでも書けるわよ! ほら今日は時間外だしさぁ、許されるって」
 ヌイさんの言うことをいちいち真に受けていたら話が進まない。それなりの付き合いになったし、これからも長い付き合いになる、ということらしいので、俺はもうちょっとヌイさんを適当にあしらう技術を身に着けた方がいいのかもしれない。
「ひとまず研究所近くのコンビニでいっすよね、何かしら売ってるでしょ」
「はーい」
 ヌイさんも流石にそれ以上のわがままを言う気はなかったらしく、元気な返事とともに車に乗り込む。俺も運転席に戻って、それからバックミラーでバリケードがきちんと道を塞いでいることを改めて確認し、それから。
「どしたの?」
 きょとんとした顔のヌイさんが、助手席に座っていることを、確かめて。
 本人が言うとおり、まだここにいるということを、確かめて。
「いーえ、何でもねっすよ」
 俺たちのあるべき場所に帰るために、アクセルを踏む。

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