「ほら、見てごらん、セイルくん」
名前を呼ばれて、セイルは改めて窓の外を見つめる。
そして、目を見開いた。
「……ここ、は?」
そこに広がっていたのは、黒ずんだ瓦礫の山。
いや、よく見るとそれは、建物だった。セイルの知らない形の建物が、いくつも海底に沈んでいる。崩れているものも多いが、そのうちのいくつかは、建物としての形をしっかり保ったまま、海の中に無言で佇んでいる。
瓦礫に埋まった道、ところどころに立つ柱、セイルには読めない文字がかろうじて見て取れる、ぼろぼろの看板。
『……俺も初めて見るが、これは……』
「海底遺跡だよ。我々蜃気楼閣ドライグが、代々の竜王の指示を受け、調査し続けているもの」
シュンランの棺も、このような遺跡の一角から発掘されたのだ、と。
クラウディオはそう言った。
セイルの手に重ねられていたシュンランの指に、力が入ったのがわかった。
シュンランは、やはり『存在しない時代』から来た人間だった、ということなのか。不思議な仕組みの『棺』に入れられ、女神が降臨してからの千年以上の時間を、そのままの姿で越えてきたということ、なのだろうか。
「生きた人間を千年単位で保管するなんて、魔法じゃ夢のまた夢だっていうのに……」
チェインは顎に手を当てて唸るが、それに対してディスは『けっ』といらだたしげに喉を鳴らす。
『 「棺」っつうくらいだからもしやと思ってたが、やっぱりコールドスリープか』
「こーるど……?」
『冷凍睡眠、って訳せばいいのか。その名の通り、人間の体の組織を特殊な方法で凍結して、時期が来たら解凍する技術だ。と言っても、俺も実物は見たことねえがな』
ディスの説明は、セイルにはさっぱり理解できない。人間は、体が凍ったら死んでしまうではないか。それで、どうやって生きたまま時間を越えることができるのだろう。頭の上に疑問符が飛ぶばかりだ。
しかし、ディスは己の思考に没頭しているのか、ぶつぶつと言葉を紡ぐばかり。
『そんな高等技術を確立させてたってのに、どうしてあっさり滅ぼされちまったんだか』
すると、相変わらず重たそうに俯いているブランが、ぽつりと言った。
「……世界が滅ぼされた理由、か。そいつが、使徒アルベルトの反乱の理由でもあるのかもな」
その言葉には、シュンランが高い声を上げた。
「どういうことです、ブラン」
そうだ、シュンランにとっては、使徒アルベルトは旧知であった可能性がある人物だ。シュンラン自身は何もかもを忘れてしまっているけれど……それこそが、シュンランの記憶の手がかりであるかもしれない。
ブランは「んー」と頬をかく。
「まず、使徒アルベルトは……や、使徒って呼ばれる連中が、女神に創られたって伝承が嘘っぱちである、って前提から話を始めさせてくれ」
「……何故?」
チェインの問いに、ブランは「そりゃあねえ」と肩を竦める。
「異端研究者の定説じゃ、使徒って呼ばれてた連中は女神降臨以前から存在してる。正確には、女神がこの世界を楽園って形にする以前から、だな。一番の証拠は、さっきシュンランが言ってた『アルベルトはわたしを知ってた』って言葉だ」
わかるな、とブランの氷色の瞳がチェインを射る。チェインは、はっとしたように目を見開いて言った。
「そっか、そうだね。女神降臨以後に生み出されたなら、『存在しない時代』の遺跡から発掘されたシュンランのことを知ってる理由がない」
「そゆこと。その手の証拠は他にもいくつかあんのよ。とはいえ、使徒って呼ばれる連中が、女神にとってどういう存在だったのかは未だ闇の中。使徒アルベルトが女神に逆らった理由もまた、闇の中ではある。だから俺様からは何を言えるってわけじゃねえのよ」
「そう、ですか……」
誰がどう見ても落ち込んでいるとわかる表情で、シュンランは肩を落とした。これには、流石のブランも戸惑ったのか、手を上げたり下ろしたりと落ち着かない様子を見せた。多分、どうしてよいかわからなかったのだと思う。
そんな挙動不審のブランをセイルの内側から睨みつつ……ディスはぼそりと呟く。
『アルベルト・レコードも、理由については語ってなかったもんな』
「推測するにも材料が足らなさすぎて、単なる妄想にしかならんからねえ。本人から聞ければ一番早えんだけどねえ」
けれど、その本人である使徒アルベルトは、遠い昔の人物だ。蜃気楼閣に記録だけは残っていたけれど、あれはあくまで一方向の伝言でしかなく、自分たちが彼について、そして彼が見てきた時代について、問いかけることはできない。
セイルは、再び窓の外を見つめる。灯りに照らされた廃墟は、やはりセイルたちに何も語ってはくれない。昔は、ここも地上にあって、人が行き交っていたのだろうか。そこにいる「人」は、自分たちと同じものだったのだろうか……シュンランがその時代の人である、という証拠がある以上、今とそう変わらない気はするけれど。
シュンランは、窓に張り付いたまま、動かない。すみれ色の瞳に映りこむ世界に、何を思っているのだろう。
「……何か、思い出した?」
恐る恐る問いかけてみるけれど、シュンランは、悲しげに首を横に振る。
「わかりません。ただ……アルベルトを見た時。この町を見た時。不思議な感じがしたのです」
この辺が、と言ってシュンランは己の小さな胸を押さえる。
「ぐるぐる。もやもや。何かが引っかかっていて、時々、懐かしい景色が目に映ります」
アルベルトの映像を見ていた時も、そうだった。シュンランは、何もかもを思い出したわけではなかったが、遠い昔にアルベルトと共にいた、その時の風景を断片的に思い出していたようだった。
「壁。壁に囲まれた町と……空に向かって、伸びている塔。空はいつも灰色で、とても、とても寒かったことは、覚えています。わたしはいつも、誰かと一緒に歩いていました。それが、アルベルトだったのでしょうか……」
きゅ、と。白い指先が窓に嵌められた硝子を擦る。
「世界を救う。その役目を果たすために、歩いていたことは確かなのに……わたしが救いたかったものは、何だったのでしょうか。わたしが眠っていた理由は、何だったのでしょうか。どうしても、わかりません」
唇を噛んだシュンランの横顔は、痛みを堪えているようにも見えた。
何もかも、何もかも、遠い過去に置き忘れてきたまま、知らない場所に目覚めて。そうして、やっとのことで思い出せた断片も、既に何もかもが失われてしまったもので。セイルには、シュンランが考えていることを想像することはできない。ただ、今この瞬間シュンランが辛い思いをしているということだけは、はっきりと、わかった。
だから、重ねたままだった片手を、強く握りしめる。
シュンランは、驚きに目を丸くして、セイルを見つめた。澄み切ったすみれ色の瞳から目を逸らさないように真っ直ぐ顔を向けて、セイルは繋いだ手の感触を確かめながら、問いかける。
「大丈夫?」
大丈夫、とばかりに白い顎が頷こうとして……考え直したのか、ゆるゆると横に振られる。
「やっぱり、だいじょぶじゃないです。少しだけ、苦しいです」
ぽつりと、落とされた言葉は、シュンランの心からの言葉だったに違いない。強大な力をその身に抱え、いつでも誰の前でだって気丈に振舞ってみせるけれど、本当は、一人のちいさな女の子でしかない。それは、握った手の小ささからも、わかる。
わかっていなきゃ、いけなかったんだ。そう、セイルは思う。
そんなことにも気づかないまま、いつもシュンランに助けられてばかりでいた。弱気になりがちな心を何とか奮い立たせていられたのは、シュンランが横にいたからだ。彼女が見ていてくれると思うから、今まで頑張ってこられたのだ。
ならば、今は。
そっと、握った手にもう片方の手を重ねる。こんな時、どんなことを言えばいいのか、セイルにはどうしてもわからない。どんな言葉も、今のシュンランにかけるには、足らないような気がしていた。
そんな自分が、気持ちを伝えるにはこれしかないと思った。シュンランと出会ってから、今までずっと、こうしてきたのだから。
重ねた手、伝わる温もり。誰かが確かに横にいるという、感覚。それが今の今までセイルを救ってきたのだから、きっと、シュンランの助けにもなるはずだと信じて。
呆然とセイルを見つめていたシュンランは、いつもより少しだけ温度の低い、柔らかな指先でセイルの手を握り返して……緊張が解けたのか、ふわりと、花咲くように、笑う。
「ありがとうございます、セイル。あったかいです」
そうかな、とセイルもはにかむ。シュンランは再び窓の外に視線を向けて、小さく呟く。
「この風景を見ていると、少しだけ、寂しいです。しかし、すごく寂しいはないです。わたしは独りではないです。セイルが、手を握っていてくれますから」
深淵に葬られた町、終わってしまった世界。それらから決して目を逸らさずに、シュンランははっきりと言葉を放つ。
「わたしのこと、わたしの記憶は、気になります。しかし、まずは『機巧の賢者』と話をすることを考えます。彼には、言いたいことがたくさんありますから。セイル……ここから先も、よろしくお願いします」
「うん。もちろんだよ」
お互いに、手を握り合って、笑顔をかわして。
ここから先に待つものを考えれば、笑ってなどいられない。それでも……今は、笑顔でいたいと思う。シュンランの笑顔を、見ていたいと思う。それは、きっと、セイル一人のわがままなんかではないと、思いたい。
低い音を立てて進む船は、巨大な町の上を進んでゆく。先行する船からの通信が時々拡声器から聞こえてきて、逐一クラウディオがそれに指示を出す。いくつかの言葉が交わされたが、北へ――クラウディオの指示は、それに尽きた。
実のところ、手がかりはほとんどない。ノーグ・カーティスの待つ場所が「世界樹の苗木」と称される塔、『シルヴァエ・トゥリス』であることはわかっているが、それが、今も塔という形で残っているとは限らないのだ。
このまま、見つからないなんてことはないと思いたいが……。胸の奥がちりちりするのを感じながら、闇の奥の奥まで見通そうと、目を凝らしたその時だった。
ぼんやりと、船の進む先に何かが見えた、気がした。深淵の中に淡く光る巨大な何か。
息を殺して見つめていると、やがてそれが、一つの建造物であることがわかってきた。死んだ都市の中心に一際高く聳えるそれは……塔。
地上で見た『シルヴァエ・トゥリス』は、そのほとんどが地中に埋まっていて、その全容は外側からは見てとることができなかったが、ここでは、かつて地上に存在していた形そのままの姿を晒していた。
水中にあってなお腐食を知らない不思議な金属の壁面。そのところどころに取り付けられた灯りが、塔全体の輪郭を青白く闇の中に浮かび上がらせていた。それは、不毛の大地に聳える一本の大樹のようにも、見えた。
「……生きてる」
ぽつり、と。思わず、唇から言葉が零れ落ちる。
そうだ、あの塔は生きている。全てを拒む深淵において、確かに息づいている。
「はい。聞こえます。何かが動く音色、生きている人の呼吸が」
シュンランも、セイルの手を一際強く握って、呟く。
あの場所に、兄が待っている。それは、もはやセイルの中では確信だった。誰が何を言ってくれたわけでもない、だが、間違いない。あれこそが『エメス』の本拠地であり、ノーグ・カーティスが己の居城として選んだ場所だ。
船は塔の壁面のすぐ側まで近づく。こちらの接近に気づいていないのか、すぐに塔から何か仕掛けられる気配はない。クラウディオの指示により、三隻の船は散開して入り込める場所を探して塔の周囲を巡り始める。魔法の灯りともまた違う淡い輝きが、窓から船の中にまで差し込んできて、幻想的な陰影を描く。
だが、セイルの目で見る限り、入り口に当たる場所は見あたらない。そもそも、『エメス』に属する異端研究者たちは、どうやってこの場所に辿りついて、中に入っているだろうか。それこそ、この船のような手段を用いない限り、そう簡単に到達もできない場所のはずなのだが。
そこに思い至った瞬間、しゃらり、という音が鳴った。聞き覚えのある、鈴の音色。
はっとして振り向くと、塔から差し込む光を浴びて、極彩色の道化が立っていた。いや、立っているという言葉は正確ではない。鈴をつけた靴の裏側は、床に触れてはいなかったから。ほんの少しだけ浮かんだ道化の少女、ティンクルは黒く塗った唇をにぃと笑みにする。
「わあ、本当にここまで辿りつけたんだ。すごーい」
体中に取り付けた鈴の奏でる音と似た、高い声。シュンランの声も柔らかな鈴のような響きを帯びているが、何故だろう、ティンクルが放つ声はそれとは違って、痺れるような嫌な感覚を鼓膜に残す。
いつものことながら突然の『エメス』からの刺客に、息を飲んで身構えるチェインとクラウディオ。セイルも、すぐに飛びかかれるように膝を立て、シュンランを庇うように腕を広げるが、ブランだけは相変わらず重たそうに頭を上げて、ひらひらと手を振った。
「なあに、こんなとこまで何か御用?」
無意味に俺らをからかいに来たわけでもないでしょう、とブランは視線だけは鋭くティンクルを見据える。ティンクルは一際嬉しそうに微笑むと、とん、と床を蹴ったかと思うとブランの目の前に瞬時に移動する。
そして、手袋を嵌めた両手でブランの頭を持ち上げる。黒と青の双眸が、ブランの顔を映しこんで弧を描くのを、セイルはただ、見ていることしかできない。
「あなたを、迎えに来たの」
今にも唇が触れそうな距離まで近づけられた白塗りの顔を、無表情のままに睨んだブランは、静かな声で言った。
「それは、賢者様の指示……じゃねえな。何企んでやがる、嬢ちゃん」
「うふふ、秘密っ。あなたは、黙ってワタシと一緒に来ればいいの。あなたの一番会いたい人にも、すぐ会わせてあげる」
言って、床に落ちていたブランの手を取ろうとするが、その手はあっさりと振り払われる。ブランの声は、あくまで感情を映してはいなかったが、セイルには、そこに含まれた怒りが手に取るようにわかった。
「ふざけるな。俺一人で奴に会う気はねえ、それこそ賢者様の思うつぼだ。俺を連れてこうっていうなら、こいつらも一緒に連れて行け。さもなきゃ帰れ」
「あなたに命令される筋合いはないよ。ワタシがあなたを連れて飛んじゃえば、誰も追いつけないもん」
「それより、俺が手前の頭をぶち抜く方が早い」
きっぱりと、ブランは言い切った。その手は銃にかけられてはいなかったが、妙な説得力があった。それでも、ティンクルはなおも言い募ってみせるかと思ったが……意外にも、唇に浮かべた笑みを深めた。
「ぶち抜かれるのは嫌だなあ。それじゃ、みーんな一緒に連れてってあげる」
「……何?」
その答えは、ブランにも予測できなかったのだろう。呆然とするブランの頭から手を離し、ティンクルは部屋にいる全員を見渡す。
「ほんとは、あなただけがよかったんだけどね。でも、ノーグは困るかもしれないけど、ワタシは困らないからいいの」
くすくす、という笑い声が、鈴の音に重なって不快に響く。ちりん、と揺れる鈴の一つ一つから、硝子の欠片を思わせる、金色の光が零れ落ちる。魔法の光とも、機巧が生み出す光とも違う不思議な光。
「そう、これでいいの。これで、いいの」
黒い唇が、笑顔に反して、感情の色がすっかり抜け落ちた言葉を放つ。その瞬間に、ぐらりと視界が揺らぎ、セイルは慌ててシュンランを抱き寄せる。シュンランは、真っ直ぐにティンクルを見据えたまま唇を開こうとしていたが、その声がセイルの鼓膜に届く前に、視界が金色の光に染められて、体が虚空に投げ出される。
空色少年物語