船――と、呼ばれるそれは、瓜のような形をした、鋼の塊であった。
船といえば、木材と魔力を通した撥水布、それとマナと親和性の高い金属を使用したものしか見たことがなかったセイルにとって、海底を進むというその船は、奇妙としか言いようがなかった。
そんなことを考えていると、クラウディオが扉に当たる場所を開き、セイルたちを中に招いた。
人一人がやっと入れるくらいの入り口をまたぎ、中に入る。すると、無数の導管が走り、セイルの見たことの無い機巧……おそらくは計器の類……があちこちに置かれた狭い空間が広がっていた。
「操舵室はこの奥、そして君たちの部屋はこっちだ」
クラウディオの声に、思わずセイルは辺りを見回してしまう。辺りを埋め尽くす計器や導管と同じ色をしていたために、そこに扉があるとは気づけなかったのだ。そんな、やはり小さな扉の奥には、決して満足な広さはないが、流石に見慣れぬ機巧に埋め尽くされているわけではない部屋が広がっていた。
壁には小さな丸い窓が取り付けてあり、水を防ぐためだろう、分厚い硝子が嵌め込まれている。今は船の外にある灰色の壁しか見えていないが、海に潜った時にはどのような光景が見られるのだろう――そんなことを、思う。
「私は出航の準備をしてくるから、君たちはここで待機していてくれたまえ」
「はい、わかりました」
セイルが答えると、クラウディオはそのまま細い通路に消えていった。体を屈めて部屋に入ったブランは、「さて」と床に座り込んで言った。
「今のうちに、情報を整理させてくれ。俺様寝てたから、ここに来てからのことよくわかってないのよね」
ねえチェイン、とブランはチェインに視線をやる。ブランが体調を崩して寝込んでいる間、ほとんどチェインが付きっ切りで看病していたらしい。セイルが様子を見に行った時は、丁度ブランが寝ていて、容態を確かめることはできなかったけれど……
シュンランは、ブランの前に座り込んで、その常に青白い顔を覗き込む。
「ブランは、大丈夫なのです?」
「ん、今は活動に支障ねえ。きっと、姐御の献身的な看病のお陰ね。感謝感謝」
「……アンタって奴は」
チェインは人差し指で眼鏡を押し上げ、溜息と共に言葉を吐いた。しかし、ブランはしれっとしたもので、「で、どうなのよ」とセイルに話を振った。
「と言っても、何か特別なことがあったわけじゃ……」
と言いかけて、ふっと思い出されたのは、この男と同じ氷河の色をした瞳。
「そうだ、俺、使徒アルベルトに会ったんだよ」
そう言うと、チェインが「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。ブランも目を見開いたようだったが、すぐに何かに気づいたように、ぽんと武骨な手を打った。
「あ、いや、あれか。アルベルト・レコードだな。使徒アルベルトが蜃気楼閣に残した、映像と音声の記録」
「知ってるの?」
「 『レザヴォア』に保持してる記憶で存在は知ってるが、実物は知らん。奴が何を言っていたのかも、一部しか知らねえが……お前は、見たんだな」
「うん。ディスは、マナを持ってる人は見られない、って言ってたけど」
「そうなのよねえ。だから、俺様の血筋じゃ見た奴がいないんよ。何を言ってたか……って、お前に聞いてもわからねえか」
それは、そうなのだ。あの時アルベルトが話していたのは、今セイルたちが使っているものとは、全く異なる言葉であったから。ディスから少しは内容を聞かせてもらったけれど……と思いかけた時、シュンランが言った。
「アルベルトは、何故か、わたしのことを知っていました。そしてこの世界が、一度ユーリスによって壊された、と言っていました」
ぽつり、と放たれた言葉に、チェインが目を剥く。
ディスは「世界を一度まっさらにした」と言っていたけれど……それはつまり、シュンランのいう通り、女神ユーリスが己の手で世界を壊したことを、意味するのだ。
「それから、女神ユーリスは、自分の思い通りの世界を創ったんだって、ディスが説明してくれた」
「それは……本当なのかい?」
チェインは、震える声でセイルたちを見渡す。その問いに、セイルは答えられない。アルベルトの言葉が全て真実だという証拠はどこにもない。だが、ブランは天井の辺りに視線を彷徨わせながら、言葉を落とす。
「異端研究者の間じゃ定説だ。遺跡を発掘してるとわかるが、『存在しない時代』ってのは発達した文明を持っていたはずだが、それがある時期に、一夜のうちに滅んでんだ。それは人知を超えた力を持ったもの、それこそ女神のような存在が力を振るったからだ、ってさ」
そして、その滅ぼした世界の上に、女神ユーリスは今の楽園を創り上げた。
かの時代には存在しなかった力……マナで世界を満たし、人に魔法という技術を与えた。その一方で、かつて存在した世界を知ろうとする者たちを、厳しく取り締まった。そうして、虚実入り混じった神話を伝えていくことで、今の楽園がある。
「ま、これも一説に過ぎん。仮に事実だとしても『女神がどこから現れたのか』 『どうしてそうしたのか』の説明にはならねえしな」
その言葉に、シュンランははっと顔を上げた。
「そうです! ユーリスとは、何なのでしょう」
「何、ってのは?」
「ずっと、不思議だったのです。アルベルトは、ユーリスが自分と同じ人であるかのように話していました。ユーリスは、わたしたちと同じなのです?」
まさか、とセイルは思う。
今の話が全て正しかったとしても、世界を壊して創り出すような存在が、人と同じものであるとは思えない。そう言った使徒アルベルト自体が、普通の人であるかどうかはわからないのだ。単純に同じものと考えるのは危険ではないだろうか。
――ディス、どう思う?
『どうだろうな。俺は、ありえる話だと思ってるが』
思わぬ言葉に、セイルの目が丸くなる。ディスはぶつぶつとセイルの内側で何かを呟いていたようだったが、やがてはっきりと言った。
『ただ、情報が足らん。アルベルトをはじめとした使徒たちが、ユーリスとどのような関係性だったのか。そもそも女神や使徒ってのはどういう連中だったのか。伝承を鵜呑みにできないとわかった以上、その辺を精査する材料がねえと、何とも言いがたい』
「ディスの言う通りだな。俺らには、その辺の事実関係を判断する材料が少なすぎるんよ。だが、何故『存在しない時代』が滅びたのか、といえば女神がやったってのが定説ってだけ」
妙な沈黙が、流れた。
女神ユーリスとは何なのか。当たり前すぎて、考えも及ばなかったことだ。
「……アンタらと一緒にいると、頭が痛くなってくるよ」
沈黙を破って放たれたチェインの呟きも、決して、誇張ではなかったはずだ。セイルだって、頭の中がぐるぐるして、軽い痛みを訴えているのだから。そんなチェインを一瞥し、ブランは素直に「すまん」と謝罪の言葉を口に出した。
「こういう話はしない方がよかったか」
「まさか。確かに、嫌な話ではあるけどね。それでも、聞くべきだと思うよ。ここから先を目指すなら」
膝を立てて座るチェインは、膝の上で白い指を組む。分厚い眼鏡の下から覗く青い瞳は、虚空を見据えたままに。
「 『エメス』の存在だって、今の話と無関係じゃないんだろう? 奴らは、それを根拠に女神に楯突く」
「……ま、基本理念としちゃそういうことだな」
ブランの言葉には、歯にものが詰まったような響きが混ざっていた。基本理念としては。ということは、別の考え方もあるということだろうか。もちろん、チェインがそれに気づかなかったはずはない。ぴくりと眉を動かしたが、あえてブランに追及することもなく、言葉を続ける。
「理解、しなきゃならないと思うよ。盲目のままに終わらせるのは簡単だけど、私は嫌だね」
きっぱりと放たれた言葉に、迷いはない。もちろん、聖職者としての戸惑いもあるのだろうが……チェインはチェインなりに、目を逸らさないと決めたのだろう。それが、チェインの持つ心の強さであり、どこまでもひたむきな誠実さでもある。
『すげえよな、チェインは』
セイルの頭の中で、ディスが、感嘆の溜息を漏らす。
『本当に、すげえよ』
微かな、苦みを加えて。
ディスは、どのような心境でチェインの言葉を聞いたのだろう。ディスは、ディス自身が言っていた通り、女神や楽園の存亡からは一歩引いた視点を持つ。そんなディスから見たチェインは、きっと、セイルから見たチェインの姿とも、異なって見えたに違いない。
「それで、他に何かわかったことはあったのかい?」
そのチェインに促され、セイルは少しだけ思考を巡らせて、あの時に見たこと、聞いたことを思い出す。それから、ディスと交わした言葉を思い出して、言った。
「そうだ、『レザヴォア』! ブランは使徒アルベルトの血を引いてるから、『アーレス』と『レザヴォア』を使えるんだって……」
これは、ブラン自身も既に知っていたのか、セイルの言葉を聞いたところでさして驚いた様子はなかった。
「そういやアルベルト・レコードでその辺が語られてるんだっけか」
「うん。それに……アルベルトの映像を見たんだけど、すごくブランに似てたんだ」
「そいつあ初耳だ。俺様に似てるとか、よっぽど目つき悪いのな、アルベルトさんったら」
そして、自分の目つきが悪いことにも、自覚的ではあったらしい。
「それで、ディスが言ってたんだけど、兄貴も『アーレス』使いらしいけど、『レザヴォア』は持ってるのかなって」
「ん、最低でも、賢者様が『レザヴォア』に接続できねえってことはわかるわよ」
セイルの問いに、ブランはあっさりと言い切ってみせた。もちろん、それだけの説明では何もわからない、ということはブランにもわかっていたらしく、すぐに言葉を付け加えた。
「現時点で『レザヴォア』を閲覧できてるのは、楽園中でも俺様だけだ。俺様にわからないやり方で接続してる、ってんなら話は別だが……賢者様に限ってそりゃねえな。もし『レザヴォア』が閲覧できてるなら、とっくにこっちの動きはバレてるはずだもんな」
そこまでは、ディスが推測した通りの答えだ。だが、ブランはそこにもう一つだけ、ディスやセイルの想定とは違う言葉を加えてみせる。
「それもあって、賢者様は俺様が欲しいらしいのよ。ここ数百年に渡る楽園の記憶を蓄積した『レザヴォア』に唯一接続できる、俺がね」
「……どう、して?」
「さあ、そこまでは俺様にもわからねえ。前にも言ったとおり、そいつは深遠すぎるのか、馬鹿馬鹿しすぎるのか、とにかく俺様の理解からはかけ離れてらあな」
無表情ながら、ブランは大げさに肩を竦めてみせた。
『レザヴォア』がとてつもない機巧にして能力であることは、把握できる。使徒アルベルトの血を引く者たちが紡いできた数百年分の記憶を、劣化なく保持しているのだ。それは、誰かの視点を通した記憶……主観の積み重ねだったとしても、極めて貴重な記録だ。
それを一手に握っているブランの存在は、あらゆる方面にとって、手元に置くに値するに違いない。だが、それにしても『エメス』の……『機巧の賢者』ノーグのやり方は過激に過ぎる。果たして、そこまでの価値がブランにあるというのだろうか。どうも、そこがわからずにいる。
「とにかく、『レザヴォア』でこっちの動きを察知される心配はねえよ。俺様からも奴の動きは見えねえから、結局お互い様だがな」
その場合、『アーレス』の使えない自分の方が不利ではあるが……と、言ってブランは目を細めた。笑ったのかもしれない。
「その分、お前らに頼らせてもらうさ」
「……うん!」
セイルは、力強く頷く。己の力がブランの助けになるというなら、頷かない理由はない。
その時、がくん、と船体が揺れた。はっと顔を上げると、窓の外に映っていた壁が動きはじめ、窓の下から水がせり上がって来る。いや、正確にはこの船がゆっくりと沈み始めているのだ。
すると、壁と天井の間に取り付けられている拡声器から、クラウディオの声が聞こえてきた。
『動作が安定するまで、しばらく、その場から動かないように』
セイルは、息を飲んで窓の外を見つめる。低く震える音と共に、船はすっかり水面の下に潜り込んでしまったようだった。微かな光がさすだけの、真っ暗な水中が窓から見て取れる。耳が微かに痛むが、おそらくは船自体に何かしらの処置がされているのだろう、それ以上の圧迫感はない。
そして、船は動き出す。暗い蜃気楼閣の格納庫から、楽園の大海へ。
その瞬間、窓が、鮮やかな青に染まる。
思わず、セイルは「わあ」と声を上げていた。太陽の光をいっぱいに浴びた海は、淡い青色を水面下に広げていた。きらきら光る小魚たちが、音もなく船の横を通り過ぎていき、何かもわからぬ巨大な影が遠くにちらついては見えなくなる。
小さな泡が、銀色に瞬いて上へ昇っていく姿は、まるで星のよう。夏の空に見える、星屑の河を思わせる帯となって、空の向こうへと消えていく。
水の中から見た世界は、地上で見るどのような光景とも違った。動くな、と言われたのも一瞬だけ忘れて、膝立ちになって壁に張り付き、シュンランと一緒になって窓を覗き込み、あれは何だろう、これは図鑑で見たことがあると他愛の無い言葉を交わす。
だが、ゆっくりと流れていく風景は、徐々に暗さを増していく。深い、深い青に支配されゆく世界を見つめていると、最初に感じた高揚に増して、じわりと暗いものが押し寄せてくる。鮮やかな青から闇へのグラデーションを描く世界。その先に待つものが、底の無い穴のように感じられて、背すじがひやりとする。
深く、深く、もっと深く。船は沈んでいく。微かな唸り声と共に船の外部に取り付けられている明かりが灯ったようだったが、それでも黒々とした世界をかろうじて映し出すだけで、その先を見通すことはできない。
こんな場所に、兄はいるのだろうか。
息もできない、船を一歩出れば押しつぶされてしまうだろう、深淵。そこには、命の気配も感じられない。図鑑を信じるならば深海にも生きているものはいて、独自の生態系を築いているらしいけれど……この光景を見る限りは、にわかに信じられない。
すると、背後の扉が開き、クラウディオが入ってきた。セイルたちが窓に張り付いている間、壁に寄りかかって俯いていたブランは、重そうに頭を上げて言った。
「操舵室空けて大丈夫なのか?」
「ああ。先行している船を追尾するように、指示を入力してきたから問題ない」
「なーる。やっぱり蜃気楼閣の技術ってすげえよな。地上の異端じゃどう足掻いても追いつけやしねえ」
「何、全ては過去の遺産を借りているだけだけで、本来は我々の手には負えないものだよ」
クラウディオは苦笑して、そっと白い手袋をした手で窓に触れる。
過去の遺産。それが、一般的に『存在しない時代』と呼ばれる時代の遺物であることは明らかだ。女神ユーリスに滅ぼされたという、もう一つの世界。この世界が楽園と呼ばれる以前からあったという、世界。
「そして……もしかすると、彼ら自身の手にも負えなかったのかも、しれないけどね」
セイルは、クラウディオを見た。眼鏡の下から覗く赤い瞳には、どこか憂いにも似た光が宿っていた。
空色少年物語