空色少年物語

幕間:惑える剣

 ――これでよかったのか、『ディスコード』?
 ディスは己に問いかける。
 相棒、セイルは己の道を定めた。シュンランの手を取り、剣を右手に『機巧の賢者』ノーグ・カーティスを追い続けるという道を。そして、セイルは自分たちを裏切ったブランを仲間と認め、兄ノーグを殺すというチェインとも共に歩み続けることを選んだ。
 ディスはその全てを認めた。認めるも何もない、これはセイルの進む道だ、セイル自身が決めたことにディスが口を挟んでいい理由は無い。
 けれど、けれど。
 ――俺は、何も言わなくて良かったのか?
 ディスは軽く唇を噛む。
 セイルに言うべきことはいくらでもあったはずだ。だが、その全てがディスの心の中で渦巻くだけで、言葉にはならなかった。この「心」が結局は紛い物であることも、理解していながら。心を奪われたブランを笑えた義理じゃない。笑いたかったわけでもないが。
 セイルには、伝えなければわからないなんて言っておいて、誰よりも自分が一番何もかもを隠している。その事実から目を逸らし続けている。
 今からでも遅くない、セイルに伝えるべきだ。そう囁く声と、自分が言うこともないではないか、と囁く声が聞こえてくるようで、頭を抱えたくなる。抱える頭があれば、という話であり……今、ディスは実際に頭を抱えていた。
 セイルが眠った後、ディスが体を借りることはよくあることだ。途中でセイルが目覚めることもあるが、今は随分深い眠りに落ちているようで、起きてくる気配は無い。
「……って、愉快なポーズしてる場合じゃねっつの」
 自分で自分にツッコミを入れて、ディスは頭を上げる。暗闇の中で頭を抱えて徘徊しているところを見つかったら、『紅姫号』の愉快な連中に一体どんな噂を立てられるかわかったものではない。セイルが。
 それでも、ディスは部屋から抜け出して、足音を立てないように気をつけながらも建物の中をあてもなく歩く。
 セイルはぐっすり眠っているけれど、どうも、ディスにとっては眠れない日が続いていた。
 眠るのが、怖かった……と言い換えてもいい。
 いつもならば、セイルの体のためにも横になったまま朝が来るのを待つのだが、今日ばかりはどうしても落ち着けないまま、ふらふらと歩き回っていた。
 これから自分はどうするつもりなのだろう、それすらも自分自身でわからないまま歩いていると、目の前の扉がほんの少しだけ開いていて、そこから光が漏れていることに気づいた。
 シエラ一味の隠れ家の中で、船員たちが集って食事をする食卓だ。隙間から覗いてみれば、天井に取り付けられた大きな窓の下、テーブルの隅に誰かが肘を突いて座っていた。それが誰なのかも、ランプの光に揺れる影だけでディスにはわかった。
 少しだけ躊躇ったものの……見て見ぬふりで通り過ぎることも出来ず、扉を開く。
 きぃ、という扉が軋む音に、人影もはっと振り向いた。視線が交錯しかけたが、ディスはすぐに視線を逸らして俯かずにはいられなかった。人と目を合わせるのは、いつになっても苦手だったから。
「ディス。こんな時間にどうしたんだい?」
 椅子から軽く身を乗り出すようにこちらを見ていたのは、チェインだ。ディスは視線を逸らすついでに食卓の上を見た。きっと船長シエラの趣味なのだろう、やけに可愛らしい茶器が揃えられていて、茶菓子の小さな盆もある。
 ディスはチェインの横の椅子を引いて座り、横目でチェインの顔を伺った。
「セイルじゃねえってわかるんだな」
「そりゃあ、顔つきが違うもの。どうしたんだい、また眠れないのかい?」
「ああ、ちょっとな」
 チェインは「そうかい」と静かに言って、もう一つ茶器を出してきて、香辛料をひとつまみ混ぜた紅茶を注いでくれた。もちろん、ミルクと砂糖もいっぱい入れて。紅茶の柔らかな香りが広がって、ずっとざわめいていたディスの心もほんの少しだけ落ち着く。
 落ち着いて、改めてチェインを見れば、チェインはディスのことを見ながらも、その視線は遥か遠いところを見ている……そんな彼女らしくない顔をしていた。
 ディスは紅茶を冷ましながら、さりげない様子を装って言う。
「何か暗いじゃねえか」
「気のせいさ。私はいつも通りだよ」
「嘘だな」
 口の端を歪めて笑ってみせたチェインの言葉を、ディスは一言で退けた。チェインは一瞬呆気に取られたようだったが、すぐに深く溜息をついた。
「わかるかい?」
 わかるさ、とディスは言って甘い紅茶を啜る。
「アンタ、ブランとの話が終わった後、『紅姫号』の医者と喋ってただろ。セイルはシュンランに気ぃ取られてて気づいてなかったみてえだけどさ」
 チェインは息を飲み、眼鏡の下の猫を思わせる瞳が軽く見開かれる。
 使い手であるセイルやブランは了解していることだが、普段、ディスの意識はセイルとは完全に分離されている。だから、セイルの視界に映ってさえいれば、ディスはセイルとは違う方向に意識を向けることが出来るのだ。
 その時ディスはずっと、チェインに意識を向けていた。
 正確には、「チェインと船医が何かを話している」という状況に。
 二人の会話まではディスには聞こえていなかった。耳のいいセイルにも聞こえなかったのだから、意識的に声を落としていたに違いない。ただ、チェインの表情が酷く暗かったこと、それだけはディスの目にはっきりと焼きついていた。
 ……だから。
 ディスは俯くチェインに向かって、言葉を、投げかける。
「その様子だと、聞いたんだな」
「……ああ、そうだよ」
 ――アンタは、知っていたのかい?
 チェインは力の無い声で問うた。ディスもまた微かに表情を歪めて「まあな」と答え、紅茶のカップを両手に持ち直す。非難されるかと思っていたが、チェインは何も言わなかった。ただ、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくるだけだったのが逆に辛くて。
 ディスは俯きながら、ぽつりと言葉を落とした。
「ブランは自分を臆病者と言うが、俺の方がよっぽど臆病だ。言わなきゃならんことはたくさんあるってのに、言ったら壊れちまうものがあるんじゃねえかって、言葉をいつも飲み込んじまう」
 セイルは、己の思いを言葉として紡ぐことを覚えた。人と自分との絆を結ぶことを覚えた。
 そんな風に変わっていく相棒を見て、変われないままの自分が歯がゆくもあって。ただ、ここで変えてしまうことが怖かった。
 自分の判断一つで、自分と……何よりセイルが築き上げてきた何もかもが変わってしまうかもしれない、それが怖かった。
 チェインは「なるほどね」と言葉を落として、視線を天井の辺りに彷徨わせた。
「それなら、私も一緒だね。正直、知らなきゃよかったと思ったよ。知らなけりゃ、何も考えないで済む」
 ――知らないままでいたら、絶対に後悔しただろうけれど。
 チェインの呟きは、ディスの思い全てであった。
 ものを知るということは、いつだってそういうことだ。知らないことにしておくことは、もう出来ない。ただ、知らないままでいることを後に悔いるのも、また事実。そういう思いだったら嫌というほどしてきた。きっと……目の前のチェインも。
 だからこそ、足を止めずにはいられない。己の判断が正しいのかどうか、問わずにはいられなくなってしまう。
 しばし沈黙が流れ、器と皿が触れ合う小さな音だけが、食卓に響く。
 結局、その沈黙に耐えられなくなったのはディスの方だった。半分くらいまで減った紅茶の水面を眺めるともなしに眺めながら、横のチェインに問いかける。
「なあ、奴らに伝えるのか?」
「伝えるべきだとは思っているよ。ただ……これはきっと、私から伝えることじゃあないよ」
 横目に見たチェインは長い睫に縁取られた目を伏せていた。ディスは「だよな」と同意して、椅子の背によりかかって天井を仰ぐ。
「ああ、どいつもこいつも面倒くせえ」
 ――もちろん、俺も。
 天井の窓から見える空は、瞬く星に満ち溢れている。怖いくらいに。
 瞬く星は女神が流した慈悲の涙というけれど、結局、女神は泣いてくれるだけで何もしてはくれない。
 最終的に、進むべき道を選び取るのは自分自身。
 自分自身でしか、ないのだ。
「なあ……チェイン」
「何だい?」
「もしもの話ってあんま好きじゃねえんだけど。もしもこのまま『エメス』を蹴散らして、ノーグを殺すことになったら。……その後のこと、頼んでもいいか」
 シュンランのこと……そして相棒、セイルのこと。
 その全てを託すことが出来るのは、多分、この女だけだとディスは思っている。目的は何処までもセイルと正反対を行くけれど……最後の最後に頼れるのは、多分、チェインしかいない。
 ブランを頼ることが出来ないのは、最初から、わかりきっていたから。
 チェインは微かに眉を寄せて、当然聞かれるであろう質問を言葉にした。
「アンタは?」
「俺は『世界樹の鍵』だ。目的を果たしたら、また眠りにつくだろうよ。誰にも、悪用されんように」
 ――少しだけ、嘘をついた。
 ただ、その嘘にチェインは気づかないでいてくれたようだ。チェインは溜息をついて「それは仕方ないことなのかもね」と小さく呟いた。
 世界樹の力を自由に扱えてしまう『世界樹の鍵』の存在は、野放しにしておけるものではない。どれだけディスという人格が望もうともそこが覆るわけではないということは、神殿の人間であるチェインも了解していたに違いない。
「約束は出来ないよ。もしもの話は、私も好きじゃない」
「ああ、それでいい。ただ、覚えていてくれれば、それで」
 難しいね、と呟いたチェインの声が、やけによく響いた。
 そうして、二人はまた黙った。
 今度は、どちらも口を開かなかった。並んで座ったまま、空を見上げて。時計が時を告げる音色を鳴らすまで、ずっと、ずっと、そうしていた。