「しゅ、シュンラン?」
何だかとても物騒な流れになる気配を感じて内心慌てるセイルだったが、その予想に反してシュンランはブランを真っ直ぐに見つめて言った。
「しかし、わたしは、ブランが必要です」
凛として。短くなった髪を揺らし、シュンランは言葉を選びながら、ゆっくりと言う。
「わたしは今まで何もわからないまま、ただ言われるままにノーグを探していました。ノーグに会えば、わたしがここにいる意味、世界を救うことも教えてもらえると信じていました。しかし、今の願いは違うです」
指を組み、顔を上げて。シュンランの小さな唇は、決意の歌を紡ぎ上げる。
「今の願いは、『機巧の賢者』、ノーグ・カーティスとお話をすることです。わたしの思いを、わたしの言葉で伝えることです。そこにはセイルがいて、ディスがいて、チェインがいて。そしてブランが叶えるです。それが私の願いです」
俺様が、叶える。
ブランは口の中で呟いて、それから真顔になった。シュンランを穴が開くほど凝視して、それからぽつりと呟いた。
「難題だな」
「ブランは大嫌いです。しかし、わたしはブランよりも『機巧の賢者』が許せない、です。だから、ブランにお願いするです。わたしを、わたしたちを、彼の元に連れて行ってください。言いたいことが、たくさん、たくさんあるです」
シュンランの言葉は何処までも真摯だ。ブランはその言葉を受け止めて、その重さを確かめるように目を伏せたが、やがてシュンランを見据えて答えた。
「わかった。それがお前さんの望みなら、俺様は叶えない理由がねえ。ついでに俺様の望みも叶うだろうしな」
「ありがとうございます。それに……チェインも、一緒に来て欲しいです。いいですよね?」
シュンランはチェインを見た。チェインは軽く肩を竦めて、苦笑する。
「私の目的はそもそもノーグを殺すことさ。目的さえ果たせればいいんだから、アンタの願いを断る理由はないよ。最終的に、私がノーグを殺す邪魔をしない限りは、ね」
チェインの主張は何処までも一貫していた。揺らぐことを知らない、確固たる復讐の意志。それを不毛であることも全て了承した上での決意だ、セイルはその思いの強さにいつも胸を痛ませる。今、この瞬間も。
シュンランは、ブランを相手にしている時には決して見せなかった躊躇いを見せつつ、チェインに問うた。
「……チェインは、どうしても、ノーグを殺しますか」
「絶対に殺す。そこの馬鹿とも約束したしね」
チェインはブランに視線を移す。普段ならへらへらと笑みを浮かべていただろうブランだが、もはや作った笑顔を見せる必要は無いと判断したのだろう、無表情でチェインとシュンランの視線を受け止めた。シュンランは何故か軽く唇を噛み、それから言った。
「ブランは、どうして、チェインと約束したですか。どうしても、わたしはブランの約束が理解できないのです」
ブランがチェインに課した約束。それは「ノーグの息の根を必ず止めろ」というものだったはずだ。セイルもまた、それを思い出したが……何故、シュンランがそれを疑問に思うのかがわからない。
ブランは怒りこそ忘れてしまっているが、確実にノーグ・カーティスを恨んでいるはずだ。殺したいと思うだけの理由がある、そうセイルは思う。殺されかけ、仲間を目の前で奪われたことで、体にも心にも深い傷跡を残したのだから。今もなおその時の記憶に苛むほどの、傷跡を。
しかし、シュンランは更に問いを重ねるのだ。「どうして」と。
ブランは視線を空に泳がせ、「んー」と唸って顎をかき……やがて、ゆっくりと薄い唇を動かした。
「死にぞこないほど厄介なもんはいねえからな。それだけだ」
シュンランはどうも納得いかない、といった表情でブランを睨んだが、ブランはそれ以上のことは語ろうとせずに手を叩く。
「意見は一応一致したみてえだな。とりあえず……もう少しだけよろしく頼む」
「うん。皆も、よろしくね」
セイルは三人を見る。そして、心の底にたゆたうディスを。
三人は頷き……ディスは、小さな声で言った。
『言われなくても』
いつも通りのディスの返答に、セイルはちょっとおかしくなった。何よりも……安心した。変わらぬ相棒が、そこにいてくれているという事実に。
「何を、笑っているですか?」
ディスの声を聞くことの出来ないシュンランが、不思議そうな顔をしてセイルの瞳を覗き込む。大きなすみれ色の瞳に映ったセイルは、確かに、気の抜けた笑顔を浮かべていた。慌てて、軽く頬を叩いて、顔を引き締める。
その様子を見ていたチェインが、微笑ましいものを見たとばかりに少しだけ笑ったが、これまたすぐに表情を引き締めて言った。
「それじゃ、ちょいとこちらからも話をさせてもらうよ」
「……神殿と『エメス』の状況か?」
ブランの問いに、チェインは神妙な顔で頷く。
「一旦アンタたちと別れてから、出来る限り、神殿内部の情報を集めてたんだ。それで……本殿によると、テレイズ連邦東部、旧レクス北部で『エメス』に所属する異端研究者がいくつかの都市を占拠した。神殿側で情報を操作して、他地域の民衆に伝わらないようにはしているけれど、それも限度があるだろうね」
その言葉を聞いて、ブランは口の端を歪ませ「はっ」と笑う。目だけは相変わらず笑むことを知らないままに。
「そもそも旧レクスとテレイズの一部は世界樹大戦で神殿と対立してんだ、今も異端の技術に対する偏見は少ねえし、神殿に対して懐疑的な連中が多い……『エメス』の基盤にするにはもってこいじゃねえか」
「その上、今現在も勢力を拡大しているみたいだよ。旧レクス帝国が隠した前大戦の遺物も次々と封を解かれているらしい。都市の一つを攻めた神殿の騎士団の一隊が、禁忌兵器の攻撃で壊滅状態になったって噂も流れてたね」
「……こりゃあ、第二次世界樹大戦も近いかもな」
ブランは笑みを浮かべてこそいたが、その声は酷く冷たかった。セイルにとってはあまりに話が大きすぎて言葉も出なかったが、そんなセイルの沈黙を受け止めて、ディスがぽつりと呟いた。
『また「真実」を掲げた下らん争いが始まるってか。ぞっとしねえな』
世界樹大戦。それは、今から約三百年前に、禁忌の知識に魅入られたレクス帝国の皇帝ヴァインドによって引き起こされた、楽園全土を巻き込んだ最大の戦争だ。その歴史は、あくまで戦の勝者である神殿側から語られ、皇帝ヴァインドは己が世界樹の主であると主張して、女神に弓を引いた傲慢なる大罪人として伝えられているけれど。
それが……必ずしも正しくないということは、セイルも、知っている。
現実には、いくつもの側面がある。一方から語られた物語だけで全てを判断してはいけないのだ、そう教えてくれたのは兄だった。今考えてみれば、兄……ノーグ・カーティスは、異端の領域に踏み込んだ物語を、いくつもセイルに伝えていたのだと気づく。
世界樹大戦についての物語も、その一つ。
レクス皇帝の側から見れば、それはディスの呟き通り――楽園の「真実」を巡る戦いだったのだと、いう。
女神は「存在しない」と言い張る、しかし確かにそこに存在する禁忌機巧、そして魔法とは異なる体系を持って存在する異端の知識。果たして、それは何処から来たものなのか。何故隠されているのか。隠すことが、果たして正しいことなのか。
レクス皇帝ヴァインドは、常に全てを疑問に思っていた。故に、女神と世界樹の存在意義を問い直し、そして女神によって歪められた歴史を正すため、女神に弓を引いた。
結果的にヴァインドは破れ、彼の目指した「真実」は明らかにされぬまま世界樹大戦は終結した、わけだが。
それを……もう一度繰り返そうというのだ。
真理と真実を掲げる異端結社『エメス』が。
その頂点に立つ『機巧の賢者』ノーグ・カーティスが。
ブランは布団の上で短い指を組み、思案するような様子を見せる。手首に巻かれている褪せた緑のリボンが、彼の手の動きに合わせて揺らめく。
「戦争を起こすこと。女神を打倒して、真実を示すこと。果たして、それだけが賢者様の目的なのかねえ……」
「ブラン、何か、心当たりがあったりするの?」
「や、賢者様の思惑なんて俺様の知ったこっちゃねえ。だが、奴が何を考えていようと、無益な争いは止めさせにゃならねえ。歴史の裏に隠された真実を求めるにせよ、女神のもたらすかりそめの安寧を求めるにせよ、誰も彼も、血で血を洗う争いを求めてるわけじゃねえからな」
それは、その通りだ。ブランの言葉に、セイルは頷くしかなかった。
どんなに高尚な目的を掲げようとも、その先に待っているのは戦争。戦に確固たる目的を持つのはほんの一握りの者だけで、それ以外はただ逃げ惑い、恐怖に怯えるだけの不毛な殺し合いが始まってしまう。それだけは……避けなければならない。
「で、ひとたび戦争が始まっちまえば、賢者様に近づくのもそれだけ難しくなる。要するに、こんなとこで手をこまねいてる場合じゃねえ、ってことさな」
「散々こっちを振り回したアンタの言えたことかい」
「や、だからそれは悪かったって。反省してるのよ、これでも」
チェインの鋭いツッコミに、ブランは苦笑する。それから、少しだけ真面目な表情になって言った。
「とりあえず……待ってるだけってのは止めにせにゃな、とは思ったよ。少しばかり危ない橋にはなるが、こっちから攻めることも必要だってな」
「こちらから、攻める……ですか? それが、出来るですか」
シュンランが驚きに目を丸くする。ブランは、シュンランの目を真っ直ぐに見つめ返し「一応な」と答えた。
今までの旅は常に『エメス』や神殿がこちらにちょっかいを出してくるのを迎撃するだけで、己から積極的に『エメス』の動向を探りノーグを探すわけではなかった。エリオットとの対話を計画した時でさえ、ブランはシュンランに言われて初めてそれを実現に移したのだったと思い出す。
ブラン自身が「臆病」と言う通り……今までのブランは『エメス』に対してのみで言えば何処までも慎重で臆病だった。
そりゃあ臆病にもなるさ、とディスが頭の中で補足する。ブランは元々『機巧の賢者』様にとんでもなく痛い目に遭わされてるんだ、深入りしすぎると手痛いしっぺ返しを喰らうってことは誰よりもよく知っているのだから、と。
言われて、セイルは軽く唇を噛む。
長く伸ばした金茶の髪に隠された傷跡は、今も毒のようにブランを苦しめている。先ほどチェインがブランの過去を暴こうとした瞬間に見せた苦悶の表情が、セイルの頭の中に焼きついて離れない。
それでも。それでもブランは、不敵に笑う。笑って、三人を見渡して言う。
「今の俺様に未来は見えんが、奴と『エメス』に関する記憶、それに過去の情報から予想することは出来る――賢者様を出し抜くための策くらいなら、考えてやる」
「ブラン、大丈夫なの? 昔の事……思い出すの辛いんじゃないの?」
セイルは慌てて問うけれど、それに対してブランは軽く肩を竦めて答える。
「さっきはちょいと突然だったもんだから取り乱しちまったけど、どうってことはねえ。あの阿呆に一泡吹かせるためなら、使えるものは何だって使う」
俺の記憶でも、何でもな。そう言うブランは何処か吹っ切れた表情を浮かべていた。
「絶対に、奴に喰らいついてみせる」
その瞳に宿った強い光に射抜かれ、セイルはごくりと唾を飲んだ。不思議なことに、ブランの瞳の中に見えたのは、チェインがノーグを語る時に見せる暗く重たい感情ではなかった。曇り空を割って差し込む、女神の帳のような鮮やかさで見据える先は……ブランにしか見えない領域なのかもしれなかった。
シュンランは、そんなブランを何もかもを映しこむすみれ色の瞳でじっと見つめていたが、不意にふわりと笑んで、組まれたままだったブランの手を取った。
「わたしは、ブランを許しませんが……信じています。セイルと一緒です。頼りにしているです」
まさか、そんな言葉を、一番自分を恨んでいるであろうシュンランから聞くとは思ってもいなかったに違いない。ブランは驚きの表情でシュンランを見上げて、それから「はは」と苦笑した。
「綺麗な女の子に頼まれちゃ、断れねえもんな。けど」
けど? と首を傾げるシュンランの手を、ブランが握り返す。
「ちょいとだけ、時間が欲しい。頭を整理して、策を練るだけの。いいか?」
「ブランが、それを望むなら。セイルも、チェインも、構わないですよね?」
シュンランが笑顔で振り向き、セイルとチェインに言葉を投げかける。
「うん、もちろんだよ」
「決まった以上、アンタが動けないと話にならないからね」
セイルも、チェインも、各々の言葉でブランの要望を受け止める。
「じゃ、ちょいと一人にしてくれねえかな。纏まったらきちんと言うからさ」
わかった、とチェインが頷いて椅子から立ち上がり、そのまま部屋から出て行こうとする。セイルとシュンランも連れ立って一旦部屋を出ようとしたが、そんなシュンランを不意にブランが呼び止めた。
きょとんとするシュンランに対し、ブランは窓際に置いてあったものを手渡した。
「これ……お前さんに返しとくわ」
シュンランははっとして、手元に視線を落とす。
それは、空色の花だった。かつては対でシュンランの髪を飾っていた花飾り、その残された片割れだ。ただ、元々あった飾り紐は無くなっていて、その代わり短い髪にも挿せるように、細くしなやかなピンが取り付けられていた。
「シュンラン、これ、どうしたの?」
「ブランに、直してと頼んだです」
――どうして、ブランに頼んだのだろう。
セイルは不思議に思わずにはいられなかった。ブランはシュンランの髪飾りを壊して、長い髪を奪った張本人ではないか。チェインも同じ事を考えていたのだろう、その様子を眼鏡越しに見つめながら首を傾げている。
そんなセイルたちの思いを知ってか知らずか、ブランは軽い口調でシュンランに言葉を投げかける。
「流石に、壊しちまった方は直せなかったけどな。こんなもんでいいか?」
「……はい。しかし、ありがとうは言いません」
「そりゃ当然だな。こんなことじゃ、罪滅ぼしにもならねえ」
シュンランの厳しい言葉も、ブランはさも当然のように受け止める。実際に当然だと思っているのだろう。そう言うところは妙に真面目な人なんだよな、とセイルは改めて思わずにはいられなかった。
そんなブランから視線を外したシュンランは、髪にそっとピンを挿す。髪に飾られた一つの花は、銀世界の中に青く鮮やかに咲き誇る。
「似合いますか?」
セイルに向かって振り向くとさらりと髪が揺れて波を描き、それだけで空色の花を更に鮮やかに引き立てる。セイルは妙にどぎまぎしながらも、声を高くして言う。
「う、うん。短いのもすごく、似合ってるよ」
「ありがとうございます」
ふわ、と花が咲くようにシュンランは笑う。セイルも思わず笑顔になる。シュンランが明るく華やかな笑顔なら、セイルの笑顔はかなり惚けた笑顔だったけれど。
それでも、シュンランはそんなセイルの笑顔を見て更に笑みを深め、ブランに向き直る。
「ブラン。ありがとうは言いません。しかし、今、わたしはとても、嬉しいです」
嬉しい。ブランはシュンランの言葉を口の中で繰り返し、それから少しだけ俯き、明らかな戸惑いを混ぜた声で言った。
「嬉しい……そういうものなのか。難しいな」
「ブランは、難しく考えすぎるです。意味や、理由。わたしたちも、本当をわかっているわけではないです。心が教えてくれるままに、表に出すだけです」
それは、きっと。
シュンランは笑顔のまま、ブランの胸に指を伸ばした。
「今、ブランが笑っているのと同じです」
確かに、ブランは俯きながらも笑っていた。眩しそうに目を細め、ほんの少しだけ、口の端を歪めるだけの微かな笑顔ではあったけれど……とても優しい笑顔だとセイルは思う。見ているこちらの心も、自然と穏やかになるような。
シュンランは、そんなブランを真っ直ぐに見つめたまま、弾んだ声で言った。
「何かを忘れてしまったなら、新しく覚えるです。わたしは、今までそうしてきました。それは辛いこともあるけれど、楽しいことだと思うですよ、ブラン」
「……そうだな」
これからは、きっと、楽しくなる。
ブランは自分に言い聞かせるように呟いて、顔を上げた。そこに感情らしい感情は読み取れなかったけれど、何故か晴れ晴れとしているように見えたのは、セイルの気のせいだろうか。
「ありがとな、シュンラン。少し気が楽になった」
「どういたしまして」
シュンランはにっこり笑ってブランに背を向け、ぼうっと二人のやり取りを見ていたセイルの手を取った。
「さあ、行きましょう、セイル。ブランの考え事の邪魔は出来ないです」
「そうだね。それじゃあブラン、また夕飯の頃に来るよ」
本当は、もう少し色々と話したかったけれど……それは、これからでもいいのだ、と思う。
ブランはここにいる。もう、勝手に何処かに消えたりしない。
だから、これからは少しずつ歩み寄っていけばいい。自分はもっと、ブランのことを知りたい……そして、シュンランやチェイン、ディスのことだって。もう、知らないままでいるのは止めにしようと思う。
思いを伝えること。思いに応えること。
そうして、絆は結ばれていく。
結んだ絆が、先に広がる暗闇を照らす灯りになってくれる。
それを信じて、セイルはシュンランの手を握り返す。温かな感触を確かめて、大きなすみれ色の瞳を見つめて。
「それじゃ、行こう、シュンラン」
「はい!」
そして、手に手を取り合って、部屋を飛び出す。
その時二人は、確かに笑っていた。
少女の髪に映える、青い花のように。窓の外に広がる、雲ひとつない空のように。
空色少年物語