時は遡り、花の月三十日、深夜。
雨雲はいつしか消え、神殿の天空戦艦『白竜の翼』は巨体を空の上に浮かべていた。優雅に風を切って進むその姿は、まさしくユーリスを守護する獣、気高き白竜を思わせた。
だが、その内側にあるものを、外から窺い知ることは出来ない。
小さな、白い少女が窓の外に広がる夜空をじっと見つめていたことなど……それこそ、船の横を掠めて飛び去った渡虹鳥だけが知っていたに、違いない。
とんとん、と船室の扉が叩かれる。
びくり、と震えて窓から視線を離したシュンランに対し、見張りとして横に座っていた騎士、ライラ・エルミサイアが「どなたでしょう?」と張った声で誰何する。
「セイル・フレイザーだ。入っていいか?」
「……ああ」
ライラからすれば同僚であるはずの相手だが、ライラは不快さを隠そうともせずに低い声で言い放った。身構えるシュンランの前で扉が開き、姿を現したのはセイル・フレイザー……ブラン・リーワードだった。
ブランが纏う服は普段とは違い、ライラが身に着けている騎士の鎧ともまた違う、ゆったりとした法衣だった。ほとんどが純白に統一されたその法衣は、全体的に色素が薄く、細くすらりとした体躯のブランには皮肉にもよく似合っていた。
ただ、その中でシュンランの目を引いたのは、右の袖から微かに覗く褪せた緑色の布だ。それは、普段彼の髪を飾っていたリボンに違いなかった。下ろした髪を揺らして、ブランはゆっくりとシュンランの方に向かって歩み寄ってくる。
シュンランは、そんな彼に向かって迷わず駆け出そうとするが、すぐに横の騎士に肩を押さえられる。強く引き止められながら、それでも身を乗り出して叫ぶ。
「ブラン! 一体、何のつもりですか! セイルたちはどうしたですか!」
ブランは「元気なようで何よりだ」とニヤニヤ笑いながら、シュンランの問いには律儀に答える。
「ガキどもは置いてきた。お前さんを神殿に保護してもらうために、な」
「何故、何故ですか! わたしは、神殿には行きたくないです。まだ、やりたいことばかりです、どうしてブランは……っ」
「嬢ちゃんが何を望もうとも、『エメス』に捕まっちまったら元も子もねえ。お前さんのためを思って言ってるのよ、わかってちょうだいな」
笑みを浮かべながら淡々と言葉を並べるブランを、シュンランはすみれ色の瞳を大きく見開いて睨みつける。花飾りで二つに結った白い髪を揺らし、声を、上げる。
「それは、本当に、わたしのためですか」
「……どういうことよ?」
「ブランの言うことは、わたしのためではないと思うです。ブランはいつも、たった一人のことしか考えていないです。ずっと、ずっと、そうでした」
言い切ったその瞬間、ブランの放つ気配が変わった。
「――お前さん、何処まで気づいてんだ?」
口元の笑みこそ消さないまでも、瞳の放つ光が突如温度を下げる。
セイルは、その度に怯えてみせるけれど……シュンランは、もはやこの瞳の色を浮かべるブランを恐ろしいとは思わなかった。むしろ、普段浮かべてみせる底知れないニヤニヤ笑いなんかよりずっと、「ブランらしい」ではないかと思う。
研ぎ澄まされた、零下の刃を思わせる視線だって、ブランの性質を知っていれば恐るるには足らない。
ブランは、己に課した「ルール」を破れない限り、シュンランを物理的に殺すことは出来ないのだから。
「ブランの、本当のことは、何もわからないです」
だから、シュンランは恐れない。
毅然として、ブランと対峙すること。心を折らないこと。それが目の前の男に打ち勝つ唯一の方法なのだ。
「それでも、ブランの大切はわかります。ブランの大切がわかれば、想像することは出来ます」
「そうか。まあ……気づいたところで、今更だ」
ブランはそんなシュンランの力強い瞳から、視線を逸らさぬままに告げる。
「お前さんは神殿に保護される。俺様はガキんちょから『ディスコード』を奪う。それで、この物語は閉じる」
「……っ!」
「お前さんから自由を奪っちまうことにはなるが、それも永遠じゃねえ。そう、奴の望みを打ち砕くその時までだ。だから、ここは飲んではくれねえかな、シュンラン」
初めて。
初めて、ブランは、シュンランの名前をはっきりと言葉にした。
チェインの時にもそうだったが、人の名前を言葉にする時の癖なのだろう、少しだけ、他の人とは強勢の置き場所が違う呼び方。そしてこの呼び方をシュンランは何処かで知っている気がした。遥か遠くに霞んでしまった記憶の何処かで。
『シュンラン』
自分を呼ぶのは、少年の声だった気がする。
鋭く、しかし甘い響きを伴った少年の声が、脳裏に響く。
『悪いな、シュンラン。俺様を恨んでくれていい、恨んでいいんだ』
言葉は違えど、少年の喋り方はブランにとても似ていた。自信に満ち溢れているようで、それがほとんど自分自身で理解している虚勢に過ぎなかったことも、克明に思い出せる。
『だから、今はゆっくり眠ってくれ。お前さんが目覚めた時には、俺たちの目指した場所に辿り付いているはずだから。きっと……いや、絶対にだ』
その時の自分は、そうだ、今と同じように……無数の星の下にいた。
ぼんやりと、彼方に消えていたはずの記憶が蘇ってくる。ちらり、ちらりと瞬く星の明かりに照らされたその少年の姿が、思い出せそうで思い出せないまま。
シュンランは、記憶の少年によく似ている男を、呆然と見上げていた。
零下の瞳。そう、その少年もまた、同じような色の瞳でこちらを見つめていたのだった。
「……シュンラン?」
急に黙ったシュンランを不思議に思ったのか、ブランが疑問符を投げかける。
不意に蘇った記憶の余韻に浸っていたシュンランは、即座に現実に意識を引き戻す。過去は過去、今は今。自分の相手は記憶の彼方に霞んでいた少年ではない……目の前に立つ白い男だ。
「あなたの言うことは、飲めません。わたしも、きっとセイルも。そんな物語の終わりは、望んでいないです」
「……そうか。だが、お前さんがそう言ったところで、終わりは決まっている」
ライラちゃん、とブランは視線をシュンランの体を押さえつける騎士に向けた。騎士ライラは「何だ」と相変わらず不機嫌そうな声と飴色の視線をブランに投げかける。
「ルクスとちょいと話してくる。嬢ちゃんの監視、続けといてくれ」
「不本意だが、了解した」
ライラちゃんっていつも一言余計よねえ、とブランは苦笑しつつも騎士の言葉を咎めることもせず、そのまま部屋を出て行った。
本当は、歌の一つも歌ってやろうかと思ったけれど……彼女の歌がもたらす力は、彼女の意志では制御しきれないところがある。ブランもそれを理解していて、逃げ場の無い船を移動手段に選んだに違いなかった。
ブランは、どうあれシュンランを神殿に届けるつもりだ。ブラン自身の目的を果たすために。
けれど……ブランは決定的なところをわかっていない。
自分の行動で、誰が何を思うのか。自分が本当に守りたかったはずのものが、望みからかけ離れた行動を起こすということ。
何て皮肉。何て不条理。
何もブラン一人を責めることは出来ない。それを何となく理解してしまっただけに、シュンランはブランが消えていった扉を見つめずにはいられなかった。
そんなシュンランの姿を、騎士ライラはどう受け止めたのだろうか。仲間と引き離されたシュンランに同情していたのかもしれない。ブランに対する冷たい対応とは違い、あくまで真摯な表情でシュンランと相対する。
「あの男の独断で、不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。これから不自由をさせると思いますが……あなたの安全は、我が名と女神ユーリスに誓って約束いたします」
その言葉には、嘘は無い。シュンランにも、それがわかった。
ただ恐ろしいだけであった神殿だけれども、その中にも心ある人はいくらでもいる。ルクスや、このライラのように。それに少しだけ安心しながらも、シュンランは背筋を伸ばしてはっきりと言った。
「いいえ、その必要は無いです」
「……どういうことです?」
シュンランは窓を背に、真っ向から美貌の騎士の瞳を見据えて言い放った。
「セイルが、来ます。わたしを助けに来てくれるです」
シュンランの唇には、自信に満ちた笑み。
疑いなどありはしない。彼女が憧れて止まなかった空色を抱いた少年は、きっと、すぐそこまで来ている。鏡のような瞳に希望を映し込み、その手に『不協和音』の刃を携えて。
その姿を、鮮やかに脳裏に思い描き――
「それは、絶対です」
歌うように放った声は、水平線の向こうの朝日を呼んだ。
そして……終わるはずの物語が、朝の訪れと共に矛先を変える。
空色少年物語