空色少年物語

13:この背を押すのは(3)

 シエラは目を丸くして、駆け寄ってきたセイルを見た。
「どうしたの、そんなにびしょ濡れになっちゃって。もしかして、迷子とか?」
「えっと……その」
 人の邪魔にならないように路地の端に寄り、当たり前のように傘を差しかけてくれるシエラに、セイルは何を話していいかもわからず口ごもる。シエラの無事を喜びたい気持ちもあるけれど、今はいなくなってしまったシュンランとブランのことで頭がいっぱいだったから、言葉が上手く出てこなかったのだ。
 シエラは不思議そうに首を傾げながらも、穏やかな表情でセイルの言葉を待っていてくれた。セイルは何とか頭の中でぐしゃぐしゃ蠢く思考を無理やりに纏め上げて、ぽつり、ぽつりと、言葉に詰まりながらも今までのことを話し始めた。
 『エメス』にいるという兄ノーグを追っていたけれど、シュンランや『ディスコード』を狙う『エメス』、それを保護しようとする神殿に追われていたこと。そんな中、ずっとセイルとシュンランを守ってくれていたブランが、突如シュンランを連れ去って神殿の騎士たちと一緒に空へ去ったこと――
 そこまで話が及んだ時、シエラがきっと眉と目尻を吊り上げた。流石は荒くれを束ねる頭、表情一つで身に纏った空気が色を変え、セイルを圧倒する。
「本当に? 本当に、アイツがあの子を攫ったの?」
 その勢いに押され気味になりながらも、セイルはこっくりと頷いた。
「うん……ブラン、俺たちのこと、守ってくれるって言ったのに……俺、ブランに見捨てられたんだ。裏切られたんだ」
 その言葉を口に出すと、胸の中にとても苦く、切なくなるような感情が広がった。それは、先ほどまでの激しい怒りとはまた違う、裏切られたと言うことに対する、悔しさと悲しさ、そして不甲斐なさ。
 俯いてしまいそうな顔を何とか持ち上げてシエラを見上げると、シエラは明らかな怒りの形相になりながらも、黙ってセイルの言葉を促した。その瞳の色には、セイルの思いを見定めるような強い光が宿っている。
 言っていいんだ、とディスが頭の中で囁いた。
 無理かどうかなんて、後で考えればいい。今はお前の気持ちを、言葉に出して伝えるんだ。言葉にしなければ届かないものばかりで、また言葉にすることで、自分自身に対してもはっきりと形にすることが出来る。
 ディスは言って……ほんの少しだけ、笑ったような気がした。
 セイルはぐっと拳を握り締め、真っ直ぐにシエラの瞳を見つめ返して、言った。
「だから、俺、ブランに会う。ブランに会って、一発殴って、シュンランを取り返したいんだ!」
 唇から放たれた声は、まるで自分のものではないように耳の奥に響き渡る。そして、微かな迷いすらも、その瞬間に晴れたような気がした。
 シエラは、綺麗な面に獰猛な笑みを浮かべてセイルを見下ろす。渦巻く怒りを燃え上がる闘志にそっくりそのまま昇華したような、晴れやかでいて激しい表情だった。
「相変わらず、可愛い顔してかっこいいこと言うじゃん」
 にっ、と歯をむき出して笑うシエラの言葉に、セイルはちょっと気恥ずかしくなる。それでも目を逸らすことは無く、銀色の瞳でシエラを見据え続ける。シエラは、そんなセイルから一瞬視線を外して、空を見上げる。
 涙を流し続ける空、その向こうに何が見えるわけでもない。シュンランたちを乗せた船は、とっくのとうに雲の向こうに隠れてしまっていた。
「神殿の戦艦が珍しくワイズにいたと思ったら、そういうこと。まさか異端のアイツが神殿と繋がってたなんてね……」
「うん、とにかく早くシュンランを助けなきゃ、って思ってるんだけど……どうやって助けたらよいかわからなくて、困ってたんだ」
 何しろ、相手はブランに加えてユーリス神殿の騎士たち、そして今やセイルの手の届かぬ上空にいる。一度神殿に保護されてしまえば、二度とセイルがシュンランに会うことは出来ない――そんな確信を、ディスが小さな声で裏付けた。
『神殿は、シュンランを絶対に「エメス」には近づけさせねえだろうな。ノーグの弟である、お前にも』
 実際にセイルが『エメス』と繋がりがあるか否かは関係ない、疑わしき者である限り、神殿はシュンランを「守る」という建前で神殿に閉じ込め続けるだろう、とディスは言う。
 だからこそ、早くシュンランに追いつきたい。彼女の願いを、こんなところで閉じ込めるわけにはいかない。はやる気持ちと、どうすればいいのかわからない、途方に暮れる気持ちがセイルの中に渦巻く中……シエラは「よし、決めた」と唐突に言った。
「アタシたちが、アンタらを手伝ったげるよ」
「へっ?」
「縁を切ったといえ、元はうちの身内だった奴の不始末でもあるしね」
 それに、と。
 シエラは言って、雨空の中にも燃えるように明るく輝く笑顔を浮かべた。
「アンタがあの馬鹿野郎を殴るなんて、最高の見物じゃない。アイツも、まさか他でもないアンタに殴られるなんて夢にも思ってないだろうからね。その時どんな顔をするのか、見てみたいでしょう?」
 そういう、もの、だろうか。
 セイルはちょっとだけ憮然とした。シエラの声は、あくまでこの状況を楽しもうとするものだ。ブランに対する怒りと悲しみでいっぱいのセイルは、不謹慎だ、と思わずにはいられない。
 だが、シエラは、そんなセイルの思いをそっくりそのまま受け取ったかのように、口元の笑みを意地悪っぽく深めてみせる。
「神殿を相手に喧嘩をふっかけるんだもの。そりゃあ飛び切り面白くなきゃ嘘でしょう?」
「あ……」
 セイルもその言葉で合点がいった。シエラは、言外にこう言っているのだ。
『得にはならない神殿との戦いに、あえて挑んでやる』
 ……と。
 決意させた理由はただ一つ、「面白そうだから」。
 それが空に映える真紅の船『紅姫号』を駆るシエラ一味の、唯一にして絶対たる動機なのだ。そのシエラの心を動かしたのは他でもない、セイルの決意だ。何もシエラはセイルの思いを馬鹿にしているのではないことは、シエラの笑みを見ていれば、わかる。
「その、」
 こんな俺なんかに、本当に協力してくれるのか、と。
 セイルは言いかけて口を噤む。聞くまでもないということは、シエラの表情が語るとおり。ならば、そんな弱気な言葉はいらない。今言うべき言葉は決まっているではないか。セイルは勢いよく頭を下げて、声を張り上げる。
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
 目をぎゅっと閉じたセイルの頭を軽く叩く手の感覚。それを受けて顔を上げれば、シエラは優しくセイルの濡れた空色の髪に指を通して言った。
「それじゃ、まずは作戦会議と行きましょうか。時間は無いけど、準備も無しに飛び込むような真似は流石にしたくないわ」
「それなら、ブランの家に行こう。あそこなら落ち着いて話せるし……多分、チェインも待ってると思うし」
「チェイン? 誰、それ」
 そうか、シエラは知らないのだったか。セイルも今更ながらに思い出して言葉を付け加える。
「兄貴を追って、俺たちと一緒に来てる影追いなんだ」
「影追い? なら、そいつも神殿側じゃない。神殿に盾突こうっていうアンタに協力してくれるの? 逆に邪魔されたりするんじゃない?」
「それも含めて、きちんと話をしたいんだ。チェインは何も言わずに俺たちの邪魔をするような人じゃないけど、影追いっていう立場上、きっと、俺たちに協力するのも難しいはずだから」
 けれど、チェインはそんな中、シュンランを神殿に連れて行くという選択を先延ばしにしてくれたのだ。それがノーグへの手がかりを失わないため、であったとしても、セイルたちを裏切らないでいてくれたチェインに何も言わないまま、一人でシュンランを助けに行こうというのは間違っている、そんな気がした。
 シエラはセイルの言葉を聞きながら、何かを見定めるような目をしていたが、やがて小さく息を付いて言った。
「アンタがそう言うなら、その影追いさんの説得は任せたよ。あたしたちはあたしたちで、あの空中戦艦に突入するための計画を練るから」
「あたしたち、って……」
 セイルははっとした。いつの間にか、セイルとシエラの周囲には見覚えのある男たちが集まっていた。町行く人々が怪訝そうな目でこちらを見ているが、まさかここに集う背丈も年齢も服装もまちまちな男たちが、悪名高き空賊『紅姫号』の乗組員だとは思うまい。
 シエラ一味の誰もが、セイルを子供のようなきらきらとした輝きを持った瞳で見据えていた。誰もが獰猛で、けれど妙に人懐こい笑みを浮かべていた。
 そんな彼らを前に、セイルもほんの少しだけ、笑う。
 今まで歩いてきた旅の足跡、結んできた絆がここで初めて目に見えてセイルの前に現れた気がした。何もかも、無駄ではなかったのだという思いが、セイルの心に一抹の希望を灯らせる。
 まだ、何も終わってはいない。
 ――そうだろ、セイル?
 ディスが脳内で愉快そうに声をかけてくる。
 セイルはぐっと左手を握り締めて、答えた。
「そうだね、ディス」
 行こう、と。セイルはシエラと共に、『紅姫号』の乗組員を引き連れて歩き出す。雨の中を行く足取りに、もはや迷いは無かった。