空色少年物語

10:見知らぬ旅人(4)

 ルクスは、片手で簡単に男の突き出した拳を握り締め、逆に男の手を捻りあげていた。取り残された男たちは思わずお互いに顔を見合わせたが、次の瞬間喚き立てながらルクスに向かって殴りかかってきた。
「全く……荒事は苦手なんだが、なっ!」
 ルクスは腕を捻りあげた男の体を、向かってきた小男に無造作に投げ出した。自分よりも大きな体の男をまともに受け止められるはずも無く、小男は大げさな動きでその場に転倒した。
 一番の巨体を誇る男は、それをぎりぎり避けてルクスに拳を振り下ろす、が。
 丸太のような腕による一撃を、ルクスは軽々と片手で受け止めてみせた。それに続けて放たれた右の拳も、ルクスの手の中に握りこまれる。
 驚愕に目を見開く大男に対し、ルクスは目を細めて愉快そうに笑いかける。
「力比べなら負ける気はしないぞ?」
 ぎりぎりと歯を食いしばり、ルクスを力任せに倒してやろうと腕に力を込める男だが、ルクスは涼しい顔でそこに立ち続けている。さながら地面に根を生やした大樹のように。
 ものすごい膂力だ、とセイルは感嘆せずにはいられなかった。そして、セイルのようにただ力が強いだけではなく、相手の動きに合わせることで、無駄な力をかけることなく相手の行動を封じていることも伝わってくる。
 ディスのように軽業で相手を翻弄するわけでもなく、ブランのように先読みして動いているわけでもない。ただ、大地を踏みしめ、真っ向から相手の一撃を「受け止める」。
 それは――セイルが今まで見たことのない「戦い方」だった。
 押しても引いてもびくともしないルクスを相手にしていた大男の表情に焦りに似たものが混ざる。その時、立ち上がったリーダー格の男が、手に鈍く輝くものを握っているのを、セイルの銀の瞳が捉えていた。
 男の手の中には小ぶりのナイフ。鋭い視線が見つめるのは、ルクスの横顔!
「あ、危ない、ルクスさん!」
 セイルは、咄嗟に飛び出していた。ルクスも男の挙動に気づいていたのだろう、長い足で大男の足を払って今までの均衡を崩し、意識をこちらに向けたのが目の端に映ったが、それよりも先に男のナイフが迫り、更にそれよりも先に、セイルが二人の間に割り込んでいた。
「少年!」
 ルクスが叫ぶ声が、やけに遠くから聞こえた。
 怖い……怖くないはずはない。
 見据えるナイフの切っ先は鋭く、かつてチェインと相対した時に穿たれた肩の痛みを思い出す。けれど、目を背けてはいけない。いつもは人と視線を合わせようとしないディスも、戦いの時には決して相手から目を逸らさないではないか。
 相手の全てを視界に捉えろ。セイルは自分に言い聞かせる。目を背けるのは簡単だ、けれど、それではいけないのだ!
 その時、男の動きが急に鈍った。今まさに振り下ろされようとしていたナイフが、セイルの目の前で止まる。いや、止まったのではない、ゆっくりと、ゆっくりと動いているけれど、このくらいならばセイルでも目で追うことが、出来る。
 セイルは迷わず男の手首を握り締めた。普段は力を加減しているけれど、今この瞬間だけはその加減を止めて、力任せにナイフを握ったままの腕を引き、もう片方の手で近づいてきた男の肩を殴った。
 途端、時間は正常に流れ始める。
 セイルの馬鹿力によって腕を取られた男は一瞬驚愕と恐怖の表情を顔に張り付かせ、次の瞬間にはセイルの前から消えていた。ただ、消えていた、という言葉が全く正しくないことは、すぐにセイルも理解した。
 セイルに殴られた男が、まるで紙くずのように吹っ飛び、遥か後方の壁にぶち当たって倒れる。衝撃音に続いて聞こえてきた、石畳にナイフが落ちる乾いた音が、やけに耳に響いた。
 セイルも、ルクスも、男たちも、お互いの顔を見合わせるようにして、しばし沈黙が流れた。シュンランだけは、きょとんとした表情で首を傾げていただけだったが……リーダー格の男が倒されたのだ、という現実をやっと理解したらしい小男と大男が、倒れた男に駆け寄ってその肩を支える。
「お、覚えて……」
 覚えてろ、と言おうとした小男の言葉は、すんでのところで飲み込まれた。ルクスとセイル、二人の顔を交互に見て……
「わ、忘れてください! お願いします、忘れてください!」
 多分、覚えられていると困ると思ったのだろう、そんな言葉を残して男たちはセイルを一瞥して倒れた男の体を抱えてその場を走り去った。残されたセイルは、男を殴り飛ばした自分の拳をじっと見つめてしまった。
 手に残る「人を殴った」生々しい感触に、かつて、兄に言われた言葉を思い出す。
 ――その恵まれた力を決して暴力にしてはいけない。
 確かに、その通りかもしれない。初めは完全にセイルたちを舐めきっていた男たちが、セイルが力を示した瞬間に、まるで自分とは違う生き物を見るような怯えきった目をした。
 今まで封じていた拳を自分自身の意志で振るったことで、初めてセイルは自分の力を「実感」したのだ。
 多分、間違っていなかった。あそこで自分が動かなければ、ルクスも怪我をしていたに違いない。けれど、何ともやりきれない気分になって、セイルは小さな肩を落とした。
 そんな肩を、ぽんと叩く大きな手。
 見上げると、ルクスが微笑みながらセイルの肩に手を置いていた。その深紅の瞳に、あの男たちのような怯えの色は無い。ただ、柔らかく、穏やかな色だけがそこにあった。
「やるじゃないか、少年」
「でも」
「相手の動きから目を逸らさないのは、基本ではあるが難しいことだ。それが出来たんだから大したもんだ」
 まさかそこを褒められるとは思わなかったので、セイルは一瞬吃驚して目を見開いて、それから気分が高揚してきて頬が赤くなる。ディスやルクスの真似をしただけだったけれど、実際にそれが出来ていたのだと思うと、途端に嬉しくなってルクスに向かって頭を下げる。
「ありがとうございます!」
 ルクスはにっこり笑ってセイルの頭をぽんぽんと叩いた後、「ただなあ」とその横をすり抜け、瑠璃のような色をしたマントを翻して振り返る。
「俺も油断していたといえ、少年が武器を持った奴の前に飛び出した時にはちょっとひやりとしたぞ」
「ご、ごめんなさい」
「はは、まあ、誰も怪我しなかったからよかったということにしようか。それで、だ」
 ルクスの表情が、少しだけ真剣さを帯びる。セイルとシュンランも、思わず背筋を伸ばしてしまう。ルクスは微かに目を細めて二人を見て、言った。
「少年たちは、実はフレイザー博士の居場所を最初から知ってたのか?」
「え、えっと、その……」
 セイルが言葉を濁していると、その横に立ったシュンランがきっぱりと言った。
「はい、わたしたちはフレイザー博士のお家にいます。しかし、『今の』博士の居場所はわからないです。だから、あなたと一緒に探しました」
「あー、そいつはフレイザー博士お得意の詭弁ってやつだぞ、嬢ちゃん」
 ルクスは言ったが、その表情からは一瞬前までの鋭い緊張感は消え、何処か間の抜けた笑顔になっていた。ただ、不意に少しだけセイルとシュンランから視線を逸らし、顎に手を当てる。
「とすると、この少年たちが上の言ってた……?」
「ルクスさん?」
 セイルがルクスに問うたその時、突如声が彼らの間に割り込んできた。
「探したわよ、お前ら。こんなとこで何してんだよ?」
 はっとして視線を上げると、ブランとチェインが道の向こうに立っていた。
「市場に行くって言ってたのに、なかなか帰ってこないから心配して」
 言いながら歩いてきたチェインが、不意に言葉と足を止めた。眼鏡の下の瞳は大きく見開かれ、セイルではなく、その前に立っていたルクスを見据えていた。
 ルクスも、少しだけ驚いたような表情を浮かべてそちらを見た。ルクスとチェイン、二人の視線が空中に交錯して……やがて、チェインが掠れた声で言った。
「師匠? どうしてここに」
 ――師匠?
 セイルは驚きをもってルクスを見上げた。ルクスは間の抜けた笑顔のまま、チェインに向かってひらひらと手を振った。
「師匠って、俺は何もしてないぞー? 勝手に上が決めただけじゃないか」
「しかし……あなたがここにいるということは」
「何、お前さんには関係ない、個人的なお仕事だ」
 チェインとルクスの会話は、セイルにとっては不可解なものだった。シュンランもまた、二人が何を言っているのかわかっていないのだろう、「何のお話でしょう」と首を傾げる。何処か不安げな表情を浮かべてみせるチェインからは視線を外し、ルクスは赤い瞳を横に立つブランに向けた。
「久しぶりだな、セイル・フレイザー博士」
「ルクス・エクスヴェーアト……影追いの偉い人が俺様セイル様に何の用?」
 ブランは氷色の目を細め、両手を腰に当てて言う。影追い、の言葉にシュンランがびくりと震え、セイルも驚きの声を上げずにはいられなかった。
「え、でも、ルクスさん、神殿の騎士だって」
「影追いは皆神殿の中では表の肩書きを持ってんだ。チェインだってああ見えて表向きには本殿の司祭よ?」
 ブランはセイルの無知を嘲るでもなく、律儀に解説を加えてくれた。そういえば、初めてチェインに出会った時、チェインは自分が神殿に所属する聖職者であることを意味する十字を示していたはずだ。
 ルクスは「そういうこと」と苦笑しながら、懐から一通の手紙を出してブランに手渡す。ブランは神殿の封蝋がなされた封筒の両面をしげしげと眺めた後、疑問符を飛ばした。
「何よこれ」
「フレイザー博士に協力を求めたい、っていう神殿からのお達しさ。これのために、どれだけ探したかわからんぞ」
「ふうん。それにしてはわざわざお前さんが出向いてくる辺り、何かありそうだがなあ」
 ブランはにやにやと笑いながらも、いつもの何もかもを見通すような冷たい瞳でルクスを見据える。睨んでいる、というべきかもしれない。ルクスは何処か曖昧な表情でブランの視線に応えていたが、すぐにシュンランに視線を向けて言った。
「ここに君たち二人がいるということは、この子が『鍵』を持ち出したお嬢ちゃんか?」
「……そうです」
 チェインは険しい表情でルクスに答えてみせる。どうしてそんな難しい表情をしているのだろう、とセイルは思わずにはいられなかった。
 ルクスも影追いで、また「師匠」と呼ばれるからには影追いの中でも相当上に位置する人なのだろう。師が怖いのかとも思ったが、チェインの表情はそれだけではないように思えた。
 ルクスは小さく頷いて、少しだけ頭を下げてシュンランに視線を合わせた。シュンランは、怯えることもなく真っ直ぐにルクスを見つめている。
「わたしが、何ですか」
「何……早く、逃げ回る生活から解放されるといいな」
「はい。頑張ります」
 シュンランはルクスを見据えたまま、深く頷いた。その声に満足したのか、ルクスは穏やかに微笑んでシュンランの頭をぽんぽんと軽く叩き、体を起こした。
「それじゃ、用事も果たせたことだし、俺は行くよ。少年とお嬢ちゃんも、またな」
「はいっ、また!」
 セイルは背筋を伸ばして、ルクスに返事をした。その声の張りに、ブランが「ガキ、珍しく元気じゃん」と笑う。セイルはこくりと頷いて、ルクスを見上げた。
 出会ったその瞬間は、本当にどうしようもない人だと思ったが……セイルたちを守るために前に立った姿は、セイルの中に鮮烈な印象を残した。セイルの力を見ても、穏やかな笑顔でセイルを迎えてくれた、その手の温かさがセイルの心を上向きにしていた。
 神殿の騎士、そして影追い。立場上、きっと相容れない存在ではあるけれど。それでも、セイルの心に今までと少しだけ違うものを残してくれた人であることは、間違いない。
 ルクスは少し離れた場所に固まったままだったチェインの横を、マントを翻して行過ぎる。その時、ルクスの唇が動いた気がした。チェインの表情が、さっと曇ったのがわかったものの、ルクスはそのまま裾のほつれた瑠璃色のマントを揺らして遠ざかっていく。
 セイルとシュンランはチェインの側まで駆け寄り、シュンランが問うた。
「チェイン、何か言われたですか?」
 チェインはその言葉に我に返ったようで、目を瞬かせながら、首をゆっくりと横に振る。
「何でもないさ。それより、どうしてアンタたちが師匠と一緒にいたんだい」
「えっと、実は」
 セイルは、ルクスが道端に倒れていたこと、財布を失くして途方に暮れていたことを話し、昼食を奢ることになったことにまで触れた辺りでチェインが唐突にだん、と壁を叩いた。思わず飛び上がりそうになるセイルとシュンランなど見えていないようで、声を荒げる。
「全く、あの駄目師匠は! ふらふらしてるだけに留まらず、子供にたかって恥ずかしくないのかい!」
「まあまあ姐さん。奴さんの放浪癖と財布遺失癖は病気みたいなもんだしさあ。大目に見ないと胃が痛くなるわよ?」
「……わかってる。わかってるけどね。アンタも随分師匠には詳しいんだね」
「昔にちょいと世話になってね。腐れ縁みたいなもんさ」
 ブランは下手くそ極まりない鼻歌を歌いながら、無造作に渡された封筒を開けていた。それを横目に見ながら、セイルはチェインに問う。
「えっと、ルクスさんってチェインのお師匠様、なの?」
「ああ。ルクス・エクスヴェーアト……影追いとしての名前はツヴァイ・ハンダー。影追いの中でも上位さ。と言ってもあの通り、普段は神殿の外でふらふらしててね。実際に教えてもらったことなんて、片手の指で数えられる程度さ」
 ただ、あの人から教わったことは、決して忘れることは出来ないだろう。
 そう言って、ルクスが消えていった虚空に視線を投げたチェインは、先ほど浮かべていた複雑な表情を再び垣間見せた。とはいえ今度はその影をすぐに消して、セイルたちに向き直る。
「さて、その様子じゃまだ買い物もしてないみたいだし、買うもの買って帰ろうか」
 セイルとシュンランが揃って頷き、チェインは手紙を開いてその中に目を通していたブランにも声をかける。
「ブラン! アンタはどうするんだい?」
「あ、俺様今日は他に行かなきゃならんとこが出来ちまってさ。先に帰ってて、多分遅くなる」
 またかい、とチェインは呆れる。それに、セイルも今日の夜にはブランが自分の話を聞いてくれるのではないかと思っていたから、落ち込まずにはいられなかった。すると、ブランは口元に笑みを浮かべながらも、目を細めて静かに言った。
「 『エメス』の幹部エリオット・レイドに、何とか話をつけられそうなんよ。向こうの都合に合わせることになっから、その辺を調整しに、ね」
 その言葉に、全員の表情も否応無く強張る。『エメス』の幹部との対談。いくら穏健派であるといえ、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスに従いシュンランを追う連中の上位に位置する者だ。緊張しないわけにはいかない。
 唯一緊張感などとは無縁のように見えるブランが「そんなに深刻な顔しなさんな」と楽しげに笑う。
「というわけで、明日にはきちんとその辺をお話できるようにすっからさ。明日をお楽しみに、ってことで。それと」
 ブランは長い腕を伸ばし、セイルの頭をぽんと叩いた。
「お前さんの話も、明日聞かせてもらう。それでいいな」
「う、うん!」
 色々と飛び回っているブランのことだから、セイルが話したがっていたことなんて忘れているのではないかと不安になっていたが、きちんと覚えていてくれたのだ。言葉を違えぬというブランを、今ばかりはとても頼もしく思った。
 それじゃあ行こうか、というチェインの言葉に応えて歩き出したセイルたちだったが、不意にシュンランがルクスの向かっていった方向に視線を向けて、ぽつりと呟いた。
「そういえば、あの人、お財布無いのにだいじょぶでしょうか」
「――本当だ!」
 やっぱり、本当はどうしようもない人なのかもしれない。
 セイルはこっそり、ルクスに対する上向きの印象を改めておくことにした。
 そして視界の端では、ルクスからの手紙をコートのポケットに入れたブランが……酷薄な笑みを、浮かべていた。