空色少年物語

10:見知らぬ旅人(3)

 まず、セイルたちはルクスと共に、学院へと向かった。
 神殿の影響下にない学院だが、それでも神殿の騎士であるルクスの権力はそれなりの効果を発揮したようで、ルクスの持つメダルを見ただけで、受付は上司を呼びに走り、その上司もルクスに対して礼を尽くして接した。もはや、空色の髪を持つセイルなど目にも入っていないようだった。
 が、学院にブランはいないらしく、また聞いてみたところ弟子のロジャーの姿も無かった。セイルたちがフレイザーの同行者であることを知るロジャーがいなかったのは、セイルたちにとっては好都合ではあったが。
 ただ、なかなかに興味深い話を聞くことは、出来た。
「……ああ、フレイザーか」
 同じ魔道機関学棟の学者であるドワーフの老人は、長く蓄えた白い髭をひねりながら、苦い表情を浮かべた。
「奴は昔から学会にもろくに顔を出さんし、行方をくらますのが病的に上手いからな。最近学院で姿を見たが、その後のことは知らん」
「昔から、ってそんなに昔から、ここの博士なんですか?」
 セイルが問うと、ドワーフの老人は「そんなことも知らないのか」とばかりにぎろりとセイルを睨んだ。セイルはびくりと身を竦ませ「ご、ごめんなさい」と呟いたが、老博士は溜息ともつかない長い息をついて、言葉を続けた。
「言うほど昔でもない。だが、奴が学院の博士となった時は史上最年少の博士としてそりゃあ話題になったものだ。それが……そう、十年ほど前の話だったかな」
「十年前……」
 シュンランが、横で年数を指折り数えている。セイルも、その年月には思いを馳せずにはいられなかった。ただ、よくよく考えてみるとセイルはブランの年齢も知らないのだ。正確なことなど、何一つわかりようもない。
 ただ、十年前から博士として学院に所属していた、となれば、下手をすればセイルと同じか、それ以下の年齢の頃から博士と呼ばれていたということになる。まさしく「天才」の名がふさわしいと言えよう。
「天才だ。天才ではあるが、人としては大いに問題がある人物と言えるだろうな。まあ、近頃はちょくちょく学院に顔を出すようになっただけ、マシになったとも言えるが」
「前までは、ワイズにいなかったのですか?」
 シュンランの問いに、老博士は「ああ」と眉間に深い皺を寄せて言った。
「我々が考えもしないような理論を発表しておきながら、体の調子が悪いとか、都合が悪いとか、適当な理由をこしらえて学院に来ようとしなかった。奴が学院に顔を出すようになったのは、ほんの三年くらい前のことさ」
 その前の七年間、フレイザーの姿を見た者はとほとんどいなかったはずだ、という。一部の学者たちの間では、フレイザーは重い病にかかっていて立つことも出来ない、もしくは重い先天性魔力中毒症――所謂『忌まれし者』で、人前に出られぬ姿なのだ、などという根も葉もない噂を立てられていたという。
 だが、そのフレイザーが三年ほど前に唐突に姿を現した。若き天才は周囲の中傷など意にも介さず、己の代理人として当時学院でも厄介者扱いだった嘘吐きの学士を弟子に取り、ふらりと楽園を巡るあての無い旅に出かけては、ごく稀に帰ってくるのだという。
 まさしく、今のブランそのものだ。
 セイルたちは老博士に礼を言い、学院を後にした。石畳に靴音を鳴らしながら、ルクスに問うてみる。
「ルクスさんはあの博士の言ったこと、ご存知でしたか」
「知識としては知ってる。フレイザー博士ってのはそもそも謎の多い博士でな、学院の中でも実際に会ったことがある、っていう奴の方が少ないんだ。若い人間であること、くらいしかほとんどの連中は知らないだろうな」
 ――実際、顔は知られていないんだろうな、ブラン・リーワードを名乗って異端研究者やってるくらいだし。
 セイルのその思いは、胸の中に秘めておくことにして、代わりに問いを投げかける。
「ルクスさんは、フレイザー博士に会ったことあるのですか?」
「細長い体で、いっつもニヤニヤしてるこーんな目の兄ちゃんだろ」
 ルクスは両手の人差し指で目の端を大げさに吊り上げてみせる。シュンランが、それを見てぽつりと「似てるです」と呟いた辺り、どんなに大げさにやってみせても誇張にならないブランの目つきの悪さが伺える。
「一度会ったことあるが、相当な変わり者だな。肩書きの割に人懐こいし、偏屈なわけでもないが……いつも遠くを見ている、というか、違う世界に立ってる、というか」
 ルクスの言葉は微妙に要領を得ないが、それでもセイルにはわかるような気がした。ブランはすぐ側にいるというのに、何故か自分の手の届かない位置にいるような気がする。ブラン自身が望んで、離れた場所に立っているような錯覚にすら陥る。
 絶え間なく笑顔を浮かべながら、高みから人を観察しているようなあの冷たい瞳が、そう思わせるのかもしれない。
「と言っても、俺もあの兄ちゃんについて詳しいわけじゃないからな。詳しくないからこそ、こうやって、探す羽目になってるわけで……しかも財布まで失くすし……」
 自分で言いながら途方に暮れていくルクスを見かねて、セイルはルクスの腕を引っ張る。
「げ、元気出してください! 次は何処に行きますか?」
 そうだなあ、とルクスは顎に手を当てて考える。これで、フレイザーの家に行くと言い出したら、きちんと自分たちがフレイザーの連れであることも言わなければならないだろうか、とセイルは落ち着かない気分でいたが、シュンランはしれっとしたもので、すみれ色の瞳でルクスを見上げて言った。
「博士をよく見かけるお店などはありませんか?」
「いくつか聞いたことはあるが……とりあえず、行ってみるか」
 一軒目は、学院の側にある、セイルが今まで見たことの無い規模の本屋だった。魔道機関の発達で大量の印刷が出来るようになって、新聞や雑誌、そして一部の大衆向けの本は簡単に手に入るようになったが、きちんとしたつくりの本を買うとなると未だに躊躇うような値段になってしまう。そんな時勢にここまでの規模の本屋がある辺り、流石は学問都市、それだけの需要があるということだろう。
 並ぶ本の一つを試しに手にとって見て、セイルはすぐに後悔した。ここに置かれている本は、ほとんどが専門書であり、セイルの知る言葉で書かれているのにも関わらず、まるで理解できない。そもそも文字が読めないシュンランは、きょろきょろと辺りを見渡した後に、すぐに興味を失って店主に話を聞こうとするルクスの方に向かってしまった。
 店の主人に問うてみると、セイル・フレイザーがここの常連であることは簡単に聞くことが出来た。ただ、店主がフレイザー博士について語る時の表情は、明らかな苛立ちが込められていた。
 どうやら、フレイザー博士は立ち読みの常習犯であり、常連でありながらほとんど本を買っていったことが無いのだという。そんなに本を読みたければ図書館にでも行け、という店主の叫びは何とも悲痛な主張が篭ったものだった。
 ちなみに、それに対するフレイザーの主張は「新刊って図書館に入るの遅いじゃない。本屋に入ったの見る方が早いわよ」。何とも身勝手なもので、セイルは完全に呆れてしまった。
「ここにある本は全てとても分厚い本ですが、これを、ずっと読んでいたら迷惑になりますね」
 シュンランも少しだけ眉を寄せて言うが、店主は重々しい表情で首を横に振った。
「違うんだ。奴がここにいる時間は、ほんの十分かそこらだ……それで、新しく出た本の内容を、全て暗記して帰っていく」
 これほど厄介な手合いはいない、という店主の前で、セイルとシュンランは思わず顔を見合わせてしまった。ただ、ルクスだけが「あはは」と苦笑した。
「あの博士ならやりかねんな」
 確かに、出来る出来ないではなく、ブランなら「やりかねない」とは思わせてしまう辺りが、ブランの人徳というか何というか、である。
 ただ、いつフレイザー博士が顔を出すかはまちまちで、近頃帰ってきているということは知っているが、今日は店主も姿を見ていないという。まず来て十分足らずで何処かに消えてしまう客なのだ、その出没タイミングを把握するのも困難だというのは、わからなくもない。
 二軒目は、フレイザーがよく姿を現すというカフェだった。ここでも、あまり有益な情報は手に入らなかった。ブランは確かにワイズにいる間は毎日のように顔を出すようだが、ここでも三十分と留まらずに移動してしまうのだという。
「ブランは、とても忙しいのですね」
「うん……そうみたいだね。でも、一体、何してるんだろう」
 唯一セイルたちが聞けた情報らしい情報といえば、昨日見かけたフレイザー博士が、何か書き物をしていた、ということくらいか。手紙のようなものを書いていたらしいが、当然偶然見かけられただけで、一体誰に何を書いていたのかなど、わかるはずもない。
 それに、詮索してもいけないことだとは、思う。
 三軒目は、セイルの想像もつかない場所だった。
 とても小さな店で、可愛らしい看板を見る限り、菓子を売る店に見えた。実際に中に入ってみると確かにそこは菓子屋であり、ケーキやクッキーの甘い香りがセイルの鼻をくすぐる。甘い物好きなディスが諸手を挙げて喜びそうな場所だが、残念なことにディスはブランの手の中だ。
 後で、何か買って帰ってあげれば喜ぶだろうか――考えている間に、ルクスは店主である柔らかな色のエプロンをかけた女性に話しかけているところだった。
 明らかに旅人然としたルクスや、空色の髪をしたセイルの姿を見て目を白黒させていた店主だったが、ルクスが「こういう人を探している」と先ほどやってみせたブランの顔真似をすると、すぐに合点がいった様子で教えてくれた。
「背の高い、緑のリボンの男の方ですよね。最近よくお出でになりますよ」
 どうやら、ブランはこの店にちょくちょく顔を出しては店主である女性と世間話をして、一つか二つほど菓子を買って帰っていく、らしい。とはいえ、ブランが菓子を持って帰ってきたところを見たことが無いから、おそらくは自分で食べているのだろうが……
「しかし、ブランは甘いものが苦手です」
 こそりとシュンランが耳打ちをする。セイルは「そうなの?」と思わず聞き返してしまうが、シュンランはおそらく、と付け加えながらも小声で言う。
「ディスのために買ってきたお菓子に、手をつけたところを見たことがありません」
 セイルも、その言葉で思い出す。確か、この前森の中のお婆さんにパイを出された時も、結局は半分も食べていなかったのではなかったか。
「でも、元々ブランって小食みたいだしさ。それにほら、チェインがマフィンを作ってくれた日は、美味しかったって言ってたじゃん」
「そういえば、そうでした。これは、わたしの思い違いかもしれないです」
 シュンランは、それでも納得がいかないのか微かに眉を寄せて指を組む。セイルに至ってはブランの行動からそれらを推測しようともしなかったから、シュンランの目の付け所には純粋に驚かされた。
 そんなセイルとシュンランの密談に気づいていないルクスは、フレイザー博士がどのくらいの時間に来て、普段店主とどのような話をしているのか、もし差し支えなければ教えてほしいと言った。店主は心底困った顔をして、首を傾げる。
「あの方が来るのは、大体は店を閉める前くらいですが……本当に、世間話しかしませんよ。あの方が学院の博士だということも今初めて知ったくらいです」
 ただ、ブランはいつもこの店の菓子や内装を褒め、菓子の作り方やどうすればこのような店を経営できるのか、などということまで聞いていたようだ。
 シュンランは、ただでさえ傾いでいた首を更に傾げてセイルに問う。
「……ええと、お菓子屋さんをしたいのでしょうか」
「どう、なんだろう。ちょっと、想像できないな」
 ブランが甘い香り漂うふわふわとしたお店で笑顔でお菓子を売っている。そんな想像をしかけて、即座に止めた。何だか絶対に考えてはいけないものを考えてしまった、そんな気がしたから。
 ルクスは「ふーむ」と顎に手を当てて何かを考えていたようだったが、結局のところこれ以上店主からフレイザーの居場所に関わることを聞けるとも思えなかったのだろう、店主に礼を言って外に出た。セイルとシュンランはディスやチェインのためにケーキをいくつか買って、ルクスの背中を追った。
 結局、その他の場所を回ってもフレイザーの足取りを掴むことは出来なかった。あちこちで姿が見られ、その先々で奇矯な行動をしながらも、その後にはふっと消えてしまう。まるで幽霊だ、と愚痴る花屋の老女の言葉がやけにセイルの耳に残った。
 とりあえず、あとはフレイザーが学院から借りている家を訪ねてみるか、とルクスが言ったところで、不意に何者かが目の前に立ちはだかった。セイルがはっとして目を上げると、目の前に立っていたのは見知らぬ男たちだった。明らかにごろつき然とした連中のうち、リーダー格と思しき男が舐めるような視線でセイルたちを睨めつけ、どすの利いた声で言う。
「お前らか? セイル・フレイザーの行方を聞き込んでるっていう野郎は」
 そして、その背後で下っ端のように見える派手な格好の小男が甲高い声を上げる。
「あっ、あの空色のガキ、この前フレイザーと一緒にいたガキですぜ。仲間じゃないっすか?」
 ルクスは、その言葉に驚き目を丸くしてセイルとシュンランを振り返った。セイルは慌ててルクスに今まで黙っていたことを謝ろうとしたが、「まあ、その話は後だ」と言い置いてルクスは頭をかいてセイルたちを庇うように一歩前に踏み出す。
「お前さんたち、俺たちってよりフレイザー博士に用があるって顔だな」
「ああん?」
 奥に立つ血の気の多そうな大男が凄みを利かせる。ルクスは少しだけ引きつった笑顔を浮かべながらも、一歩も引くことなく男たちに相対する。リーダー格の男が、拳を握り締めてルクスの目の前に立つ。
 ルクスは男たちが口を開く前に、ぽんと手を打って言った。
「もしかして運悪くフレイザー博士に絡んで、逆にぼこぼこにされた恨みとか?」
 その言葉を聞いた瞬間、男たちの気配が一瞬にして変わった。初めから敵意をあらわにしていた男たちだったが、それが明らかに増大したのがわかって、セイルはシュンランを庇うように咄嗟に腕を広げる。
 大きな男たちの後ろに隠れるようにしている小男が、きいきいと怒りの声を上げる。
「うるせえ! あの野郎めちゃくちゃやりやがって、俺は片腕折られて、兄貴なんて全治一ヶ月でまだ病院から出られないんだからな! 目にもの見せてやらねえと気がすまねえ!」
 その言葉にはセイルも目を丸くしてしまった。
 ――何やってんだ、ブラン……!
 絡まれたブランにとっては正当防衛だったかもしれないが、それにしてもやりすぎではないか。それに対し、ルクスはやっぱりなあ、と気の抜けた笑みを浮かべて肩を落とした。
「相変わらず実力行使の上に手加減苦手なんだなあ、あの博士は……」
 口で説得するのが苦手なのはわかるけど、とばっちりを受けるこっちの身にもなってくれないかね、と愚痴るルクスに対して、「黙れ!」と拳を突き出すリーダー格の男。全く構えすら見せなかったルクスがそのまま殴られる光景を想像し反射的に目を閉じてしまうセイルだったが、次にセイルが目を開けた時には、思ってもいない光景がそこにあった。