空色少年物語

09:学問都市ワイズ(3)

 チェインは「やれやれだね」と言いながら立ち上がり、示された台所を確認しに行った。残されたセイルとシュンランはお互いに顔を見合わせて、しばらく沈黙していたが……ふと、気になってシュンランに問うてみる。
「あのさ、シュンラン。何で、博士にあんなこと聞いたの?」
「あんなこと、何ですか?」
「ブランのこと。その……まだ不安? 前に、怖いって言ってたもんね」
「いいえ。もう、ブランが怖くはないです。ただ」
 シュンランはぎゅっと、膝の上に置いた手を握り締めて、言った。
「知らないままではいけない。ブランに言われるままではいけない。そう、思うです。ブランの言葉はとても正しいです。しかし何故ブランがそう言うかは、わからないです。わからないままは、とても、危険です」
 だから、ブランのことが知りたい。
 何故自分や『ディスコード』を欲していたのか。『エメス』と敵対するのか。そして、その先に何を見出そうとしているのか。それを聞かない限りは、自分もブランを信じることは出来ないとシュンランは言う。
 自分の過去や歌に秘められた力、『世界を救う』という心に刻まれた誓いが何を意味しているのかは今はまだわからないけれど……せめて、自分の行く先は自分で決めたいから。そう言い切ったシュンランの目は、真っ直ぐだった。
 セイルは、ただただ、目を丸くしてシュンランの話を聞いていた。
 何だか、シュンランがとても遠く見えた。今も横に、肩が触れ合う位置に座っているというのに、自分よりもずっと先に立っている、そんな錯覚に囚われる。
 自分は……そんなシュンランに、何が出来るだろう。
 手を繋いでいるだけでいい、とかつてシュンランは言ったけれど。本当にそれでいいのだろうか。何も考えず、ただ兄に会いたい、シュンランの行く先を見届けたい、そんな思いでシュンランの手を繋いでいていいのだろうか。
 本当は、何を考えなければいけないのだろうか。
「セイル? どうしたですか」
 知らず、ぎゅっと胸を押さえていた。シュンランが何処か不安げな表情でセイルの顔を覗き込み、胸に当てられたセイルの手に触れた。刹那、背筋に走ったぞわりとした感触に、セイルはびくりと震えてシュンランの指先から逃げるように手を引っ込めていた。
 シュンランもその反応には吃驚したのだろう、目を真ん丸くしてセイルを見つめていて……それに気づいたセイルは、誤魔化すように笑った。
「はは、ご、ごめん。何でもない。何でもないよ」
 言いながらも、考えずにはいられない。
 今、一瞬感じたものは、何だったのだろう。自分のものとは思えない、黒くざわつく感情。ディスが苛立っている時のそれとよく似た、しかしそれよりもずっとどろりとした嫌な感触を伴ったもの。
 セイルは、その答えを知っていた。
 ただ――どうしても認めることが出来ないまま、セイルは曖昧に笑い続ける。そうしなければ、自覚したくないことを自覚させられてしまう、そんな気がして。
 幸いと言うべきか、その時にチェインが二人の名を呼んだ。夕食の下ごしらえをするから手伝え、という声。セイルは真っ先に立ち上がると、シュンランの手を取った。
「行こう、チェインが呼んでる」
「はい」
 シュンランも、セイルの様子がおかしかったことはすぐに忘れてくれたのか、普段どおりの笑顔で返す。それがセイルをとても安堵させてくれた。その時、ディスが頭の奥で何事かを呟いた、そんな気がしたけれど……何を言ったのかまではわからなかった。
 わからなくて、よかったのだと思う。
 
 夕食の準備をしたり、夕食を食べたり、風呂に入ったり、自分たちが寝るための部屋を片付けたりしているうちにいつの間にやら夜は更けてしまった。フレイザーはこの時まで待っていても帰ってこなかったため、セイルとシュンランは先に与えられた部屋で眠ることにした。
 ディスは時たまセイルに聞こえない程度の声で何かを呟いていたが、セイルが寝台に入ると言葉を切って、『なあ、セイル』と声をかけてきた。
 穏やかな声だった。ディスにしては穏やかな声ではあったけれど、セイルは自然と身を強張らせた。何を言われるのだろう、という不安を感じながらも言葉を返す。
「何、ディス」
『……お前さ、これからどうしようと思ってる?』
「どうしよう、って」
『シュンランのこと、兄貴のこと。まあ色々あるだろうが、お前はこれからもずっと、兄貴を探すためにシュンランについてくつもりか』
「それはそうだよ。こんな、まだ何もわかってない状態で、諦めたくない」
 それは、本心だ。本心だけれど……その言葉が、自分で言いながら浮ついて聞こえる。自分がここにいられるのは、ディスがいてくれてこそだ。ディスが自分を『使い手』として宿ってくれているからこそ、自分の身を守ることも出来るし、シュンランの助けにもなれる。
 だが、逆に言えば、ディスがいなければ自分は無力な足手まといでしかない。誰がはっきりセイルにそう言ったわけでもない、それでも自分のことだ、セイルが一番よく理解している。
 だから。
「俺のこと、見限った?」
『は?』
「俺がただの子供だから。一応は使い手だけど、実力なんて無いから、もしかしてもう、俺に使われるのが嫌になったのかなって」
 側には、セイルと同じ使い手のブランだっている。ディスは、ブランの人格はともかくその実力は認めているような節がある。自分がディスならば、きっとブランに使われた方が幸せかもしれない、そう思った時、ディスは溜息混じりに言った。
『んな卑屈になるもんじゃねえ』
「でも」
『誰がお前を嫌だなんて言った。確かにお前はいつもうじうじしてて自己主張が足らなくてイラっと来ることもそりゃあ多々あるけどな』
 卑屈になるなと言う割に酷い言い分に、セイルは思わず膝の上に載せた掛け布団をぎゅっと握り締めてしまうが、ディスはすぐにこう付け加えた。
『俺は俺の意志で手前の元にいる。それだけは忘れんな』
「え……?」
 それは、ディスが自分を認めてくれている、ということなのだろうか。
 ディスはいつもはっきりとしたことは言わない。言わないけれど――
「でも、俺、ディスに頼ってばかりだし。自分ひとりじゃ戦えないし」
『俺の取り柄は戦うことだけだ、遠慮なく頼りゃいい。この平和ボケした楽園でまともに戦える奴なんて一握り、そのくらいは覚悟の上だ』
「でも、この前は俺のこと役立たずって」
『それは手前の精神性の問題だ、戦いの実力を問うたつもりはねえ』
「でも」
『だあああっ、でもでもうるせえっ! 俺がそう言ってんだ、納得しろ!』
 随分横暴な言い分だ、と思いながらもセイルは反射的に口を噤んでしまう。ディスは呼吸などしているはずもないのにぜーはー言いながら、言葉を続ける。
『とにかく! 俺が改めて問いたいのは、手前が本気で兄貴に会う気があるか、シュンランについていく気があるか。それがどんな結果になろうとも、お前はそれを貫こうと思えるか、ってことだ』
 どんな結果になろうとも。
 ディスは具体的なことは言わなかったけれど、何故かその言葉が妙に引っかかった。ただ、胸の底にある思いはずっと変わらない。シュンランと出会った瞬間に広がった世界、自分の足で歩き始めたあの感覚、その全てを失わないように。
「……貫きたい。出来るかどうかはわからないけど、でも、貫きたいよ」
 その答えを聞いて、ディスは『はっ』と小さく笑った。それはディスらしい、軽い嘲りを含んだ笑い方。ただ、その嘲りがセイルに向けられたものではないことは……何故か、セイルにも伝わった。
「けど、ディスは本当に、俺なんかでいいの? その、迷惑じゃないの?」
『――俺は剣だ』
 きっぱりと放たれたその言葉に、セイルは何故かどきりとする。当たり前のことだ、当たり前のことだというのに、何か鋭いものの切っ先を突きつけられたような錯覚。
『使い手の手前が心からそれを望むなら、俺は手前が望むように動くまでだ。手前が望むように』
 決然としていながら自分自身に言い聞かせるような、ディスの声。その声はいつも聞くものよりも妙に硬く、セイルは不安になる。その不安を読み取ったのか、ディスはすぐにいつも通りの不機嫌そうな声に戻って言った。
『あー、悪いな、変なこと聞いて。とっとと寝ろよ、お休み』
「……う、うん、お休み」
 そう言ったはいいけれど、セイルは横たわって掛け布団を首元まで持ち上げた姿勢で、暗い天井を見上げる。ディスは、何故こんなことを問うたのだろう。セイルの意志を確かめる、という意味はもちろんあったのだろうけれど、どちらかというとあれは、ディス自身に何か思うところがあったのではないか、と考えずにはいられない。
 ただ、考えたところで、そして問うたところでディスから答えが得られるとは思わなかった。ブランは致命的に言葉が足りない、と言ったのはフレイザーだったが、ディスだって大概言葉が足りていない。ディスの場合はブランと違って、言うべき言葉を飲み込んでいる気がするけれど。
「人のこと、言えないじゃないか」
 散々自分のことを「うじうじしている」とか「自己主張が足らない」とか文句つけておきながら、ディスとてそんな偉いことを言える立場ではない。そう考えてみると、少しだけ強張っていた心がほぐれていく。
 その代わりにぽつりと生まれた不安を忘れるべく、ぎゅっと目を閉じて……
 次の瞬間、部屋を襲った激しい振動と体の底に響く轟音で飛び起きた。
「な、何!」
「うわあああああ、俺様の家があああああ!」
 窓の外から聞こえたのは、フレイザーの悲痛すぎる叫び声、そして謎の咆哮。だが、窓からはこの衝撃の正体は見えない。窓とは逆側で何かが起こっているに違いない。
『セイル、代われ!』
「うん!」
 セイルはディスに体の主導権を譲り渡す。ディスは迷わず扉を開けて部屋の外に飛び出す。すると、既にシュンランも目覚めていたらしく、部屋の外に出て不安げに飛び出してきたディスを見た。
「シュンラン、隠れてろ」
「いいえ、わたしも、行くです」
 シュンラン、と非難するようにディスが声を上げようとしたが、シュンランは首を横に振り、ぎゅっと己の服の裾を掴んだままディスをすみれ色の瞳で真っ直ぐ見据える。
「鈴の音が、聞こえたです……あの人が、来てるです」
 ――ティンクルか!
 ディスとセイルは同時に察した。忽然と現れ消えるあの奇怪な道化の前では、シュンランを一人で残す方が危険だ。実際に、鍵がかかっていたはずの部屋に単身現れた彼女にシュンランを攫われかけたこともある。
 ディスはちっと舌打ちして、「離れんなよ」と言い置いて駆け出した。背後からぱたぱたとシュンランが頼りない足音でついてくるのを聞きながら、ディスは玄関に向かって走り、扉を開けた。
 そして……目を剥いた。
「うわあ、皆さんおっそろい!」
 場違いな道化の明るい声が、鈴の音とともに頭の上から聞こえる。セイルは目の前に立つチェインの背中を認め、そしてディスが顔を上げるのにつられてセイルの視点も上へと持ち上がっていく。
 そう、目の前には、巨大な『何か』が立ちはだかっていて。
 それが、漆黒に塗られた四角い箱に、六本の足を生やした一種の魔道機関ゴーレムであることに気づいたのは、それから数秒後のことだった。
「えへへ、また来ちゃった」
 異形の機兵の上に立つ極彩色の道化は、二股に分かれた帽子を揺らし、月明かりの下で楽しそうにくるくる回る。
「き、貴様、何処から湧いて出た!」
 響くフレイザーの声に、ディスは反射的にそちらを見る。玄関から飛び出してきたセイルたちからは右手に、フレイザーが腰を抜かして座り込んでいた。そして、フレイザーの横手の塀と建物の一部が、無残に崩されていた。セイルとシュンランの部屋が奥であったことは、救いだったといえよう。
 ティンクルは「ふふ」と唇に指を当て、フレイザーを一瞥して言う。
「ティンクルちゃんはー、何だって出来ちゃうの。こうやって」
 くるりと一回転したティンクルの姿が忽然と消えたかと思うと、セイルの背後で「きゃっ」と声がした。ディスがはっとして振り返ると、ティンクルがシュンランの手を掴み、捻り上げているところだった。
「手前っ!」
 ディスが左手を刃へと変えて地を蹴るが、ティンクルはディスの一撃をふわりと浮かんでかわし、続けて放たれたチェインの鎖が襲い掛かる前に、シュンランの体をぬいぐるみか何かを持つようにぎゅっと抱きしめて盾にする。
「歌姫、もーらいっ」
「や、やめて、くださいっ」
 シュンランは空中でじたばた暴れるが、ティンクルは細腕に似合わぬ力でシュンランの体を締め上げる。
「やーだねっ、ノーグのところに行くまで、離してあげないんだから」
「ノーグ……? 『エメス』が、どうしてここに」
 フレイザーが愕然とした表情でティンクルを見上げる。ティンクルは空中を滑るように進んで機兵の上まで戻ると、緑と紫に塗り分けた唇で笑みを浮かべる。
「ホントは、ワイズでは手を出すな、って言われたんだけどね。ノーグが、早くシュンランに会いたい、会いたいって言うから来ちゃった。ノーグったら、わがままさんっ」
 無邪気な笑みの奥に見え隠れするのは、得体の知れない衝動。もし、セイルが自分の体の主導権を握っているなら、思わず自分で自分の体を抱いていただろう。だが、ディスは体に纏わり付く何かを振り切り、機兵に向かって駆け出す。
「ぐだぐだうるせえ、そいつを返せっ!」
 ティンクルは、体を低くして機兵に飛びかかろうとしたディスを両目で色の違う瞳で見据え……そして、表情をぐにゃりと歪めた。
「銀の目! ワタシ、その顔嫌い。嫌い、嫌い!」
 突然ヒステリックに叫びだすティンクル。これには、ディスも呆然としてしまう。一体、何を言い出したのだろう。セイルの銀色の目が、気に障ったのか。それにしても、唐突過ぎる反応だ、そう思った時、ティンクルはどんとシュンランを機兵の上に突き倒し、己も機兵にしがみつく。
「アンタの顔なんて見たくない、帰る!」
 そのまま、ティンクルは普段現れるのと同じように、機兵ごと消え去ろうとする。ディスは咄嗟に機兵の足にしがみ付くが、そんなディスをティンクルが壮絶な笑みで見下ろして。
 次の瞬間、セイルはふわりと体が浮かぶような感覚とともに、意識を闇の中に刈り取られた。
 だが、その時……歌が聞こえた。懐かしく優しい、しかし何処か物悲しい歌声。ティンクルのちりちりと耳障りな鈴の音とは違う、遠くから、祝福のように響く鈴の声。
 シュンランの、歌。
 瞬間、意識が覚醒し、セイル――もっと正しく言うならば、セイルの身体を借りているディス――は目の前の光景に思わず叫んでいた。
「っつあああああっ!」
 機兵の足にしがみ付いたままのディスの足元に、地面は無かった。見上げれば、機兵は小さな屋根に無理やり足を数本突き刺して己の体を固定していたが、ぐらぐらと揺れて今にも落ちそうだ。
 見下ろせば、少し下に魔法の力で仄青く輝く巨大な文字盤の一部が見えて、もう少し下に顔を向ければ、遥か遠くの地面が見えたに違いない。意識をそこまで持っていく勇気が無かったのか、ディスはひゅっと息を吸って上に視線を戻したけれど。
「時計塔の上とか、マジで殺す気か」
 びゅうびゅうと風に煽られながら、ディスは乾いた笑みを浮かべる。
 そう、ティンクルとシュンランを乗せた機兵、そして機兵にしがみついたディスは、ワイズの中心にある時計塔の頂点にいた。見上げても、ワイズの夜空だけが、頭上に広がるばかり。
 ディスは手に力を入れて、何とか体を持ち上げようと試みる。こんな時ばかりは、セイルの身体能力の高さが活きてくる。機兵の足の関節を掴み、ゆっくりとよじ登ろうとするディスの耳に、ふと響いてくるのは鈴の音と、激しい声。
「どうして、どうして邪魔するの!」
 機兵が中途半端な姿勢をしているため、ディスから四角い機兵の上を見ることは出来ない。だが、その声がティンクルの声であることくらいは、わかる。
「ノーグのとこまで飛ぶはずだったのに……死にたいの? 死にたいんだ?」
「死にたく、ないです。しかし、一人で行くのは嫌です。そう思ったらここにいました」
 ティンクルに答えているのは、シュンランだ。詳しい様子はセイルにもわからなかったが、言葉だけで判断するなら、『エメス』の本拠地……兄ノーグの元まで一気に瞬間移動しようとしたティンクルを、シュンランの「歌」が阻止したということになるのだろう。
 だが、その阻止は完全ではなく、このような場所に出てしまった――
 その時、がん、と機兵が揺れた。刹那、登りかけていたディスの手が、滑る。危うく落ちかけた体は、しかしすんでのところで片手で支えられた。ほっと息を付くセイル、まだ安心できないと手に力を込めるディス。
「ティンクル、危ないです!」
「いいもん、いいもん、もういいよ、皆ワタシの邪魔をする! それなら皆、死んじゃえばいい! ワタシとノーグだけいればいいんだもん!」
 がんがん、と音がするたびに機兵の体が傾ぐ。ティンクルが、機兵の上で足を踏み鳴らしている音だと、セイルも気づいた。
「おかしなこと言ってんじゃねえ、手前は、シュンランを連れて帰るんじゃねえのかよ!」
 ディスはたまらず叫んだ。すると、ティンクルがぬっと機兵の影からこちらを覗きこんできた。その表情は笑顔でこそあったが、左右がつりあわない酷く歪んだ笑い方で、背筋がぞっとする。
「まだいたんだ」
「いて悪かったな」
「うん、悪いよ。だから死んで」