空色少年物語

09:学問都市ワイズ(1)

 揺れる、揺れる。
 揺れているのは、自分の体だろうか。それとも自分が見ているこの光景だろうか。
 セイルは、今の自分よりもずっと小さな体で、部屋の片隅に縮こまっていた。自室はがらんとしたもので、広い部屋の端っこにセイルの体にしては大きなベッド、それに木を切り出して作った無骨な机が置いてあるだけだ。
 机の上には、いくつも飛空艇の模型が並べられているが、その中に一つ、酷く不格好なものがある。それは、幼いセイルが兄の手ほどきを受けて一生懸命作ったものだ。空を飛ばすにはあまりに頼りないが、それでもかろうじて船の形になったそれを、兄が手放しに褒めてくれたことを思い出す。
 そうだ、兄は。
 兄は、何処へ消えてしまったのだろう。
 階下では、誰かが言い争うような声が聞こえていて、小さなセイルは思わず耳を塞いでしまう。知っている声が二つ、知らない声がいくつも。誰もが、兄の名を呼んでいる――
「まさか!」
 その中で、一際強く響いた声に、セイルははっとして耳を塞いでいた手を外す。
 少し掠れ気味だが、凛と張った声。
「奴は馬鹿だけど、絶対にんなことするような奴じゃねえ! 何で全部奴の仕業だって決めつけんだ!」
 なおも声は言葉を続けようとしたが、次の瞬間にはセイルの知らない無数の声がその声を押しつぶしていた。棘の生えた声は、ここにはいない兄を一方的に責め立てる。
 異端。裏切り者。人殺し。
 その言葉が示す意味もろくに理解できないままに、小さなセイルはぶんぶんと首を振る。
 そうしたところで声は止んでくれない。耳を塞いでも、何をしても、恐怖を呼ぶ声はどんどん膨らんでいくばかり。もはや、兄を庇ってくれた凛とした声も聞こえなくなってしまった。
 兄は、兄は何処にいるのだろう。兄がここにいてくれさえすれば。そうすれば、誰も悲しい思いはしなくて済むというのに。
 こうやって、膝を抱えて恐怖に震えることだって、無いはずなのに。
「兄ちゃん……怖いよ……!」
 
 体を襲った一際大きな揺れにセイルの意識は覚醒する。
 そして、一拍遅れて煤けた幌を見上げ、自分が今何処にいるのかを思い出した。
 ここは、馬車の中だ。学問都市ワイズへ向かうには空路が早いものの、空では逃げ場が無いというチェインの言葉で、小さな船や馬車を乗り継ぐことになった。今は荷物を運ぶ商人の馬車に乗せてもらい、昼前には学問都市に辿り着くと言われていたはずだった。
「おはようございます、セイル」
 鮮やかなすみれ色が、不意に視界の真ん中に咲いた。セイルは驚きに銀の瞳を丸くしたが、すぐにふにゃりと顔の力を抜いて言った。
「お、おはよう、シュンラン」
「だいじょぶ、ですか。とても、苦しそうでした」
「苦しそう?」
 セイルが首を傾げると、荷物の間で長い体を縮めていたチェインが頷いてみせた。
「ああ、随分うなされていたみたいだったよ。悪い夢でも見てたのかい?」
 悪い、夢。
 その瞬間に、一瞬前まで見ていた光景が思い出される。家の中に響く知らない罵声、部屋の中でなすすべもなく震える自分。あれは、確か。
「……うん。兄貴がいなくなった日のこと、思い出してさ」
「ノーグが?」
 チェインの表情がすっと険しくなる。セイルは思わずそこから視線を外しながらも、ぽつり、ぽつりと言葉を落とす。
「あの日、怖い人たちが家に来たんだ。神殿の人だったのかもしれない。兄貴のこと、すごい怒ってて……俺、怖くて部屋に閉じこもってたんだ。その人たちは、結局母さんと姉貴が追い払ったはず、だけど……」
 その後のことは、よく覚えていない。
 あの日、誰よりも兄を信じ、絶対にノーグを見つけてみせると意気込んでいた姉の姿も、最近は見ていない。元々兄よりもずっと家に寄り付かない生活を送っている姉だから、あまり気には留めてはいなかったけれど……
 思わずあの頃と同じように膝を抱えてしまうセイルの顔を、シュンランが再び不思議そうな顔をしながら覗き込む。
「セイルには、お姉さんもいるですか?」
「あ、うん。そういえば言ってなかったっけ。姉貴は俺よりも後に家に来た養子。俺たち兄弟の中では一番年上で、元々は母さんの友達なんだってさ」
 それを聞いていたチェインが、微かに眉を寄せて頭をかく。
「何か、アンタの家ってすごい複雑なんだね」
「そうかな?」
 セイルは首を傾げる。確かに、自分や姉はそもそも両親とは血が繋がっていないし、兄も父の遠縁であって本来はカーティス家の人間ではない。それはセイルが幼い頃には既に了解していたことだ。ただ、他の家庭がどのようなものであるかを知らず……周囲の空気から何となく察することは出来るが……「カーティス家」に育った以上、想像することしかできないし、セイルには満足に想像することすらできない。
 だから、それをつかまえて「複雑」だと言われても、ぴんとは来ないわけで。
 チェインもセイルが不可解そうな顔をしているのに気づいたのだろう、すぐに小さく首を振って話を変える。
「や、悪かったよ。で、アンタの姉さんってのは、何してる人なんだい?」
「えと、困ってる人に手を差し伸べるお仕事、って言ってた」
「何だいそれは」
「俺にもよくわかんないんだ。姉貴も兄貴と一緒であんまり家帰ってこないし。でも楽園のあちこちを飛び回ってて、色んなとこに友達がいるとは言ってた」
 思い返してみれば、何度か姉の友達がセイルを訪ねに来てくれたこともあった。姉の友達は、姉をはじめとした家族と同じように空色のセイルを特別扱いはしなかった、はずだ。そして、カーティス家とそれを取り巻く林だけが自分の世界だったセイルにとっては、数少ない外との繋がりでもあった。
 もちろん、当時の自分がそんなことを理解していたはずもない。そう思えるようになったのは、きっと自分が家を飛び出して、今まさに外の世界に触れているからかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えていると、御者台に座っていた商人が幌の中を覗き込んで言った。
「もうすぐワイズに到着するぞ、準備をしておくんだな」
「あ、はい!」
 セイルは声を返して、幌の外を見る。街道の向こうに、見たことの無い光景が広がっていた。円形に広がる広大な町並み、その中心にはすっと聳え立つ塔……呆然と近づいてくる風景を見つめているうちに、街道は終わりって目の前に石造りの巨大な門が聳え立つ。古びた門の上部には、『ライブラ国首都ワイズ』の文字が書かれていた。
 馬車はがたごとと揺れながらその門を潜る。途端、太い道を中心に広がる、明るい町並みが目に入った。道行く人の数も、これまで訪れた街の比ではない。
「すごい! 賑やか、ですね!」
 シュンランが馬を操る商人の横から顔を出して歓声を上げる。商人も無邪気なシュンランの姿をほほえましく思ったのだろうか、穏やかに笑いかけながら言った。
「旧レクスのセルフェスが分割されてからは、ここワイズが楽園第二の都市だからなあ。嬢ちゃん、ワイズは初めてかい」
「はい! あの、ワイズのがくいん、というのは何処にありますか?」
「ああ、学院かい? 学院ならあそこに見える時計塔を目指せばいい」
 商人は真っ直ぐに道の先を指した。その指が向けられた先に視線をやると、確かに巨大な時計塔が大きな建物の立ち並ぶ街の中でも一際高く聳えている。先ほど町の外から見た時にも見えていたのだから、近づいてみれば相当巨大なものに違いない。
 セイルたちは礼を言って、商人の馬車から降りた。商人は「近頃色々物騒だから、気をつけろよ」と言って市の方へと馬車を走らせていった。手を振ってそれを見送っていたセイルは、道の向こうに馬車が消えていくのを見届けて、チェインに向き直った。
「えっと、それじゃあ……学院に、行くんだよね?」
「ああ。しかし、アイツの人脈も馬鹿にならないね。まさか、あのセイル・フレイザー博士と知り合いなんて」
 チェインは前に立って歩き出し、ブランから渡された手紙をひらひらさせた。セイルもチェインを追いかけて大股に歩き出しながら、その背中に問いかける。
「チェイン、知ってるの?」
「フレイザー博士といえば、魔道機関学者の中でも稀代の有名人さ。今まで莫大に魔力を食う、馬鹿でかい代物だった魔道機関の仕組みをまるっきり変えちまった天才だよ」
「あっ、もしかして、小型発動機を発明した人? あれが出来たおかげで、飛空艇もすごく小さく、速く出来るようになったって」
「そう。詳しいじゃないか……って、そうか。カーティスといえば、飛空艇技師の家系か」
 うん、とセイルは頷く。カーティス家は古くから飛空艇に携わってきた家だ、と父から聞かされてきた。その歴史は、実は飛空艇が発明された頃、三百年ほど前まで遡るとも聞いたことがある。それは父でなく兄が言っていたのだったか。
 だからこそ、飛空艇の歴史を変えるような発明に関してはセイルにもある程度の知識はあるし、興味だってある。父から聞かされることもあったし、当然自分から調べることだってあったのだ。
 シュンランはチェインの持っていた手紙をしばらく見つめていたが、文字の読めないシュンランはやがて真ん丸い目をぱちくりさせて横を歩くセイルを見た。
「セイル・フレイザー。セイルと同じ名前なのですね」
「うん、よくある名前だからね」
 そもそも楽園に多いのは、創世の時代に生きた使徒の弟子や、楽園を救った英雄、勇者にあやかった名前だ。そのため、同じ名前の人に出会うことは決して珍しくなく、『セイル』ももちろん例外ではない。
「よくある名前……それは、困りませんか? 誰を呼ぶのか、わからなくなりませんか?」
「どうだろ。俺は同じ名前の人に会ったこと無いからわかんないけど」
 セイルもシュンランと一緒になって首を傾げてしまう。そんな他愛ないやり取りをしながら、セイルたちは大通りを時計塔に向かって歩いていく。遠くから見ても巨大だった時計塔が近づくにつれ、セイルは自然とその頂点に目を向けてしまう。ずっと見ていると首が痛くなってしまいそうなほどに、高い。そして、大きい。
「すっごいなあ……」
 思わず立ち止まって呟くと、チェインが「あはは」と愉快そうに笑った。
「こんなに大きな時計塔はユーリス神聖国にも無いからね。ワイズの名物さ」
「チェインは、今までにワイズに来たことがあるですか」
 シュンランも時計塔を背伸びするような姿勢で見上げながら、チェインに問うた。チェインは笑っていた表情を僅かに歪めて言った。
「故郷がライブラの辺境でね。姉さんがここの学院にいた頃に、何度か来たことがある。それだけさ」
「あ……ごめんなさい。苦しいこと、思い出させてしまいました、か」
 チェインの言葉に混ざった苦さに気づいたのだろう、シュンランが慌てて頭を下げた。チェインは「別に、苦しくはないさ」と答えながらも、微かに眉を寄せて時計塔を見上げた。
 しばしの沈黙の後、チェインは「行こう」と二人を促した。セイルとシュンランは少しだけ躊躇った後に、お互いに目配せして頷いた。
 ライブラ国立ワイズ学院は、その時計塔の足元に存在する広大な学府だ。暗黒時代が終わった八百年前には既に存在したとされている、楽園最古にして最大の学術機関。あらゆる学問の中心地であり、学びたいと望むあらゆる人に対して門戸が開かれているのだ、とチェインは言って、声を下げる。
「その性質上、学院には独特の自治が敷かれている。この自治の前には、ユーリス神殿とて積極的に介入することは出来ない。だから、裏では異端研究者の巣窟とも言われてるんだがね」
「そ、そうなの?」
 セイルは驚いた。それが事実ならば、『エメス』の魔の手だって既にここまで伸びていてもおかしくない。ここに来たところで、安全ではないのではないか。
 そう思っていると、チェインが小さく首を横に振った。
「いや、学院は古くから穏健派の拠点だって聞く。そうじゃなかったら、神殿だってとっくに強制的に異端を排除してたはずさね」
 表だって動かない、ただ「研究すること」に重きを置く異端研究者たちが集ってきた、それがここワイズ学院なのだとチェインは言った。
「だからこそ、ブランもここを頼れって言うんだろ。フレイザー博士が異端だって話は聞かないけど……まあ、それは会ってみないと何とも、だね」
「そっか。フレイザー博士って、どんな人なんだろう……」
 博士、と聞くとついつい頑固で偏屈な老人が思い浮かんでしまう。それがただの偏見だとわかっていても、ちょっと身構えずにはいられない。果たして、ブランの紹介とはいえ、自分たちを助けてくれる存在なのだろうか。
 不安を抱きながら、セイルたちは学院の門を潜る。門の一番近くにある建物の中に入ると、外からの客を案内するための受付があり、事務員と思しきすらりとした体躯の狼人の女性が応対してくれた。
「ようこそ、ワイズ学院へ。どのようなご用件でしょうか」
「この手紙を、セイル・フレイザー博士に渡して欲しいと言われたのさ。取り次いでいただけないかな」
 チェインはブランから預かった手紙を手渡した。事務員はここで少し待つようにとセイルたちに言い置いて、奥へと消えた。と言っても、さほど長く待たされること無く戻ってきた事務員は、フレイザー博士の研究室の場所を示し、そちらへ向かうようにと言った。
「ご案内いたしますか?」
「いや、場所さえわかればいいよ。ありがとう」
 チェインは言って、セイルたちに「行くよ」と声をかけた。事務員を待つ間、シュンランと一緒に部屋の隅の椅子に腰掛けて足を揺らしていたセイルは、慌てて立ち上がってチェインの背中を追った。
 チェインは迷いの無い足取りで学院の奥へ向かって歩いていく。きっと、昔はここにいた姉を訪ねて学院の中に入ったこともあるに違いない。シュンランはセイルの手を繋いで歩きながら、きょろきょろと辺りを見渡している。
 長い、長い廊下。窓の向こうには、歴史を感じさせる石造りの建物が立ち並び、行き交う黒いローブの人々が見える。確か、黒いローブはワイズの学者の正装だと教えてくれたのは兄だったはずだ。
 兄もまた、この学院に足を踏み入れたことがあったのだろうか。セイルの知る兄は決して学者ではなかったけれど……チェインの姉と親しかったならば、十分その可能性もある。この長い廊下を歩く兄の姿を想像するけれど、そもそも兄の姿もろくに思い出せないのだ。セイルの視界の中には、ぼんやりとした長い影が揺らめくだけで終わった。
「セイル? どうしましたか。何か、ぼうっとしています」
「あ、ううん、ごめん、何でもないよ」
 歩きながら呆けるなんて、どうかしている。セイルはぱんぱん、と軽く自分の頬を叩く。
 気づけば兄の影を追ってしまうけれど、それでシュンランを心配させてはいけない。こんなことでは、またディスに怒られてしまう。
 そうだ、ディス。
 心の中でそっと呼びかける。まだ、セイルの体の中の『ディスコード』は目覚めない。ブランは大丈夫だと言ったけれど、こうまで沈黙が続くと不安だ。
 早く目覚めて欲しい。そして、いつもの元気な声を聞かせて欲しい。ディスの場合、「元気な声」と言ったところで元気さの欠片も無い憂鬱そうな声音だろうけれど、それこそがディスのディスらしいところだとセイルは思っている。
 ディスが目覚めたら、何を言おう。まずはおはようを言って、それから――
 それから?
 ディスは、セイルとシュンランを守るために戦って、その結果沈黙した。そんなディスに「ありがとう」と言うべきなのか、「ごめんなさい」と言うべきなのか。考えれば考えるほどわからなくなる。ただわからないのではない、何かを根本的に誤っているような、そんな錯覚に陥る。
 その答えが出ないままに、セイルはふわふわとした足取りで歩き続け、チェインの「ここだね」という声でやっと我に返った。木造の重そうな扉には、確かに「セイル・フレイザー研究室」の札がかかっている。
 その筆跡が他の部屋にかかっているものに比べて異様に綺麗なのは、この部屋の主、フレイザー博士の性格なのだろうか。そんな下らないことを考えながら、セイルは恐る恐る扉をノックする。
 こんこん、という軽い音が響き、次の瞬間扉の向こうから声が聞こえてきた。
「開いている、勝手に入ればいい」
 鋭い声だった。セイルは自然と緊張に背筋を伸ばし、ドアノブに手をかける。
「あ、は、はい、失礼します」
 ゆっくりとノブを回すと、重たい軋み音を立てて扉が開く。
 その向こうに広がっていたのは、大きな本棚と見慣れぬ魔道機関の部品に囲まれた部屋だった。そして、鼻を突くのはセイルには馴染みの薄い、微かな甘さを混ぜた煙草の匂い。その匂いの出所は、部屋の奥の椅子から立ち上る煙にあるようだった。
「全く、奴も厄介な客を連れてくるもんだ」
 きい、と椅子が揺れ、椅子に腰掛けていた人物が黒いローブを引きずって立ち上がり、セイルたちに向き直った。
 片手に煙管を持ち、紫煙を燻らせるその人物は、小さな顔には似合わぬ大きなレンズの色眼鏡越しにこちらを見つめる。セイルよりも頭一つ以上背の低いその男は、茶色の毛に覆われた長い耳をぴんと立て、口元を皮肉げな笑みに歪めた。
 ――その瞬間。
「うっさぎさああああああん!」
 セイルの意思を綺麗さっぱり無視して、体が勝手に黒いローブの兎人に飛びついていた。
 兎人の体はもこもこふわふわの見た目通りに温かく、フードから覗く首元の毛など柔らかく、かつつややかにしてしなやかな、びろうどのような触り心地。これにはセイルもついうっとりしそうになるが、何とか己を保ち慌てて頭の中で叫ぶ。
『でぃ、ディス! ちょっと、どうしたの!』
「や、目覚めて早々超可愛い兎さんが目の前にいるなんて、ついもふもふしちゃうじゃねえか!」
 いつの間にやらすっかり目覚めている上に、勝手にセイルの体を奪ったディスは満面の笑みを浮かべて異様な勢いで兎人の男をもふもふしている。男は苦しそうに鼻を上にあげて喘ぎ、ディスの腕から何とか逃れようとするが……そこは馬鹿力で知られるセイルの体である。そう簡単に逃れることなど、出来ようも無かった。
『ちょっと、失礼だよ、ディス! ほら、離して……』
「ずるいです、ディス! わたしももふもふしたいです!」
『シュンラーン!』
 シュンランまでディスと一緒になって男を撫で回し始めるものだから、セイルは頭の中で頭を抱えてしまった。後ろでチェインの低い溜息が聞こえたのは、きっと気のせいではなかったと思う。
 だが、ディスもシュンランもそんなチェインの反応に気づくことなく一心不乱にもふもふしている。シュンランはともかく、ディスがここまで我を忘れて喜んでいるところなど、セイルは見たことが無かった。意外すぎる趣味に、呆れと同時に新鮮な驚きもある。
 とはいえ、もふもふされている側にはたまったものではない。男はぶんぶんと短い手を振って叫んだ。
「や、やめろ、何をする貴様らー!」
「すまないね……何ていうか、ちょっと常識の無い子たちなんだ。ほら、離れた離れた」
 チェインは呆れ顔でディスとシュンランを引き剥がしにかかる。シュンランはしぶしぶ兎人を撫で回すのをやめたが、ディスはそう簡単には引き剥がされんぞ、とばかりにぎゅっと博士を抱きしめている。
 ――が。
 チェインがディスの腕に手を触れた途端、ディスはびくりと震えて博士を放した。前に体重をかけていた男が勢いあまってころんと床に転がってしまったのが、目の端に映る。
 だが、それよりも。
『ディス?』
 ディスの感情の波が急に色を変えたことに、セイルは戸惑いを隠せない。この感情は、怒り、苛立ち……いや、恐怖、だろうか。ディスはぐっと唇を噛み、乱暴な仕草でチェインの手を振り払った。
 チェインは怪訝そうな顔をして、ディスの目を覗き込んだ。
「あー、ええと、ディス……だね?」
「そうだよ」
 ディスの声は、先ほどまでの異様な明るさとは打って変わって、いつもの不機嫌そうな声音に戻っていた。半眼になってチェインから目を逸らし、吐き捨てるように言い放つ。
「悪い。ちょっと吃驚しただけだ。セイルに返す」
『ディス……どうしたの?』
「どうもしない」
 ディスは普段以上にそっけない口調で言うと、あっさりセイルに体を返した。ディス、ともう一度呼びかけてみたけれど、返事は無い。ただ、先ほどまでと違って頭の奥には確かにディスの息遣いがあって、納得はいかないけれど、少なからず安心したのは、事実。
 小さく溜息をついて、己の体の感覚を確かめるように胸に手を置いたその時、低い声が響いた。
「それにしても失礼なガキどもだ。奴の知り合いにはろくな奴がいないな」