空色少年物語

06:襲撃(1)

 セイルは、どこか複雑な気分で、背の高いブランの背中に揺れる三つ編みを見つめていた。セイルが着ているのは薄手のセーター。その袖はぶかぶかで、指先まですっぽり隠れてしまっている。
 影追い『連環の聖女』――チェインとの戦いで、セイルの服はすっかりぼろぼろになってしまった。シュンランの歌のお陰で体の傷は綺麗さっぱり癒えていたが、流石に破れた服までは直ってはくれず、他に上着を持っていなかったセイルは今のところブランの服を借りて寒さをしのいでいた。セイルの故郷であるユーリス本土より北に位置するレクスは、四月に入ろうとするこの時期でも肌寒い。
 ただ、セイルが複雑な表情を浮かべている理由は、寒さのせいでもこのぶかぶかのセーターのせいではない。空色の髪を風に揺らし、セイルは前を行くブランの背中に声をかける。
「……あのさ、ブラン」
「んー? 何かしら、ガキんちょ」
 ブランは振り向かないままセイルに応える。
「いいの? チェインにシュンランのこと任せちゃったけど」
「はは、ガキのくせにいっちょ前に心配なんかしてんのか?」
「だって」
 セイルは思わず唇を尖らせてしまう。
 今、セイルとブランは二人きりで町の大通りを歩いている。そして、シュンランとチェインは今頃町の別の場所にいるはずだ。どんな時でも一緒にいて、それが当たり前になっていただけに、少しの間だけでもシュンランと一緒にいないというのがやけに落ち着かない。
 そんな不愉快にざわめく心を抱えるセイルに対し、背を向けたまま下手くそな鼻歌すら歌ってみせるブラン。その「いつもと変わらない」態度も、今のセイルには気に食わない。
 そもそも、何故、こんなことになってしまったのかといえば。
 
 夜の間にどこかへ消えていた影追いチェインがセイルたちの元にやってきたのは、ちょうどセイルたちが朝食を取り終え、チェインは何処に行ってしまったのかと話し始めた時だった。
 かつかつと高い靴音を立ててセイルたちの座るテーブルまでやってきたチェインは、睨んでいるようにも見える鋭い瞳でセイルたちを見下ろし、言った。
「本殿と連絡が取れたよ。これで正式に私がアンタたちと『鍵』の監視を命じられた」
 その言葉に、セイルはごくりと唾を飲んだ。シュンランも、普段は強い意志を湛えるすみれ色の瞳にこの時ばかりは何処か不安げな色を湛えてチェインを見上げた。
 これで即座に神殿に連れていかれる危険は消えたが、影追いに常に監視されることになる。それに、チェインも自分たちと同じノーグ・カーティスを追う者といえ、チェインの目的は自分たちとは根本的に異なっている。自分から言い出したことといえ、兄と相対した時に彼女がどういう行動に出るかと考えると、胸がぐっと締め付けられて息が苦しくなる。
 けれど――全て、受け入れるしかない。
 この決定を下したのは、誰でもない、自分なのだから。
 テーブルの下でぐっと拳を握りしめるセイルに対し、頭の中のディスは小さく嘆息するだけで何も言わなかった。セイルがチェインと相対して以来、ディスはずっと黙り込んだままだ。
 一瞬、沈黙があたりを包んだ……と思った次の瞬間、ブランが陽気に笑って言った。
「ははっ、そりゃあよかった。お前さんが来てくれるとなりゃあ、俺らも動きやすくなるわ」
「……どういうこと?」
 訝しげに眉を寄せるチェインに対し、ブランはにぃと歯を見せて笑う。
「神殿の影追いたるお前さんが同行してくれりゃ、俺様も港で身体検査されずに済むからな。正直ありがたいぜ」
 そうか、とセイルも思う。
 自分たちがレクスを出られずにいたのは、そもそも兄の演説以降、にわかに港での異端研究者に対する取り締まりが厳しくなったからであり、同時にその場でシュンランとディスが捕まる危険もあったからだ。
 だが、影追いのチェインがいれば、シュンランたちは船に乗ることができる。異端のブランもチェインに話をつけてもらうことで自由に動けるようになるのだ。
 チェインは更に眉間の皺を深め、ブランを睨む。
「アンタ……もしかして、それも狙って?」
「あら、同行を提案したのはそっちのガキじゃない。ガキんちょはんなことまで頭が回らなかったみたいだがな」
 ブランは優雅にコーヒーの入ったカップに口を付ける。事実、セイルは全くその点に気づいていなかったため、俯くことしかできなかった。
「とにかくこれからよろしく頼むぜ、聖女様」
「あのねえ、その呼び方はやめてくれるかい。私にはチェインって名前があるんだ」
 チェインの言葉に、ブランはぴくりと眉を動かした。笑顔以外にあまり表情を動かすことのないブランには珍しい、と思ったのもつかの間、ブランは今まで以上に深く笑んだ。
 酷く、冷たい視線をチェインに向けて。
「それもアンタの名前じゃねえだろ、シャール女史」
「……っ!」
 チェインの顔色がさっと変わる。だが、ブランはすぐに小さく息をつくと、チェインから視線を外して立ち上がった。
「ま、お前さんがそう言うなら構わんよ。よろしく、チェイン」
 握手を求めて手をさしのべるブランだったが、チェインはその手を取ろうとはしない。ぎり、と歯を鳴らし、低い声で言う。
「アンタ……何を何処まで知ってるんだい」
「お前さんのことはそれなりに。お前さん自身を知る気はなくとも、ノーグ・カーティスのことを知ろうと思えばその程度は自然と耳に入るさ」
 特にアンタは、奴と因縁が深いからねえ。そう言うブランの目は、やはり笑ってはいなかった。チェインは眉を寄せたまま差し出された手を叩いて払いのける。ブランは叩かれた手をゆらゆら揺らし、きょとんとした表情でチェインを見やる。
「……あれ、俺様嫌われちゃった?」
「誰が好けるか、アンタのような胡散臭い男」
「ああ、よく言われるなあ、それ」
 ブランは苛立つチェインの神経を逆撫でするかのようにへらへらと笑う。一瞬チェインの袖からじゃらりという金属音が響いた気がして、セイルは背筋がぞっとする。これ以上ブランに余計なことを喋らせない方がいいと立ち上がるが、セイルが言葉を放つ前にブランが言った。
「や、俺様のことはいいのよ。チェイン、ちょっと真面目なお願いがあるんだけど、聞いてくれっか」
「お願い?」
 訝しげな顔をするチェイン。ブランは言葉通り、先ほどよりは随分真面目な顔で……相変わらず口元は笑みに緩んでいたが……言葉を放つ。
「そ。実は、今までこの子の旅装を見繕ってやれなかったのよねえ。ほら、俺らじゃ何がいいのかもわからんからさ、お前さん、この子の買い物に付き合ってよ」
 と、セイルと一緒に立ち上がっていたシュンランの背を軽く押す。シュンランは「はわっ」と吃驚したように声を上げ、ブランとチェインを交互に見やる。チェインも流石にそんな「お願い」だとは思っていなかったのだろう、目を白黒させる。
「あ、金の心配はいらねえぜ、俺様こう見えて金には全く困ってないのよ」
「そんなことを聞きたいんじゃないよ。アンタ、何考えてるんだい」
「そりゃあ、嬢ちゃんだって可愛い服着たいだろうし、野郎と違って女の子には必要なものも多いかなと思ってだな」
「そうじゃない。アンタ、私にこの子を任せようってのかい」
「……何か、問題あんのか?」
 目を丸くして、ブランがかくりと首を傾げたものだから、チェインは言葉を失う。
 問題が無い、なんて言えるはずもない。相手は影追い、元々シュンランの身柄を「保護」するために動いている存在だ。いくら現在は監視に移行したといえ、影追いの彼女に一時でもシュンランを任せようなど、普通は考えられない。
 特に、異端研究者ならもっと影追いを警戒してもよいはずだ。
 もちろん、それを自ら言うことは出来ないのだろう、チェインは口をぱくぱくさせて呆然とブランを見るのみだったが……ブランもチェインの言わんとしていることに気づいたのか、「はは」と小さく笑う。
「お前さんを信用したわけじゃねえよ。ただ、『ノーグの名を出された』お前さんが自身で科した約束を裏切りはしねえだろ。お嬢ちゃんを奪おうもんなら、己の目的から遠ざかるわけだし」
 チェインはその言葉にはっとして目を見開く。
「神殿の総意としては嬢ちゃんをさらっちゃう方が正しいんだろうけどさ。せいぜいお前さんの心情は利用させてもらうぜ。お前さんがノーグを殺すために俺らを利用するように、な」
 世の中ギブアンドテイクでしょ、とブランはからから笑う。チェインは、そしてセイルとシュンランは、そんなブランをまるで自分とは別の生き物のように見つめていた。
 ブランの言葉も、セイルがチェインに持ちかけた取引も、要は同じことだ。けれど、ブランはその日の夕飯の献立を語るかのごとく、「当たり前」に言ってのけるのだ。そこにセイルが今も抱いている葛藤や、チェインが抱えているはずの黒い感情の渦巻きなどは感じられず、ブランは全てを変わらぬ笑顔で語る。
 それが、セイルをはじめとした全員を困惑させた要因だった。
「じゃ、お願いするぜ、チェイン。シュンランも、これから世話になるんだ、んなびくびくするんじゃねえって」
 そんなことを言われても、と言いたげな困惑の表情でシュンランはブランとチェインを交互に見やる。だがブランは取り合わず、立ち尽くしていたセイルに向き直る。
「さ、俺らも買い物だ。色々と仕入れないといけねえしな」
「え……」
「ほら、ぼーっとしてねえで行くぞ、ガキ」
「え、ええええ」
 非難めいた声を上げるも、それは当然ブランに対しては抵抗らしい抵抗にもならず。セイルはブランに引きずられるように宿を後にして……
 
 今、この場にいるのである。
 服屋の前に立ち尽くしたセイルの頭の中には、ぐるぐると疑問符が巡っている。
 考えてみれば、影追いと一緒にいるシュンランを心配している、というのも確かに正解だが……それ以上に、自分の前を歩くブランの言葉が不可解で、不可解故に不安なのだと気づく。
 否、言葉が不可解なのではない。ブランの言葉はもって回ってこそいるが、決してわかりづらいことは言っていない。
 不可解なのは……ブランの、心境なのかもしれない。
「なーに、ぼうっとしてんのよ?」
 そんなことを考えていると、突然目の前に氷色の双眸が現れ、セイルは思わず「うわっ」と声を上げて後ずさる。ブランがこちらを不意に覗き込んだのだ、と気づいたのは一瞬後のこと。
「ああ、悪い悪い。ガキんちょの下らん考えごとを邪魔しちゃ悪かったわね」
 今までの思索を「下らない」と言い切られて、セイルは再び頬を膨らませる。だが、ブランはけらけら笑いながら言う。
「どうせ、つまらないことで悩んでたんだろ。例えば、俺様が何を考えてるかわからない、とかさ」
「……え?」
 ブランの言葉に、セイルの思考が停止した。
 その言葉が、あまりに「正しすぎて」。何を言われたのか、セイルには一瞬理解できなかった。対するブランは「あら、図星?」と笑みを深める。
「ホント下らんこと考えるな、お前さんは。この天才俺様ブラン様の深遠なる思考に、お前のようなガキがついていけるはずがないでしょうに」
 それは、そうかもしれない。ブランはいつもセイル以上に色々なことを考えているはずだ。事実上、今のセイルたちの道はブランに委ねられているといっても過言ではないのだから。
 けれど、セイルが気にしているのは、ブランの「思考」の内容そのものではない。セイルはぐっと握った手に力を入れて、ブランを見上げる。
「そうかもしれないけど。俺さ、ブランが何を『思って』いるのか知りたいんだ」
「どういうことだ?」
「ここ、ってより……ここ、の話って言えばいいのかな」
 セイルは頭を指さしてから、その指先を胸に移す。もちろん、セイルはそこに本当の意味で「心」が宿っているわけでないことを知っている。感情もまた脳の司るものであり、心臓は本来的には血を巡らせる機能しか持たない。それもまた、兄が教えてくれたこと。
 ただ……セイルは今でもここに「心」があるのだと信じている。強い喜びに胸が高鳴り、悲しみに胸が締め付けられる。その感覚こそが、脳の生み出すただの信号を超えた「心」なのだと言って微笑んだのもまた兄だった。
「ブランが何を思ってそう言うのか、どうしてそういう風に笑うのか、ブランの心の中を少しでも知りたいって思ったんだ」
 何か、言葉、足りないけどさ。
 セイルはそう言って俯いた。こういう時、兄ならどうやって言っただろう。兄はいつもセイルにわかりやすく言葉を選んでくれたから。上手く伝えられない自分がとても歯がゆい。
 けれど。
 ぽん、と頭に何かが乗せられた感覚に、セイルはふと顔を上げる。見れば、ブランがぽんぽんとセイルの頭を叩いていた。細められた目には、いつもの冷たい感覚はなかった。
「なるほど、お前さん、ただのバカじゃねえな。とんでもないバカかもしれん」
「ば、バカって何だよ! ってか何で上乗せされてんだよ!」
 腕を振りあげてブランの手を振りのけたセイルに、ははは、とブランは陽気な笑い声を投げかける。ただ、すぐにその笑顔は苦笑に変わる。
「褒めてんだよ。やなとこ真っ直ぐ突いてきたなあと思ってさ」
「ブラン?」
「ただ、俺様の話をするとなると、どうしても奴に触れなきゃならない。ガキんちょにとっては面白くない話よ」
 奴、とは間違いなく兄、ノーグ・カーティスのことだ。そもそも、ブランがセイルたちに同行しているのだって、ブランもまた兄を探しているから。その目的は「いつか語る」と言うだけで未だにブランの口から語られたことは無かったが……
「それでも、聞きたい?」
「聞きたい」
 迷い無く言い切ってから、セイルは少しだけ考えて言い直す。
「その、ブランが辛くなければ、でいいんだ」
「は? 俺様が?」
「うん。何かブランって、いつも無理して笑ってるように見えるから。もしかしたら何か辛いのかなって思って」
 そう言って改めてブランを見上げて、セイルは、息を飲んだ。
 ブランの表情から、一瞬だけ、笑顔が消えたのだ。氷色の瞳を開き、こちらを見据える表情は、まるでよく出来た人形のよう。セイルがそう思ってしまうくらい、ブランの顔は「表情」と呼べるものを全て欠いていた。
「……ブラン?」
 セイルに呼びかけられたことで我に返ったのか、ブランはセイルから視線を外し、額を押さえる。その時には、口の端に普段と変わらないだらしない笑みが戻っていた。
「そんな風に見えんのか、俺様」
「う、うん。違うかな。変なこと言ってごめん」
「や、公正な評価として受け取っておく。でも別に無理に笑ってるわけじゃねえのよ。これが俺の当たり前なんだ。あの日から、ずっとな」
 当たり前。ブランの口から放たれたその言葉は、どうということもない言葉なのに酷く否定的な響きを帯びていた。それこそ、セイルがブランの普段見せる態度を恐怖するのと同じで、ブラン自身「当たり前」の自分を忌み嫌っているように思えた。
 それに、「あの日」というのは、一体。セイルが問おうとした途端、ブランは大げさにセイルの背中をばんばんと叩いた。
「よっし、つまらん話はおしまい! ほら、お前の上着やら何やら買わねえとだろ。とっとと買って、宿に戻りましょ」
 セイルは叩かれて「わわっ」とバランスを崩しかけたが、その時にはブランは既に店の中に入っていた。セイルもブランの背中を追って一歩を踏み出しながら、空色の頭を掻いて呟く。
「誤魔化された?」