空色少年物語

幕間:鈴の音響く

 寝台の上に横たわる彼は、そっと目を開ける。
 自分の思い通りには動かない体がもどかしい。思っていたよりもずっと早く本来の機能を「回復」しつつはあるが、長らくまともに動かしていなかった体なのだ、やはり完全に機能を取り戻すまでにはまだ時間がかかる。
 大丈夫だ、と。自分自身に語りかける。
 全ての条件が揃うまで、どれだけ待ったと思っている。その時間に比べれば、「回復」を待つ時間など意識するほどでもない。
 そう、わかってはいたとしても、心は急くものだ。これまで打った手が、必ずしも成功しているわけではない分、余計といえよう。
「全く、予想以上の抵抗だ」
 指先を伸ばし、彼は呟く。憂鬱な響きを溶かした少年のような声が闇の中に溶ける。
「逃げたところで、逃げ場などないのに。この世界が奴の夢である以上、お前に救いなどあるはずがないのに」
 ぽつり、ぽつり、落ちる言葉には微かな、本当に微かな悲しみが混ざっているようにも思えた。その声が、誰かに届いているわけではなかったけれど。
「救いなんて何処にも無いんだ。なら、自分で創るしか、無いじゃねえか……」
 闇の中に透かして見るのは、彼がかつて夢見た明るい未来だ。青い空に青い海、それを見渡す自分たち。自分の横には大切な人がいて、無二の友がいて、友の大切な人がいる。そんな、幸福な未来を夢見ていた。
 夢見て、戦い続けたというのに――
 その夢の一欠けも、今の自分の手の平には残されていない。いや、かろうじて残されていたのかもしれない、だがそれは当時の自分が見た夢からは大きく歪められていた。それを、叶った夢だと誰が言えようか。
 だから、自分はここにいる。
 あの日の夢を、もう一度追い求めるために、ここにいるのだ。
 全てを欺き、全てを利用し、自分たち以外の全てを傷つけ滅ぼしてしまったとしても。
 ああ、結局、自分はこんな歳になっても夢見ることを止められないのか。それに気づいて、おかしくなる。この体と心では上手く笑うことも出来ないが、くつくつと小さく喉を鳴らす。
 すると、ちりん、という鈴の音とともに、それこそ鈴を鳴らしたような弾んだ声が闇の中に響いた。
「ノーグ、嬉しそう。嬉しそうね」
 そっと頬に触れる冷たい指先の感覚。それを感じて、彼は闇の中に目を凝らす。もちろん、光一つ差さない闇の中に浮かぶ極彩色の道化が見えるわけではなかったが、重く辺りを支配する闇の中、なお涼やかに響く鈴の音と、頬に触れる指先を頼りに語りかける。
「ああ、嬉しいんだ、ティンクル。俺にも、まだ人らしい心が残っていたのかと思うとな」
 こんな歪んだ感情が、「人らしい」と言えるかどうかは甚だ怪しかったけれど。そんな彼の言葉に含まれた自嘲の響きに気づいていないのか、道化はきゃらきゃらと笑い声を立てる。
「ノーグには心があるよ。優しくて、あったかくて、真っ直ぐで、とっても素敵な心。ワタシが大好きな心!」
 闇の中の道化は無邪気に笑って、寝台の上の彼の体を抱きしめる。彼もまた、力の入らない腕ではあったが、優しく少女の体を抱きしめてやる。柔らかな服を纏っているからわかりづらいが、道化の体は折れそうなほどに細い。
 そして、酷く冷たい。
 それが彼の胸に一抹の痛みをもたらすことを少女は知らないのだろうか。道化の背中を撫で、指を彼女の首筋にまで持っていくと、肌に触れているのとは違うひやりとした感覚を覚えて、反射的に指を離す。
「ノーグ?」
 道化が不思議そうに問いかけてくる。彼は何も言わずに小さく首を横に振り、再び少女の背中を撫ではじめる。そこに彼女がいるのだと、確かめるように。
 どれだけ、お互いに抱きしめあっていただろうか。彼は少女の耳元で、そっと囁く。
「なあ、ティンクル」
「なあに、ノーグ」
「早く、全てが終わればいいな。そうしたら、俺とお前で、静かに暮らすんだ。あいつらも一緒にさ、そうだ、空が綺麗に見える場所がいい。あの日夢に見たのと同じ、一番月が綺麗に見える場所だ」
 少女は彼の横に横たわり、うんうんと頷く。まるで、自分の夢は彼の夢そのものなのだと言わんばかりに。そんな道化が愛しくもあり、どこか切なくもあったが……彼は、言葉を続けることしかできない。
「そうしたら、ティンクル、お前の……」
 だが、その言葉は彼の唇の奥に押しとどめられることになる。道化が、突然自らの唇で彼の唇を塞いだからだ。それは、本当に唇と唇を触れ合わせるだけの口付けではあったけれど……道化は、「ふふ」と満足そうに微笑む。
「キス、しちゃった」
「……ティンクル」
 呆然とする彼に対し、道化の少女は歌うように抑揚をつけて言葉を紡ぐ。
「大丈夫、ノーグの夢は叶うよ。ワタシが、夢を叶えるの。そしたらワタシ、二度と独りにならない! ノーグはずっとずっと一緒にいてくれるもの、それは何て素敵!」
 ふわっ、と彼の上に浮かび上がった道化は、しゃらしゃら鈴の音を響かせながら言う。
「今度こそ夢が叶うなら、ワタシ、何でもするよ! さあノーグ、ワタシは何をすればいい?」
 彼は口をぱくぱくさせて、しばらく言うべき言葉を探しあぐねていたが……すぐに、普段通りの、古代の機巧を思わせる無感情な声で告げた。
「では、クラスタ兄弟を呼び戻して欲しい。おそらく、今はシュンランと『ディスコード』を追ってレクスにいるはずだ。探せるな」
「任せてっ! ノーグの頼みなら、楽園の向こうまで飛んでいけるよ!」
「頼んだぞ、ティンクル」
「うん! あっ」
 しゃらりという鈴の音が一瞬遠ざかりかけたが、鈴の音に混ざって微かな声が響く。
「ね、帰ってきたら、もう一度、キスしていい?」
「ああ。キスくらいなら、いくらでも構わないさ」
「えへへー、やった! それじゃ、行ってきます!」
 扉も開けず、鈴の音の余韻すらも残さずに。無邪気に喜ぶ道化は闇の中に溶け、そのまま消えてしまう。それが手品とも魔法とも違う、彼女の力。呪わしく、しかし誰もが求めてやまない力、その一端だということを知っているのは、彼一人。
 そして、道化が去った闇の中。
 独りになった彼は己の冷たい唇に触れ……小さく唇を噛んだ。
「……違う、違うんだ。本当は、俺は」
 その言葉の続きは、闇に消えた道化にはどうしても届かなかった、けれど。