「……袋小路じゃねえか」
「だねえ」
ディスの言葉に、ブランが笑顔で同意する。三人が辿り着いたのは、三方を壁に囲まれた空間だった。すぐに引き返そう、とディスが足を出しかけたが、道の先に見える女の姿にその足を引っ込めることになる。
「あらあら、追いつかれちゃったわあ」
「 『あらあら』じゃねえ、気色悪い!」
赤毛の影追いはゆっくりとこちらに歩を進めている。じゃらり、という音が遠くで聞こえるが、それが女の袖の中に隠された鎖の音色であることは、既に明らかだった。ディスはブランとシュンランの前に出て、溜息混じりに言う。
「今度こそ下がってろ。んな顔色してる奴には戦らせねえよ」
「ん、じゃ、よろしく」
嬢ちゃんは任せといて、というブランの声を背中で聞いて、ディスは再び左手を刃の形に変えた。
「そこで指咥えて見てやがれ、役立たず」
口の中の呟きは、誰にでもない、心の中に閉じ込められたセイルに向けられた言葉。セイルは心の中に湧き上がる嫌な感情を全てディスにぶつけたい衝動に駆られるが、ディスはその言葉を聞く前に一歩を踏み出した。
いつの間にか、女はお互いの顔がはっきりと見分けられるほどの位置にまで近づいていた。
「よう、一週間くらいぶりか、綺麗な姉さん」
「全くね。随分探すのに手間をかけさせられたよ」
ディスの言葉に、女は端整な顔を少しだけ歪ませた。ディスの言葉通り、人形のような綺麗な人だとは思う。ただ、猫を思わせるつり上がり気味の目のせいで、かなりきつそうな印象を受けるのも確かだった。
女はゆらりと右腕を揺らめかせ、紅を引いた唇を笑みの形にする。
「けれど、鬼ごっこもこれでおしまい。アンタたちには纏めて神殿に来てもらうよ」
後ろでブランが「えー、俺様もー?」とか何とか喚いているのが聞こえたが、女はそちらを一瞥するだけで取り合わなかった。関係者……つまりは捕縛の対象が一人増えた、程度の認識なのだろう。
ディスはそれを聞いて微かに笑う。その笑みをどう捉えたのか、女は少し眉を寄せたがすぐにはっきりと言い放つ。
「女神ユーリスの名において、大人しく一緒に来れば神殿はアンタたちを傷つけないと約束する。一緒に来てはくれないかい」
「……悪いが、その頼みは飲めねえ」
「何故」
女の言葉に、ディスはわざとらしい苦笑を浮かべる。
「理由は三つ。一つ、昔色々あったお陰で神殿は信用できない」
そっと、左の手を胸に置き、ディスは銀色の瞳で女を睨む。
「一つ、後ろのオッサンはともかく、何も知らないシュンランやこいつを連れてかれても困る」
女は「こいつ」というのが誰を指しているのかわからなかったのだろう、一瞬きょとんと目を見開いた。後ろでブランが「この素敵なお兄さん捕まえてオッサンはないんじゃないの、ディス」と言っていたような気がするが、ディスは華麗に無視して言葉を続ける。
「最後の一つ」
セイルの声を借りて放った言葉は。
「役目も果たせないまま、また封印されるわけにゃいかねえ」
静かで、しかし何処までも固い決意が込められていた。
女は一瞬気圧されたような表情を浮かべたが、すぐに唇を引き締めてディスを見据える。
「封印、ね……アンタ、一体何者だい」
「俺の銘は『ディスコード』。お前らの言う『世界樹の鍵』そのものだ!」
声と同時に、ディスは胸に置いていた手を振る。その瞬間、手首から先が一振りの刃と化す。そのまま石畳を蹴り、驚きの表情を浮かべる女に迫ろうとする。だが、女も即座に右腕をディスに向かって突き出した。
「踊れ、聖鎖!」
歌うように女が呟くと、先ほどと同じように開いた袖から閃いた長い鎖が、ディスの胸を狙って飛び込んでくる。だが、ディスは口元に笑みすら浮かべて『ディスコード』の刃を鎖の動きに合わせて突き出す。
「さっきと同じ攻撃、見切れないわけねえだろっ!」
甲高い音を立て、跳ね上がる鎖。鎖の先端に輝く巨大な鉤は、あらぬ方向に飛んで行くように見えたが……
「同じ? そんな芸の無いことはしないよ」
くん、と女は軽く右腕を引く。その瞬間、ディスに弾かれた鉤が空中でぴたりと動きを止めた。ディスが一瞬目を見開いた、刹那まるで意志を持つかのように、重力を無視してディスの立つ位置を強襲する。
呆気にとられていたのは一瞬だったが、その一瞬がまずかった。ディスは舌打ちと同時にその場を離れるが、鉤が利き腕を掠め、白いジャケットが破れ血が吹き出す。
――痛い。
燃えるような熱、そしてじわじわと腕を浸食する痛みに頭の中のセイルは呻く。見る限りそこまで出血は多くない、太い血管が傷つけられたわけではないはずだ。だが、自分の腕から滴る赤い液体が服を染めていく様子は、見ていて気持ちのよいものではない。
そして、直に伝わってくるディスの感情は、意外にもセイル以上に動揺したものだった。ぎりと歯を食いしばり、今まで戦いの中で乱れたことのない呼吸が明らかに乱れる。
それを好機と見たのか、女は自在に鎖を操りディスの足下を狙う。それはぎりぎりのところで避けたが、ディスは右手で傷を押さえ、たたらを踏んで強く唇を噛む。
一体、ディスはどうしてしまったのだろうか。
どんな相手にでも余裕の笑みを向けていた『ディスコード』は何処に行ってしまったのか。
そこに、溜息混じりのブランの声が低く響く。
「まずいな。アイツ、『痛み』の感覚に慣れてない」
『痛み?』
意味を量りかねたセイルだったが、すぐに思い至る。
ディスは、人と変わらぬ意思を持つといえ、本来は肉体を持たない機巧の『剣』なのだ。肉体を持たない以上、己が血を流すことは想定していない。ましてや「痛み」など彼の意識には無かったに違いない。
「ディス、回避に意識を向けろ、目を逸らさないの!」
そんなの、わかってら。
ブランの声に対して吐き捨てるように呟き、ディスは踊るように空中でうねる銀の鎖を睨む。傷ついた腕を振って構えようとするが、ひきつるような痛みに眉を顰めずにはいられない。
一撃を避けても、すぐに空中で方向転換した鉤が足下や肩口を狙って襲いかかってくる。女に近づこうにも、渦巻く鎖が、ディスを狙う先端の鉤が、それを許してはくれないのだ。
「くそっ、うぜえんだよ! 歌え『ディスコード』っ!」
ディスは石畳を蹴って、同時に叫ぶ。その瞬間、今までは沈黙を守っていた左手の刃が高く鳴り響く。その響きに耐えきれなかったのか、傷口から更に血が吹き出す。
それでもディスは歯を食いしばって痛みを堪え、今まで何とか避け続けていた鎖に向かって踏み込む。
『ディス!』
「うるせえ、黙ってろ!」
このまま鎖を斬るつもりだ。伝わってくるディスの感情から、セイルは察する。鋼をも両断する機巧の剣だ、こんな銀の鎖などあっさり切り裂けるはず。
向かってくる鉤の一撃をぎりぎりのところで回避、その後ろに繋がる鎖に、刃を閃かせる。
刃と鎖が触れ合う感覚は、無かった。その代わり、ディスの腕に伝わったのは、弾力のあるものを弾いた嫌な手応え。それが錯覚でない証に、鎖は『ディスコード』の刃に触れながら斬り裂かれることもなく、衝撃によって軌道を曲げただけだった。
「……何で、斬れな……」
ディスが焦りの声をあげた、次の瞬間。
先ほどとは比較にならない熱が、肩に生まれた。
視界が真っ白に染まるような感覚。判断能力が一瞬にして焼け付き、無意識に苦痛から来るうめき声を上げたディスは、ゆっくりと自分の肩を見やることしか出来なかった。
いつの間にか背後にまで回っていた鉤が、左の肩を大きく斬り裂いたのだ――セイルもまた、痛みによって飛びそうになる意識の片隅で思う。
ディス。
心の中で、かろうじてその名を呼ぶけれど。
ディスは返事もせず、その場に立ち尽くす。痛みに震えながら、ともすれば崩れそうになる両足に力を込めて、霞む目でなお女を見据える。
彼の心の中を支配しているのは、激しく罵倒するような荒れ狂う感情だ。その感情の矛先は、何処までもディス自身に向けられていた。セイルを「役立たず」と口で罵る時よりも遥かに巨大に膨れ上がった、ふがいない自分自身に対する怒り。
だが、これ以上抗って何になるというのだ。ディスの利き腕は左、この怪我では『ディスコード』を振るうことも出来ない。セイルはすがりつくような思いでディスに呼びかける。
『ディス、もういい、もういいからっ』
だが、ディスは絞り出すような声で呻く。
「何がいいんだ。手前の言葉一つ守れねえで、何がいいんだ」
地を這うような声は、セイルに向けたものであり、同時に自分自身に向けたものであることは、心に直接響いてくる感情から明らかだった。
左の指先から血を滴らせ、ゆっくりとディスは足を踏み出す。
「まだ、やる気?」
女の声にも、微かな動揺が混じる。だが、ディスの目を見てそれが本気であると悟ったのか、鎖を引き、もう一度構える。
この一撃で、決めようというのか。
セイルは何とかディスを止めようと己の体の主導権を奪おうと意識を伸ばすが、ディスはそれを許さない。
ディスの銀の視線と、女の青い視線が空中で交錯し、空気がぴんと緊張に張りつめた、その時。
「やめて、ください……っ!」
張り付けた空気を破るシュンランの声が、響く。
否、それは声ではない。
――『歌』だ。
旋律も何もない、けれども確かに『歌』なのだと、誰に言われたわけでもないのに、セイルは何故かはっきりとそう思った。
その瞬間、目に映る世界が姿を変える。
足下の石畳が弾け、突如現れた緑色のものが視界を支配する。それが地面を割って生え、爆発的な勢いで成長する木や草だと気づいたのは、一瞬後のこと。
「な、何だい、これはっ!」
流石の女も慌てて鎖を引こうとして、気づく。
ディスの肩から落ちた鉤は、鎖もろとも地面から生えた草や木に絡まってしまっていた。それだけではない、女の足もまた同じように草に絡めとられ、体の自由を完全に封じられていた。
だが、それはディスもまた同じ。足下を固められ、視界を生い茂る緑に遮られ、呆然と立ち尽くすばかり。
敵も味方もなく、ただただ辺りを浸食していく植物。それはこの路地に止まろうとせず、壁を伝ってどんどんと広がろうとするが……
「そこまでだ、嬢ちゃん」
不意に、ブランの声がして、ディスはそちらを見る。すると、ブランがシュンランの頭をそっと撫でる姿が目に入った。
シュンランは、涙をいっぱいに溜めたすみれ色の瞳で、ディスを真っ直ぐ睨んでいた。
「あ……」
あれだけ心を支配していた怒りが、萎んでゆく。
その代わりに芽生えるのは、自分を見失っていたという自覚。言葉にはなっていなかったけれど、シュンランの瞳は明らかにディスを非難していた。
全身から、力が抜ける。その瞬間、足を封じていた草木が力を失い、代わりに膝をつくディスを優しく包んだ。
もう、草も木もそれ以上世界を浸食しようとはしなかった。時計を早回ししたような成長が幻だったと言わんばかりに、本来あるべき静かな姿に戻る。
もちろん、壊れた石畳も生えてきた植物も元に戻るわけではなかったけれど。
「……ディス」
シュンランの声が、鼓膜を震わせる。ディスは俯いたまま、「何だよ」と口の中で言う。シュンランは草を踏んでディスの横まで来ると、うなだれるディスの頭を軽く叩いた。
「ディスも、周りが見えていません。それでは、セイルを怒れないです」
ディスはむっとしてシュンランを睨んだが、シュンランの言葉が正論であることも理解しているのだろう。「はっ」と息をついて唇を歪める。
「悪かったな」
その、ディスの答えで満足だったのだろう。シュンランは微かに笑みを返すと、女に目を向ける。女は辺り一面を埋め尽くし、自分の体を絡めとる植物に目を白黒させていたが、すぐに唇を引き結びシュンランを見据える。
「この前もそうだったね。アンタのその不可思議な力、ただの魔法じゃない……一体、何なんだい」
そういえば、女は前にシュンランが辺りの魔力を凍らせる瞬間も見ていたのだったか。セイルは思い、ディスの視界で女とシュンランを見つめる。シュンランは場違いな微笑みを浮かべ、両手を胸に当てて女に応える。
「わたしにも、わからないです。でも、これがわたしの『歌』なのです」
『棺の歌姫』、そうシュンランは呼ばれているという。
記憶を失ったシュンランには、それが『歌』であること以外は何一つわかっていない。それを知らない女は納得できないという顔でシュンランを睨む。
すると、シュンランは無防備にも思える足取りで一歩、また一歩と女に近づいて行き、女の目の前に立つ。
そして、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
女が、眼鏡の下で目を見開く。
「わたしたちは、どうしてもあなたに捕まるわけにはいかないです。わたしには、会いたい人がいます。その人に会うまでは、誰にも捕まるわけにはいきません」
女は呆然とシュンランを見上げた。シュンランは心底申し訳なさそうな顔をしながらも、言葉を曲げまいという強い意志を秘めた瞳で女を見つめる。すっかり毒気を抜かれてしまった女は思わず体の力を抜きかけ、しかしすぐに表情を引き締める。
「だからって、『はいそうですか』と言うわけにも行かないんだよ。こちらも退けない理由がある」
言いながら、今まで一度も動かさなかった、草木に捕らわれていない左の腕を揺らめかせる。そちらの腕からも響く、鎖の触れ合う音――
ディスがはっとして立ち上がろうとしたが、その時には既に勝敗は決していた。
空色少年物語