空色少年物語

05:連環の聖女(2)

 やがて、ディスが首を振って立ち上がった。
「ま……言いなりになる理由もないが、奴を待ってる理由もねえか。鍵かけてとっとと寝ようぜ」
「あ、あの」
「あ?」
 シュンランに問われ、ディスは半眼になって声を上げる。シュンランは、すみれ色の瞳に困惑を浮かべ、ディスを見上げる。
「セイルに、返さないですか?」
 ああ、とディスはまるで言われて初めて思い出したかのような声を放った。セイルも慌てて『体返せよ!』と頭の中で叫ぶが、ディスは軽く肩をほぐすように腕を回すと、にやりと笑って言い放つ。
「返す理由がねえな」
『……な、っ』
「考えてみりゃ、いちいち手前に体を返す必要もねえ。俺がずっと使ってりゃあ、いざって時も都合がいい。だろ、セイル」
『そんな、勝手なこと……!』
 一体、ディスは何を言い出したのだろう。今まであれほど協力的だったというのに、何故今になってこんなことを。セイルは頭を殴られたような衝撃に襲われながらも、意識を集中させてディスから体の支配を取り戻そうとする、が……
「それに」
 そこに響くのは、鋼のようなディスの声。
「立ち竦んだまま誰の声もまともに聞こえてねえ、んな手前に誰が任せられるかってんだ、ああ?」
 その言葉が胸に真っ直ぐに刺さって、頭の中のセイルはびくりと意識を竦ませてしまう。
 ああ……そうだ。
 兄が楽園の敵になると宣言した、あの日から、ずっと。セイルの意識は兄の存在に引きつけられてしまっていた。兄に関する話以外は意識からすぐに抜け落ちてしまう。
 そう、自分のそばで心配そうに見上げるシュンランの視線にだって、気づけずにいたのだ。本当は、自分がシュンランを守らなくてはいけないのに、その姿が全く見えていなかった。
 今更ながらにその事実に気づき愕然とするセイルを、ディスは冷たく笑い飛ばす。
「ま、俺の使い手ってだけで存在価値はあるんだ。よかったな、セイル。この体でシュンランを守る役に立てるんだからよ」
『違う、俺は、そんな価値欲しくない!』
「なら、無理矢理取り返してみるか? いいぜ、やってみろよ」
 できるならな、と。
 ディスは笑いながら言った。ディスはわかっているのだ。セイルの意識はとっくのとうに折れているのだと。何処を見ていたのか自覚してしまった地点で、負けてしまっているのだと。
 もう、力を入れることもできずに意識でうなだれるセイルに、ディスは「情けねえ奴」と吐き捨てるように言ってシュンランに向き直る。
「ってなわけだから。悪いがこの体は俺のものだ」
 言って、銀の瞳を酷薄な笑みに細めた……そのディスの左手を、シュンランの右手が掴んでいた。
 刹那、銀色とすみれ色が交錯し。
 ディスは、ひゅっと息を飲んだ。同じ体を使っているからセイルにもわかる、握られた場所から全身に電流のような寒気が走り、鳥肌が立つ。息が苦しい。心臓の鼓動が否応なく速くなる。なのに、頭からすうっと血が引いていくようで……
 ディスの異変に気づいていないシュンランは、必死の形相で、さらに強くディスの手首を掴む。
「返してください、その体は、セイルの」
「さ、触るな! 離せっ!」
 ディスはシュンランの言葉を遮り、激しく腕を振った。シュンランは「きゃっ」と驚きの声を上げ、ベッドの上に倒れ込む。
 そんなシュンランを、ディスは呆然と見下ろしていた。
 自分が何をしたのかわからないという、表情で。
「あ……」
 シュンランは、振りほどかれた指先が痛むのか、微かに眉を寄せて自分の手をじっと見つめたまま、顔を上げない。ディスと目を合わせるのが、怖いのかもしれない。
 ディスは、セイルに対する強気な態度を何処に置き忘れてきたのか、視線をシュンランから外して俯く。
「悪ぃ。俺も、頭冷やす必要があるな」
 軽く、頭を振って壁にもたれ掛かるが、まだ動悸は止まない。己の手首を睨み、ディスはそれきり口を噤んだ。
 重い沈黙の中、時計の針の音だけが、無情に時を刻んでいた。
 
 その後、いつ眠りに落ちたのか、セイルは覚えていない。ただ、意識が戻った時にはセイルの体は既に動き出していて、お気に入りの白いジャケットを羽織ったところだった。
『ディス』
 呼びかけても、返事はない。聞こえているのにあえて無視しているのは、流れてくる意識からわかったけれど。不安げなシュンランに簡単に挨拶をして、ディスは階下に向かう。
「何だ、今日もディスなのか」
 ブランは、ディスの顔を見るなり当たり前のように言って、それ以上は追及しようともしなかった。
 そこにいる空色の少年がセイルであろうとディスであろうと、自分の目的に関わらない以上ブランにとってはさしたる問題ではないのかもしれない。そう思うと、セイルの胸は鈍く痛んだ。
 そうして、いつもより少しだけ言葉少なに食事を終え、宿を後にする。それでも、ディスはセイルに体を返そうとはしなかった。街角のラヂオから聞こえてくる兄の名前はもちろんセイルの意識をくすぐるけれど、ディスは構うことなくブランとシュンランの斜め後ろを大股に歩く。
 空色の髪はやはり目立つらしく、通りを行く人々はディスをちらちらと見る。しかしディスは鬱陶しそうにそちらを睨みつけ、それでほとんどの人は気まずそうに視線を外すのだ。
 そんな真似、到底自分には出来ない。セイルは何も言えずただディスの成すがままに任せることしか出来なかった。
「で、これからどうすんだよ。船は使えねえし、賢者様には余計に会いづらくなっちまったじゃねえか」
「ま、ちょっと今の俺らにゃ分が悪いわよね。せめて、この島から出るツテがあればいいんだけど……っと」
 ブランは言いかけて、口を噤む。「どうした?」と問い返すディスに、しっと息を吐いて唇の前で人差し指を立てる。喋るな、ということらしい。シュンランも何故ブランがそんな仕草をするのかわからず首を傾げる。
「見られてる」
 二人の疑問符を受け止めて、ブランはぎりぎり二人に聞こえる程度の小声で言った。ディスははっと体を堅くして、素早く銀色の視線を周囲に振りまいた。ただ、視線の主らしき存在はディスの目を通して外界を認識するセイルには見て取ることは出来なかった。ディスも同様だったのだろう、眉を寄せてブランに改めて問う。
「いるのか」
「一人。気配の消し方はプロね」
 小声で断じるブラン。不安なのかそっとブランに身を寄せるシュンランを何処か複雑な表情で見据えながら、ディスもやはり小声で言う。
「一人なら、撒けるんじゃねえか」
「撒ければね」
 ブランは言葉を放ち、突然横を歩いていたディスの胸を強く突き飛ばした。
「うおっ、とぉ!」
 予測のつかないブランの行動に体勢を崩し、背後の人混みに突っ込みそうになったディスだったが、そこは流石といったところか、片足を踏みしめるだけで体勢を整え……それと同時に、人波の間から飛び出した何かがディスの鼻先を掠めた。
 それは、セイルの目で見る限り、銀色の光だった。否、光のように見えたがそれは確かに金属の質量を持っていた。銀色の何かは、金属同士が触れ合う甲高い音を立て、再びディスの目の前を通って人波の中に消える。
「何だ?」
 もう一度周囲を見るが、辺りを包むのは変わらぬ大通りの喧噪。その場で軽くステップを踏みながら、ディスは眉を寄せる。
「……変だ」
 セイルも頭の中でディスに同意する。
 大通りの中で立ち尽くす、ブランとシュンラン、そしてディス。だが、周囲の人々は三人に気づいていないかのように横をすり抜けていく。先ほど、ディスが突っ込みそうになった一団も、お互いに談笑しながら行き過ぎ、既に人波に紛れて見えなくなってしまった。
「だから言ったでしょ、『撒ければね』って。俺ら、もう相手さんの手の内よ」
 うっすらと笑みを浮かべるブランがざらついた声で言い、ある一点を見据える。ディスはその視線を追う形でそちらを見て……「げっ」とあからさまに嫌な声を上げた。セイルも、声にならないまでも、「まずい」と思わずにはいられなかった。
 絶えず行き過ぎる人波の中に、見覚えのある姿があったのだ。
 癖のある赤毛に、鼈甲縁の眼鏡をかけたエルフ。シュンランと『ディスコード』を狙ってやってきた異端審問官、影追いだ。ただ、それを知らないブランは不思議そうに目を見開いてディスとシュンランに問う。
「知り合い?」
「はい。一度、わたしはあの人に会っています。あの人は、わたしとディスを追っているようです」
「はあん、神殿も厄介な奴を送り出したもんね。奴さん、業界じゃ相当の有名人よ」
 業界、というのが異端研究者の世界を指しているのだろうということはセイルにもわかった。異端研究者の間で恐れられる……それだけの実力者ということだろう。ゆっくりと人の間を縫って距離を詰めてくる影追いの女に対し、何とか距離を取ろうとブランとディスはシュンランを庇って後ずさる。
 そんな奇妙な動きをしていても、周囲の人々はこちらに見向きもしない……そう、先ほどまでは誰もがセイルの空色の髪を珍しそうに見ていたというのに、誰もこちらを見ていないのだ。これを不思議に思わずして、何を不思議と言おうか。
「手の内、って言ったな。俺ら、何されたんだ」
 ディスはじりじりと下がりながらブランに囁く。ブランはこの事態でも唇から笑みを消さずに「そ」と明るく言う。
「何されたってわけじゃない。結界に誘い込まれたのよ」
「けっかい?」
 ブランの手を握りしめたシュンランが、疑問符を飛ばす。迫る女から視線を外さないまま、ブランは早口に答える。
「前に俺様が音を聞こえなくしてみせたでしょ。あんな感じで『一定の空間』に作用する魔法が結界。今この場にかけられてるのは、『俺たちと奴さんの存在を意識させない』結界だ。道行く罪も無い連中にとっちゃ、今の俺らは道端の石同然ってこと」
 そんな魔法があるのか、とセイルは驚く。セイルが今まで見たことのある魔法といえば、かまどに火をつける魔法や、コップ一杯の水を浄化する魔法くらいで、結界魔法など物語の中の存在だった。ましてやその場の人の意識まで誤魔化すほどの魔法など、話にすら聞いたことがなかった。
 ただ――言ってブランは唇を舐め、壮絶な笑みを深める。
「元々これはその場にいる数人を『誤魔化す』程度の魔法でしかない。それでこれだけの人数を『誤魔化す』んだ、魔道士としちゃ一流だ」
 魔道士。
 ほぼ全ての人族が魔法を扱える楽園では、誰もが扱えるような魔法から、このような普通には知られることのない魔法まで、あらゆる魔法に精通し使いこなす者のみがそう呼ばれる。ブランがそう呼ぶならば、あの女は魔道士と呼ばれるに値し、その中でも上位に位置する実力者なのだろう。
「魔道士か……」
 ディスは左手をぐっと握りしめ、足を止めて女を睨む。その声に不思議な感傷が含まれていたように聞こえて、セイルは思わず『ディス?』と聞き返す。だがディスはそれには応えずに一歩を踏み出す。
「ブラン。奴は俺が相手するから、シュンラン連れて逃げろ。結界って言うくらいだ、効果範囲に限界はあるんだろ」
 誰にも見えていないなら、とディスは左手を刃へと変化させる。そんなディスの背中に、含み笑いを含んだブランの言葉が投げかける。
「それはできねえな」
「何でだよ!」
 ディスは女から目を外さないままに叫ぶ。だが、ブランの声は何処までも落ち着いたものだった。
「知れてんだろ、『ディスコード』。嬢ちゃんを奪われるわけにはいかねえが、お前を奪われても同じく手詰まりよ」
「……っ、手前」
 俺を信じられないのか、と。ディスが言おうとしたのはセイルにも伝わってきた。だが、ディスは少しだけ躊躇った末に、その言葉を飲み込んだ。ブランの言葉は、想定される『最悪の可能性』だ。ただ、そうならないという保障は何処にもない。
「なら、手前はどうすんだよ」
 代わりに、ディスは低い声でブランに問う。ブランは笑い声を立てることもせず、ディスの背中に向けて淡々と言った。
「結界に穴を開ける。時間を稼いで頂戴な」
「は、了解だ」
 甚だ不満そうではあったが、ディスは『ディスコード』の刃を構える。背後からは、ブランが早口に詠唱する声が聞こえてくる。ディスが右手で目の前に立っていた男を無造作に突き飛ばし、女までの視界を確保したその時。
 女の腕から放たれた銀の光が真っ直ぐにディスを貫こうと迫る。ディスは即座に『ディスコード』の刃を前に構え、光を受け止めて力の方向を上へ逸らす。力を失った光は、青い空に閃いたかと思うと、その正体を顕にした。
「鎖……?」
 そう、それは銀色に煌く鎖だった。先端に十字架を模した大きな鉤を持つ長い鎖が、女の緩やかな袖から伸びていたのだ。その鎖は女が軽く腕を引いただけで女の袖の中に戻っていき、再びディスの視界を人が遮ろうとする……
 その瞬間、ブランの静かな声が響き渡る。
「汝の名は偽り、偽らざるマナに戻れ」
 きぃん、と耳鳴りのような音が響く。途端、今までこちらを見向きもしなかった人々が、道の真ん中で立ち止まるディスたちに迷惑そうな視線を投げかけてきた。ディスはすぐに左手の刃を手の形に戻し、女の方を見る。女の姿はやはり人に隠れてしまって上手く見通すことは出来なかったが、ちらりと見えた姿は頭を押さえているように見えた。
 すると、ブランがぐっとディスの首根っこを掴み、言う。
「今のうちに行くわよ。結界の穴はすぐに埋まるからね」
「消せるわけじゃ、ないですか」
 不安げなシュンランの問いに、ブランは「当然よお」とへらへら笑う。ただ、ブランもまた、女と同じように頭を押さえていた。
「結界破りって、結界の術者も破る術者も痛いからねえ」
「え、だ、だいじょぶですか!」
「この程度なら平気。奴さんがふらついてる間に結界抜けましょ」
 その一言で片付けてみせるけれど、ブランの顔色は決して良いとは言えなかった。ディスは「離せよ」とブランの腕を乱暴に振りほどいて走り出す。ブランもシュンランの手を引いて併走する。
 背後から、こちらを呼ぶ女の声が聞こえた気がしたけれど、三人は立ち止まらない。辺りの人々を突き飛ばし、時に罵声を浴びせかけられながらも迷わず走り続ける。走りながら、不意にディスはブランの顔を覗き込んだ。
「ホントに、平気なのか」
「嘘はつかないって言ったでしょ。無理なら無理って言うぜ、俺様」
「魔法使いの言うことは、信用できねえ」
 あら、俺様は魔道士じゃないわよ、とブランはおどける。だが、ブランは「そういう問題じゃねえよ」と呟いてそれきり黙って走り続けた。再び結界に入ったらしくまたこちらを意識しない人々に足を止められかけたが、少し走ればすぐに結界の外に出ることができた。このまま撒けるかもしれない、そうセイルも思ったのだが……
 あてもなく走ってきたツケだろうか。やがて三人の前に立ちはだかったのは、壁だった。