空色少年物語

幕間:クラウディオ

 瞼の上から投げかけられる柔らかな光に気づき、目を開ける。
 少しだけ開いた窓から吹き込む風が、薄いカーテンをふわふわと揺らしているのを赤い瞳で追いかけ……ワンテンポ遅れて自分が温かなベッドの上に横たわっているという事実に気づく。体を起こそうとするが、腕や足に上手く力が入らずその努力は無駄に終わる。
 それもそうか、と彼は思って苦笑する。
 『エメス』の追手から何とか『棺の歌姫』を逃がし、自分もまた捕らわれないように夜も眠らず三日三晩逃げ続けたのだ、体力も気力も尽き果てよう。意識を失う前の記憶が曖昧で、自分が今何処にいるのかも理解していない。もしかすると、既に自分は囚われの身なのだろうか。それにしては随分と綺麗な部屋に閉じ込められたものだ、と整った調度品を見ながら考える。
 もう一度、体に力を入れ、何とか上半身を起こしたその時。
 きい、という扉の軋む音と共に、一人の女が部屋の中に入ってきた。白く褪せた髪を肩の上で切りそろえた、長身痩躯の女。
 彼はその女を知っていて、同時に自分はまだ『エメス』に捕らわれたわけではないのだと確信した。
「久しぶり、王子。私の結婚式以来か」
 見知った女は男とも女とも判断がつかないハスキーな声で言った。中性的な外見を持つ女にはとてもよく似合う声だと思う。その辺は、十五年前と何も変わらない。
 彼は苦笑を隠すこともせず、女に言う。
「いやはや、時の流れは速いものだ。それと、私は『王子』じゃないと何度言ったらわかるかな」
「竜王の血筋なんだから同じようなもんだろ。流石に四十路越えたオッサン相手に王子はないかな、とは思うけどな」
 言って、女はニヤニヤと笑ってみせた。それを言ったら君も四十路は越えた辺りだろうに、と呆れ顔で彼は応じる。それから、すぐに表情を引き締めて女を見上げる。
「私は、どのくらい寝ていた?」
「三日ってとこだな。随分と大立ち回りを演じてくれたじゃねえか、クラウディオ。ま、お陰で助かったけどな」
 女の言葉に、彼は『竜王』特有の紅の瞳をすっと細めて窓の外を見る。そこには、体の半分ほどを失い機能を停止した、巨大な機巧仕掛けのゴーレムがあった。
 そう、自分はこの家を襲っていたゴーレムを破壊して、意識を失ったのだ。彼、クラウディオはやっとそれを思い出した。
 クラウディオ・ドライグ――異端の王国、蜃気楼閣ドライグの『竜王』の血族にして、異端研究者の穏健派を束ねるリーダー。それが現在の彼が持つ肩書であった。大層な肩書だが、だからと言って何になるわけでもない。
 それこそ、助けを求める少女一人も十分に守ることが出来ないのだから。
 そこまで考えて、『棺の歌姫』のことを思い出し、女に問う。
「そうだ、こっちに女の子が来なかったかい? 白い髪に、すみれ色の瞳をした女の子だ」
「来たが、『鍵』を持ってたってことは本国に何かあったのか」
 本国。それは蜃気楼閣ドライグの民が自国を指す言葉だ。今はユーリス国民である女に真実を語ってよいものかはわからないが、女の瞳には真実を求めようという強い光が宿っていた。
 その真っ直ぐさも、何も変わっていないのだな、と。クラウディオは何処か懐かしい気持ちになる。時間は残酷なまでに駆け足で過ぎていくけれど、変わらないものは確かにあるのだ。心に宿った優しい感覚を信じて、クラウディオは口を開く。
「本国が『エメス』に襲撃されてね。奴らの狙いは彼女と『鍵』のようで、本国の守りはガブリエッラに任せて私がその二つを城の外に脱出させたんだ」
「そっか、今の竜王はガブリエッラだったな。あの子は無事?」
「無事だという報せは届いているよ。住民にも被害は無い。ただ、右の塔が完全にやられてね、『義体』が奪取されたらしい」
 クラウディオの言葉に、女は不審げに形のよい眉を寄せた。
「 『義体』? 私じゃあるまいし、あんな機巧人形に何の用だってんだ?」
「さあ、それは私にもわからないな。とにかく『エメス』の規模は想像以上で、このままでは魔女騒乱の再来は間違いない。だから、可能であれば『鍵』の使い手たる彼の協力を仰ぎたいと思っていたのだけれど……」
 クラウディオがそう言った途端、女の表情が硬く強張った。だが、それはクラウディオも想定済みである。冷たく射抜くような女の視線から目を逸らさずに、一つ一つの言葉をはっきりと発音する。
「ノーグ君の居場所を知らないか?」
 問いかけに対し、女は強張った顔のままではあったが、ゆっくりと首を横に振った。
「こっちが知りたいくらいだ。けれど」
 女は静かな、しかし底に強い感情を秘めた声でクラウディオに言い放つ。
「二の轍を踏むつもりか、クラウディオ?」
「いや、その気はないよ。ただ……『鍵』を使えるのは、私が知る限りでは彼一人。彼の意向だけは、知りたいと思ってね」
 ――彼が、楽園の味方になるにしろ、楽園の敵になるにしろ。
 言い切るクラウディオに、女は何とも言えない表情を返した。
 ノーグ・カーティスは『エメス』に属する異端研究者であり、人殺しであり、楽園の敵である。その噂を異端研究者たるクラウディオが知らないはずもない。ただ、クラウディオはその全てを信じてはいなかった。
『クラウディオ』
 どれだけ背が伸びても、顔立ちが大人びても、声だけは少年のような響きを帯びていた『機巧の賢者』ノーグ・カーティス。彼は、黒縁眼鏡の下からクラウディオを見据えて言ったのだ。
『アイツは楽園を「歪んだ世界」って言ったが、俺はそのイビツさも含めて今の楽園が嫌いじゃねえんだ。もちろん、ずっとこのままってわけにはいかないだろうが』
 彼は笑うのが苦手だとクラウディオに漏らしたことがある。ただ、その時だけはほんの少し、はにかむように微笑んで。
『せめて俺がここに立ってる間は、今のままであってほしいと思う』
 そう、言ったのだ。
 そのノーグが、理由もなく楽園の敵になることはありえない、とクラウディオは思っている。ただ、今の楽園を守るためなら敵になることを厭わない男である、そんな確信もあった。
 だから、クラウディオは知りたいと願う。今のノーグが何を思って姿を隠しているのか。彼に、楽園の存亡を握る『鍵』を手にする資格があるのか。クラウディオに投げかけた言葉を忘れてしまったのか。
 彼が言葉通りに「忘れている」とは思っていないけれど。
「だから、彼女にもノーグ君を探すように、と言ったのだけれど……彼女と『鍵』は今、どこに?」
「アレが攻めてきたからセイルに託して逃がした。今は多分ユーリスの外にいるんじゃねえかな」
 窓の外のゴーレムを指して、女は言う。セイル、というのが女の息子であり、ノーグの弟であることはクラウディオも知っていた。実際に顔を見たことがあるわけではないが、女がセイルを溺愛していることはノーグから嫌というほど聞いていた。
 だが、女が『棺の歌姫』と『鍵』をセイルに託す、という選択肢はクラウディオの想定にはなかった。
「セイル君に託した? しかし、セイル君は」
「何も知らないよ。蜃気楼閣のことも、ノーグのことも『鍵』のことも」
 窓の外に視線を向けたまま、女は吐き捨てるように言った。
「だが、それしかなかった。セイルも『鍵』の使い手だしな」
「何だって? そんなこと、聞いていないぞ」
「実際に使っているところを見たわけじゃねえけど、セイルには『鍵』の声が聞こえたらしい」
 本来は使い手を『血』によって選ぶ、確固たる意志を持つという『世界樹の鍵』、『ディスコード』。それが、本来縁もないはずの少年、セイル・カーティスを選んだというのか。『ディスコード』は全てを知らない少年に何を望むのだろうか……?
 かつて犯してしまった過ちが脳裏に呼び起こされ、クラウディオはそっと額を押さえる。それはクラウディオの瞳の色と同じ、赤い、赤い記憶だ。痛みすら伴うその記憶を振り払おうと首を振った、その時。
 耳に届いたのは、小さな……否、徐々に大きくなるノイズ。
 このノイズは、魔力で生み出される音の波が奏でるものだ。階下のラヂオは魔力を切っていたはずだけれど、不思議そうに首を傾げて呟いた女の声は、辺りを満たす声に遮られる。
 
『驚かせてすまない、楽園の諸君』
 それは、クラウディオの、そして女のよく知る声。
『私は「エメス」の長、「機巧の賢者」ノーグ・カーティス』
 鋼の響きを帯びた少年の声が告げるのは――
『我らはこれより、女神を騙る者、ユーリスとの全面戦争を開始する!』
 
 始まったか。
 呟きは、クラウディオのものか、女のものか。
 ただ、それはいつか必ず「来るもの」であることは確信していたのかもしれない。クラウディオはぐっと手を握りしめ、女は目を閉じて痛みを堪えるような表情をしながらも、決して取り乱しはしなかった。
 歯車は回転を始めてしまった。色々なものを巻き込みながら、淡々と、しかし確かに。
 それならば、自分に出来ることはただ一つ。
「お邪魔したね、私は彼女を追うよ。杖と眼鏡はあるかい?」
「あ……ああ。ここだ」
 女は細い縁の眼鏡を取り出し、クラウディオに手渡す。クラウディオは優雅な所作で眼鏡をかけ、澄んだ視界で改めて女を見た。女は、北方の民特有の冬空色をした瞳でじっとクラウディオを見据えていた。何か、言葉をかけようというのだろうか、その唇は小さく震えたけれど、そのまま声にはならなかった。
「それじゃあ、また」
 ベッドに立てかけてあった愛用の杖を拾い上げ、立ち上がる。目覚めてしばらく経ったからだろう、体は先ほどよりはずっと自由に動くようだった。女に背を向け、部屋を出ようとして……不意に、女の声が投げかけられた。
「……クラウディオ、私に出来ることはないのか」
 その問いには、背を向けたままのクラウディオがきっぱりと言い切った。
「彼らが帰る場所、この家を守り通すこと。それは『家族』である君にしか出来ないことだろう、カーティス夫人」
 すると、「はは」と小さく笑い声が聞こえた。あえて振り向いて確かめることはしなかったけれど、女は本当に笑っていただろう。昔と変わることのない、無邪気な笑顔で。
「そうだな。あの二人とノーグを頼んだぞ、クラウディオ」
「ああ」
 あの時を、繰り返さないために。
 二度と、誰かが後悔しないように。
 クラウディオは決意を込めて杖を握り、カーティス邸を後にする。それと同時にカーティス邸の屋根で羽を休めていた純白の鳩が、彼の背を追うように飛び立った。