その後、ブランは宿を後にしてどこかへ行ってしまった。荷物は置いてあるから、必ず戻ってはくるのだろうが……窓の外に広がる星空を見上げ、そんなことを考えながらセイルはベッドに腰掛けていた。シュンランは隣の部屋だが、物音がしないことからするともう眠っているのだろう。あれだけ色々なことがあったのだ、やっと落ち着いて寝られるというものだろう。
しかし、セイルはまだ、眠れない。
頭の中にぐるぐる回るのは、ブランが話してくれた兄のこと。ブランは兄のことを否定的に喋っていた。当然だ。ノーグ・カーティスは楽園の敵、『エメス』の一員であり、人殺しの罪人でもあるのだから。
けれど。けれど。何遍も繰り返しながら、上手く思考を整理することができずにいる。何度かディスがこちらを心配しているような声を投げかけてきたけれど、それにもろくな答えを返せずに、明かりもつけない部屋の中途方に暮れていた。
その時、きぃと軋んだ音を立てて扉が開き、セイルははっとしてそちらを見る。廊下の淡い光を背にして立っていたのは、細長い影……ブランだ。
「まだ起きてたのか、ガキ」
ブランは荷物を投げ出し、羽織っていたコートを椅子にかけて腰掛ける。コートを脱ぐと、ただでさえ細いシルエットが尚更細く見えた。細長い足を揺らめかせ、ブランは闇のなかこちらを見たようだった。窓から差し込む月明かりのみが光源のこの部屋では、ブランのシルエットしか見えない。セイルが銀色の目を凝らせばブランがどんな顔をしているのかもわかるだろうが、あえてそうするつもりも無かった。
「……眠れないんだ」
「ま、色々あったもんな、お子様には刺激が強すぎただろ」
お子様扱いされるのは嫌だったが、ブランの声が存外に穏やかだったから、セイルは少しだけほっとした。視線も通らぬ闇の中に置かれて、ブランの笑顔ながらなお冷たい視線を見なくて済むことも、セイルの気分を軽くした要因かもしれない。
ほっとしたからか、自然と、唇から言葉が零れた。
「あのさ、ブラン」
「ん?」
「ブランは、さ。どうして、異端研究者になったの?」
本当は、そんなことが聞きたかったわけじゃなかったはずだ。ただ……気にならないわけではなかったのだ。あえて楽園の常識に背を向けて、影追いに狙われる危険を冒してまで、謎を追い求めようと思うのは何故なのか。それを知れば、少しは兄についてもわかるような気がしたのだ。
セイルはそのまま黙ってブランの返事を待っていると、ブランは、「んー」と小さく唸ってから、言った。
「どうして、って言われても困らあな。俺様はただ、自分が立ってるこの世界について知りたかっただけ。その結果、手に入ったものが楽園や女神様ににとっちゃ『異端』だっただけ」
ただ、そう言ったところで理解はされねえだろうな、と。ブランは言って小さく息をつく。
「理解されない。だから俺は『異端』なんだよ。異端研究者ってのは皆、多かれ少なかれそんなもんだ。深い理由なんてねえ奴がほとんどだろうよ」
知りたいと思った、ただそれだけで楽園の常識を軽々と飛び越えることが出来るのか。セイルにはどうしてもその感覚が理解できなくて、結局ブランの言う通りなのだと思うしかなかった。楽園の常識の中にいるセイルからすれば、どうしてもその枠の外にあるものは理解できないのかもしれない。
そして、枠の外にいる者からすれば、枠の中に嵌っているものがやっぱり理解できないのかもしれない、とは思った。
「……兄貴も、そうだったのかな」
セイルの言葉に、ブランは小さく喉を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「なあ、ガキ。俺様も聞いておきたいことがあったんだ」
「俺に?」
「お前さん、ノーグ・カーティスの弟なんだよな。何で、今になって兄貴を捜そうなんて気になったんだ? 奴が消えてから、既に六年が経過してるはずだが、弟がノーグを探してるなんて俺様初耳よ」
ブランの言葉は、別にセイルを責めるでも、非難するでもなかった。単に興味本位といった声色で、だからだろうか、セイルも躊躇いなく答えることができた。
「俺さ、兄貴とはもう会えないんだろうって、ずっと諦めてたんだ。それに、怖かった。六年間誰にも見つからないで、なのに恐ろしいことをしてるって聞かされて。俺なんかじゃ絶対に届くはずも無いって思ってた。けどさ」
シュンランが現れたあの日から、全てが変わったのだ。
「シュンランは、諦めないんだ。何があっても前を見てて、兄貴に会うのが楽しみだって言ったんだ。だから、俺も簡単に諦めるのはやめようと思った。俺も、兄貴に会いたいって、強く思ったんだ」
「兄貴が、本当に犯罪者だったとしても、か」
「正直、信じたくない。でも、そうだったとしても……俺は、兄貴に会いたい。会って、六年分の話がしたいんだ」
兄の膝の上で話を聞いていた、遠い日と同じように。淡々としているけれど温かな、兄の声を聞きたい。そう、願ったのだ。
もちろんディスにも言われたが、それは相当甘い考えだ。『エメス』や影追いに追われながら、『エメス』の幹部だという兄を探すなど、ただの少年でしかないセイルには不可能に近い。偶然この手に渡った『ディスコード』の力があって初めて前に進める、そのくらい危うい旅路であることも、確か。
兄についての暗い話題を聞くたびに、揺らぎそうになるほど危うい決意であることも、確か。
そんな自分が嫌で、セイルは苦笑する。
「ブランは、笑うかな。甘いよな、俺」
「……笑わねえよ」
俯きがちにセイルが零した自嘲気味の言葉に対し、ブランははっきりと言い切った。セイルが意外に思って顔を上げると、ブランは先ほどまでのセイルと同じように、窓の外を見ていた。月明かりに照らされたブランの輪郭は、鋭利な刃物を思わせたけれど……そこに浮かんだ表情は、落ち着いたものだった。
「笑わない。お前の決意を笑う権利は、俺にはねえよ。ただ」
セイルの方を見ないまま、ブランは淡々と告げる。
「決意には、覚悟が必要だ」
「それ、ディスも言ってたっけ。シュンランについてくって決めた時、俺は何もわかってなかった。追われる覚悟とか、命をかける覚悟とか、そういうのって……今もまだ、わかってない」
「そうじゃねえ。俺様が言ってるのは、『現実を認める覚悟』ってやつだ」
現実を、認める覚悟。一体どのようなものを指しているのかわからず首を傾げるセイルに対し、ブランは長く伸びた髪を小さな手で掻き揚げた。
「命をかける覚悟なんて、誰だってできねえよ。ただな、自分が望まない現実に辿りついちまった時……そいつを認められないのは死ぬより辛い」
「死ぬより、辛い?」
「そ。全てが変わっちまって、一人だけ取り残されて、それでも生き続けなきゃならねえ。そういうこともある、ってことだ」
生き続ける方が、辛い。そんなことがあるのだろうか。疑問符を浮かべてしまったセイルに、お前はまだわからなくていい、とブランは言って笑った。
「お前さんは、俺様の言うことを大人しく聞いてりゃいい。あとは俺様が、お子様二人を連れて行けばいいだけの話よ」
本当に、それで、全てが丸く収まるのだろうか。疑問に思わなくはなかったが、ブランがそう言い切ってしまったから、セイルは反論も出来ずに黙り込む。ブランは「話はそれだけか?」と言って、椅子を立つ。
「なら、ゆっくり寝ておけ。眠れなくとも、目を瞑るだけで少しは違うはずよ」
「うん……ありがとう、ブラン」
セイルの言葉に、ブランは首を傾げたようだった。
「何で、俺様が礼を言われにゃならねえのよ?」
「俺の話、笑わないでくれたから。少しだけ、楽になった」
初めて会った時の印象が悪すぎて、ブランのことを少し勘違いしていたかもしれない。いつもニヤニヤしていて胡散臭いし、冷たく観察するような目が怖いという認識は変わらないけれど……自分の言葉を真摯に受け止めてくれる人だとわかっただけでも、セイルの心は軽くなった。
これなら、今日は何とか眠れそうだ――そう思って、布団の中に潜り込もうとした、その時。
隣の部屋から、突然何かが倒れる大きな音が聞こえてきた。
「……シュンラン!」
セイルはぱっと立ち上がると、部屋を飛び出した。ブランが背中から何かを呼びかけていたが、何を言っていたのかもわからないままに。
隣の部屋の扉を激しく叩くが、部屋の中からばたばたと何かの音がするだけで、返事はない。入ろうにも、扉には鍵がかかってしまっていて……どうにか出来ないかと思った瞬間、ディスが頭の中で叫んだ。
『貸せ!』
その「せ」という音が消えないうちに、セイルの体を乗っ取ったディスが、左手を刃へと変えてドアノブを斬りつける。内側の鍵が断たれた気配を確かに捉えて、扉を蹴破る。
リン、という鈴の音を乗せて、風がセイルの横を吹き抜ける。まず、目に入ったのは大きく開いた部屋の窓。そして、窓から入り込む月の光に照らされていたのは……
「な、何だ、手前」
月明かりしか頼るもののない闇の中でもなお鮮やかな、赤い巨大な帽子にグロテスクなストライプの道化衣装。あちこちにつけられた鈴がちりちりと、緊迫した空気に澄んだ音を響かせていて……屈みこんだその奇怪な人物の足元に、宿で借りた寝巻きに身を包んだシュンランが組み伏せられていた。
騒ぎながら暴れるシュンランを無理やり押さえ込みつつ、小柄な道化衣装の影はぱっと顔を上げる。薄明かりに浮かび上がるのは、真っ白に塗られた小さな顔と、片方だけ青い目の周囲に描かれた、炎を思わせる真っ赤な模様。
「あっれえ、気づかれちゃった?」
暗い色で塗られた唇から放たれたのは、シュンランと似て高く響く声で。それで、セイルはやっとこの奇怪な道化がセイルとさほど変わらぬ歳の「少女」であることを理解した。一歩歩みだそうとするディスを牽制するように、道化の少女はシュンランの体を無理やり持ち上げてみせる。
「でも、一足遅かったかなあ」
シュンランの体を盾にされ、ディスはそれ以上動けなくなって立ち止まる。あからさまに眉を寄せたディスが、吠える。
「手前、何者だっ!」
「え、ワタシ?」
道化は体中につけた鈴の音を響かせて、満面の笑みを浮かべる。セイルの背筋がぞっとするくらいに純粋な、笑い方で。
「ワタシはティンクル。『エメス』のティンクルだよ」
「鈴だからティンクルか、とことん単純なネーミングだな」
鈴だから、ティンクル。セイルはディスが投げやりに放った言葉の意味を測りかねたが、ティンクルはぷうと頬を大げさに膨らませて抗議する。
「違うもん! これはノーグがつけてくれた名前なんだもん! 馬鹿にしないでよね!」
「ノーグ? ……手前、ノーグの手下なのか」
「手下? 手下じゃないよ。あんなのと一緒にしないで!」
りん、と。鈴の音を纏った道化は、片手でシュンランの体を抱えて、もう片方の手にはいつの間にやら何かを携えていた。よく見ればそれは、光沢のある赤いハート型の鞄。
一体何をしようとしているのか、さっぱり掴めずに戸惑うセイル。戸惑っているのはディスも同じようで、じりじりとすり足でティンクルとシュンランに近づきながらも、どうしてよいかわからずにいるようだった。
ティンクルは機嫌を損ねて唇を尖らせた表情のまま、鞄を振り上げようとして……
「汝の名は『静寂の原』!」
鈴の音すらも貫いて、耳を震わせるざらついた声音が響いた瞬間、世界から音が消えた。
そして、やはり音一つ立てずに……ハートの鞄を握ったティンクルの腕から、突如血が噴き出した。思わずシュンランの体を取り落として目を見開くティンクル、ワンテンポ遅れてそちらを見やるディス。
ディスの視線の先、開きっぱなしだった扉の向こうにはブランが立っていた。真っ直ぐに伸ばした腕の先には、見慣れぬものが握られている。金属で出来ている小さな筒状の何か。
――あれは……銃?
銃。それは、創世の時代、女神に反旗を翻した使徒アルベルトが使用していた「鋼の武器」。魔法の力を借りずに、鋼の弾を相手に撃ち込むという仕組みを持った禁忌の武器だ。セイルも兄の話でしか聞いたことがなかったものが、今まさに、ブランの手の中にあった。
ティンクルは痛みや怒りで顔を歪めるでもなく、ただ驚きの表情でブランを見ていた。ディスはそこを見逃さずに、素早くブランからティンクルに意識を戻し、大股に一歩を踏み込む。
だが、ティンクルもすぐに腕を押さえて後退すると、窓枠に足をかける。
そして、にっこりと笑って唇を動かす。
ま・た・ね。
音の無い世界でゆっくりと放たれた別れの言葉と共に、ティンクルは、軽やかに窓枠を蹴った。
まさか、ここは二階だ。普通に飛び降りれば、骨折の一つくらいはしてもおかしくない。ディスが駆け寄ると、鮮やかな道化衣装は視界の何処にも見当たらなかった。夢幻であったかのごとく、ティンクルの姿が消えてしまったのだ。
ぱちり、と。何かが鳴る音と共に、セイルの耳の中に音が溢れかえる。風の音、自分の呼吸の音、そしてシュンランの呻く声。危険が去ったと判断してディスは意識の奥に潜り込み、体の自由を取り戻したセイルは慌ててシュンランに駆け寄る。
「シュンラン! 大丈夫だった?」
「は……はい。びっくり、しました」
シュンランは真っ青になって、肩で息をしている。セイルはシュンランの体を支えてやりながら、ブランを見やった。ブランは部屋の明かりをつけて、鋼の武器を腰の不思議な形をしたベルトにしまってセイルの横にしゃがみこむ。
シュンランの体を上から下まで眺め、ブランは息をつく。
「……怪我はねえな」
「だいじょぶです。ありがとうございました、ブラン」
「んにゃ、奴の侵入を許しちまった俺様の落ち度だ。悪いな」
ブランはシュンランの頭を撫でてやり、立ち上がって窓の方に歩いていった。自分の目で、あの奇怪な道化が消えたのを確認するつもりなのだろう。その背中に向かって、シュンランが言葉を投げかける。
「あの、さっきの、音が消えたのは何だったですか?」
「あれは俺様の魔法よ。これの音を聞かれるのもまずいからな」
肩に引っ掛けていたコートを着直して、ブランは言う。
魔法に疎いセイルでも、「汝の名」が命名魔法の呪文だということくらいは知っている。銃はいわば小さな砲台のようなものだから、弾が放たれる時の破裂音を抑えるために、あらかじめ周囲の音を消す魔法を展開したのだ。
銃など、持っているところを見られただけで異端研究者として影追いに追われかねないシロモノである。ブランは、これを隠すためにも、季節はずれのコートを羽織っているのだろう。
「しかし、奴さんはどうやって入ってきた。窓が開いてるからって、簡単に入れるもんか?」
ブランの問いかけに、シュンランは首を横に振った。
「あの人は、窓を通ってません」
「なら、どうやって」
「急に、出てきたです」
出てきた? というブランとセイルの声が唱和した。
「転移魔法? んな馬鹿な。門も無い場所に転移するなんて、使徒だって不可能だ」
ブランは何処か引きつった笑みを浮かべながら言う。そもそも、瞬間的に他の場所に転移するという魔法は創世の時代に失われてしまった、遺失中の遺失魔法だ。現代に生きる者が使えるものではない。
だが、シュンランは首を振って「しかし、出てきたです」と主張するばかり。シュンランの言葉を疑いたくは無かったが、寝ぼけてそう見えたのではないか、とセイルは思い始め……ふと、階下からこちらに向かってくる足音に、気づく。何かあったのか、と問いかけてくる声は宿の主人のもので、セイルとシュンランはお互いに顔を見合わせる。
あれだけばたばたと暴れた上に、成り行きとはいえ扉の鍵まで壊してしまったのだ。どう言い訳したものか、とセイルが思い始めた時、ブランが小さく溜息をついて肩を竦めてみせた。
「ガキども、向こうの部屋に行って休んでろ。ここは俺様が何とか言い訳しちゃるから」
「……ご、ごめん、ありがと、ブラン」
「何、それが保護者のお仕事ってこと」
勝手に保護者面してんじゃねえよ、と脳内でディスがぶつぶつ呟くが、今はブランを頼るしかないだろう。まだ青い顔をしているシュンランの手を取って、隣の部屋の扉を閉める。シュンランをベッドに座らせ、今度は窓もしっかり閉めて、鍵をかけようと手を伸ばした時、背中にシュンランの声がかけられた。
「セイル、わたし、知っている気がしたです」
「……何を?」
「ティンクル、と言ったあの人の声。何処かで、聞いた気がします」
遠い、遠い昔に。
セイルがシュンランを振り向けば、シュンランは窓の外、空に浮かぶ月に視線を向けていた。夜闇に消えてしまった、あの不可思議な道化師の姿を透かしてみようとするかのように。遥か遠くに霞んでしまった、記憶の欠片を探し求めるように。
そんなシュンランに、どんな言葉をかけていいかわからなくて。しばらく、二人でベッドに腰掛けたまま夜空にかかる月を見つめ……やがて、どちらからともなく、眠りに落ちていった。
窓から差し込む朝の光が目蓋の上にかかって、セイルの意識は覚醒へと誘われる。
目を開けてみれば、既にシュンランの姿は横にはなかった。辺りを見渡してみても、シュンランやブランの姿は見えない。
『おそようさん。シュンランとブランはとっくに下だぞ』
頭の中に、ディスの声が響く。その声が妙に眠そうだったのは、セイルの聞き間違いではないはずだ。剣の癖に眠ったりするのだろうか。想像しようにもなかなか想像が及ばないが、ちょっと愉快に思う。
セイルは、階段を軽い足取りで駆け下りる。階下の食堂には朝食を取る旅人達の姿がちらほらと見られ、その中には昨日と変わらぬコート姿のブランと、初めて出会った時の服に似た、白いワンピースを着たシュンランの姿があった。
「おはようございます、セイル」
「おはよう。ごめん、待たせちゃったかな」
「だいじょぶですよ。それより、髪の毛がすごいです」
え、とセイルが思わず窓に自分の顔を映してみると、空色の髪がとんでもなくぼさぼさになっていることに気づいた。シュンランにくすくす笑われてしまい、セイルは真っ赤になって無理やり手で髪の毛を押し付ける。もちろんそんなことで寝癖が直るわけがなく、手を離せばくるんと丸まってしまう。
ブランもおかしそうに笑いながら、「まあとりあえず座れよ」と椅子を指す。セイルは仕方なく、跳ねる髪を指先でつまみながら席についた。テーブルの上には、朝食にしては豪勢な食事が並んでいて、セイルたちの腹に収められるのを待っている。
セイルは、家でいつもするように、女神ユーリスに感謝の祈りを捧げてからフォークを手に取った。祈りの意味を知らないようであるシュンランも、見よう見まねでセイルと同じ動きをしてみせていたが……セイルはつとブランに視線をやり、小さく首を傾げた。
「ブランも、女神様にお祈りはするんだ?」
異端研究者であるはずのブランまで、セイルと同じ両手の指を組む祈りの姿勢を取っていることが不思議だったのだ。そう思っていると、ブランは苦笑いをして言う。
「美味いご飯にありつけるのは、今の楽園を創った女神様のお陰でしょうが。そこまで否定するようなバカじゃねえよ、俺様」
あくまで普通の異端研究者が否定するのは、女神の語る歴史だけだとブランは語る。そういうものなのか、と納得しかけたセイルに対し、ディスがぼそりと呟く。
『果たして、それも「女神様のお陰」って言っていいもんかね』
「……ディス?」
「ディス、余計なことは言わなくてよろし」
ブランはフォークでセイルの左手を指す。ディスは『へいへい』と返事をして、それきり黙った。セイルは、ディスが言わんとしていたことが気になったものの、ブランに「冷めるぞ」と言われて意識はすぐに食事に移ってしまう。ちなみに、シュンランは黙々と、しかもセイルより早く食事を平らげていた。
腹が満たされて落ち着いたところで、セイルはブランに問う。
「ブラン、これからどうするの?」
「変な奴に見つかっちまったし、ここには長居できねえな。幸いここは港町だ。この国を回るでも、他の国に行くでも、手段には事欠かねえ」
そういえば、ここは何処なのだろうか、とセイルは今更ながらに思う。窓の外に見える風景は、セイルの故郷、ユーリス神聖国西部とは全く趣を異にしていた。ユーリス国ではほとんど見られない煉瓦を剥き出しにした家が多く建ち並び、舗装された道には魔道機関の車がゆっくりと行き交う。それだけでなく、あちこちに突き出している煙突からは、魔道機関が放つ魔力を含んだ薄緑の煙が立ち上っていた。
ユーリスは、魔法の国ではあるが魔道機関は好まれていない。魔道機関を多く保有しているのは……
『……もしかして、レクス帝国か?』
ディスの言葉に、ブランは「六十点だな」と笑う。
「今は帝国とは言わねえんだよ。ここはユーリス領レクス、南の玄関口エリエラ。一応ユーリス神聖国の領土になる」
セイルも、兄から習った知識を頭から引きずり出す。かつては楽園の東部を支配していた大帝国レクスだが、三百年ほど前にユーリス神聖国との大戦が勃発し、その結果ユーリスに解体されることになる。その後もレクスの持っていた高度な技術力を利用しようとした者たちが何度か戦を起こそうとしたが、どれも未然に防がれ、結局レクスはユーリス領として併合されることになった。
それからは大きないざこざも無く、ユーリス本土と違う文化を持ちながらユーリスの一領土としての地位を確立している。
「とりあえず、レクスを回ってみるのも悪くないとは思うが」
ブランは言葉を続けようとしたが、微かに目を見開いて口を噤む。セイルは何故ブランが言葉を切ったのかわからずに「ブラン?」と呼びかける。すると、ブランが唇に人差し指を押し付けてみせた。黙れ、ということなのだろうが……
シュンランがセイルの袖を引き、耳元で囁く。
「……急に、音が止まったです」
「音?」
言われて、セイルもやっと気づいた。カウンターに置かれた魔石ラヂオが流すゆるやかな音楽が、急に途絶えたのだ。否、途絶えただけではない。微かながらとても不快なノイズが空気に混じり始めていた。
ノイズは徐々にその音を増してゆき、流石に各々のお喋りに興じていた他の客たちも異変を感じてお互いの顔を見合わせ始める。しかも、そのノイズはその場に置かれたラヂオから聞こえてくるばかりではない。街角に立つ魔道機関仕掛けの拡声器からも耳をつんざくようなノイズが響き渡り、窓の外を行き交っていた人々が思わず足を止める。
あまりの騒音に両の耳を塞ごうとしたセイルだったが……その時、ふつりとノイズが止む。一体、何が。セイルが言いかけた言葉はしかし喉の奥に飲み込まれ、
世界を包むのは、
『驚かせてすまない、楽園の諸君』
その場にはいるはずのない、だがセイルが最もよく知る、声。
『諸君に私の言葉を届けるため、しばし公の魔力波をお借りしている』
少年のような明るい響きを持ちながら、感情の波立ちを全く感じさせない声。そうだ、この声だ。何年経っても、セイルの記憶の中に刻まれた声と変わらぬそれは、淡々と、だが決定的な一言を告げた。
『私は「エメス」の長、「機巧の賢者」ノーグ・カーティス』
「……兄、貴?」
セイルは、自然と立ち上がって、その声に耳を傾けていた。兄、ノーグは何処までも感情の感じられない氷の声音で告げる。
『我ら「エメス」は、楽園の真実と真理を追い求めながら、長らく不当な理由で異端として排されてきた。だが、それも今日で終わる』
今日で、終わる。
背中に走る、冷たい何か。意識もしていないのに、体が震える。続きを聞いてはいけない、そんな声が自分の奥底から聞こえてくる。
『私は、この楽園に生きる全ての者に告げる』
だが、セイルは立ち尽くしたまま――それを聞いてしまう。
自分の知らない兄が突きつける、
『我らはこれより、女神を騙る者、ユーリスとの全面戦争を開始する!』
残酷なまでの、「現実」を。
空色少年物語