反転楽園紀行

034:歪みのはじまり

 耳を撫でる軽い音楽と波の音のようにも聞こえる人の声、空気に満ちたほろ苦い香り。
 意識を取り戻した俺は薄く目を開けて……自分が机のようなものに突っ伏しているのだと気づく。
 何かがおかしい。俺は確かに自分の部屋で寝て『楽園』に向かったはずで、こんな変な姿勢になっている理由がわからない。それに、顔を上げなくてもわかる。ここは俺の部屋じゃない。
 ゆっくりと鈍い痛みを訴える体を起こす。視界に飛び込んできたのはいつものカウンターと、食べかけになっていたケーキセット。カップの中の珈琲はまだ半分くらい残っている。
 そうだ、ここはいつも来ている喫茶店。顔を上げればマスターがちょっとだけ不安げな顔で俺を見下ろしていた。
「起きたか。珍しいな、完璧に寝てたぞ」
 確かにここで寝てしまうことは珍しくはない。ただ完璧に意識を手放したことは今までほとんどなくて、軽くうつらうつらするくらいだった。人の気配がすればすぐにでも飛び起きられる程度。俺、本当はそんなに眠りが深い方でもないし。
「……俺、どのくらい寝てました?」
「二時間ちょい? 声かけても起きないからどうしようかと思ったぜ」
 どういうことだ。
 現在時刻は一時に近い。つまり十時くらいにここに来て、普段どおりにケーキセットを頼んで、食い終わらないうちに眠りこけてしまったということになる。
 だが、俺にその記憶は無い。
 俺のこちらでの記憶はヒナに導かれるままベッドの上で眠ったところで終わっていて、その後は全て『楽園』での記憶。ルクスと会話して寝たところまでだ。そうして目を開けたら喫茶店? 意味がわからない。
 これはまさか夢遊病というやつか。寝ている間にふらふらと喫茶店にやってきたとか……それでわざわざ普段どおりにケーキセットを頼むとか、どれだけだよ。しかも、だ。
 俺の膝の上にはヘルメット。ポケットを探れば単車のキーだって入っている。俺は単車でここまで来ていたことになる。窓の外を見やれば当然見慣れた数世代前の単車が置いてあるわけで。
 ああもう、何なんだこの状況!
「何だ、寝ぼけてんのか?」
 マスターが慌てふためく俺を見ておかしそうに笑う。寝ぼけてなんていない、この異様な状況にただただ混乱しているのだ。とはいえマスターに聞いたって何もわからないだろう。マスターからすればきっと俺はいつも通りに単車でやってきていつもの席に座っていつものケーキセットを頼んだだけなのだから。
 そうだ、ヒナだ。ヒナに聞けばいい。今日の俺におかしなところがなかったか、ヒナになら聞ける。ヒナが近くにいるような気配はあるから、呼べばすぐ来るはずだ。だがここで聞くわけにはいかない。
 今日の喫茶店はいつになく賑わっている。このざわめきの中にいるのも辛くて、俺はケーキを腹につめこんですっかり冷たくなってしまった珈琲を飲み下す。
「ごちそうさまです、マスター」
「ああ。また来いよ」
 ケーキセット分の金を払って、席を立つ。マスターは誰かに呼ばれて「はいはい」と言ってそちらに行ってしまったから、俺はそのまま喫茶店を出ようとする。
 その時、背中に視線を感じた。
 向こうの『シン』に比べれば感覚器官は鈍感極まりない俺だが、誰かの視線を感じる能力だけは元より相当高い。周囲の視線を気にしすぎているだけ、と言われてはそれまでだが。
 恐る恐るそちらに顔を向けると、視線の主と目が合った。そいつは最近いつも同じ席に座っている髪の長い女だった。女は俺と目が合った瞬間に、にっこりと笑顔になって頭を下げてきやがった。
 知らない女だ。何度かここで見ただけで、名前も何者なのかも知らない。どんな声で喋るのかもわからない相手がどうして俺を見て頭を下げるのか、俺が知るはずもない。とはいえ頭を下げられてそれを無視するのもアレだから、軽く会釈を返して早足に店を出た。
 カウベルを鳴らして扉を開けると、清々しい春の風が鼻をくすぐる。とはいえ清々しい気分になれるはずもない俺は、単車の前まで来てから辺りを見渡す。ひとまず、誰もいないことを確認して小声でヒナを呼ぶ。
「ヒナ、いるんだろ」
「はい、ここにいます」
 ふわり、青空から降りてくるのはすっかりおなじみの桃色のワンピース。『楽園』ではしばらく見ていなかったが、こっちでは毎日見ているのだからおなじみと言っていいだろう。
 ヒナは普段と全く変わらない、綿菓子のような笑顔を浮かべて俺を見ている。ただ、すぐに俺の様子が変なことに気づいたのだろう、笑顔を消して訝しげな表情になる。
「あの、どうかしましたか?」
「それは俺が聞きてえよ。何で俺、ここにいるんだ」
「え? どういうことですか?」
 俺の言葉に驚くヒナ。やっぱり、ヒナもわかってないのか。
 とりあえず俺はかくかくしかじかとヒナに事情を話すことにした。俺は『楽園』から戻ってきたばかりで、目が覚めたら突然喫茶店にいたということ。ただ、マスターの言葉を信じるならば俺は普通に単車でここまで来て、いつも通りの行動をしていたということ。
 ヒナも不思議そうな顔をして俺をまじまじと見ている。
「今日はいつも通り『楽園』から戻ってきて、今日も喫茶店に行こうって言って準備してましたよ?」
「……いつも通り、か」
 わからない。ここに来るまでの記憶がすっぽりと抜けてしまっている。
 とにかく詳しい話は帰ってからにしよう、こんな所で突っ立っているとマスターにも怪しまれるかもしれない。
「ヒナ、後からついて来い。今日はこれで帰るから」
「わかりました」
 ヘルメットを被り、キーを挿して。俺は単車に跨って家への道を急ぐ。ものすごい速度で行き過ぎていく周囲の景色を視界の端に収めながら、何故こんなことになってしまったのかを考える。
 記憶が無いのだから、考えたってどうしようもないことではあったが。
 一体、俺に何が起こった?
 嫌な物が喉につっかえているような感覚に陥りながらも、安全運転で家の前まで辿りつく。さっさと車庫に単車を突っ込んで、玄関の鍵を開けようとして。
「あ、シン兄!」
 声をかけられて思わず振り向いてしまった。
 くそっ、普段なら無視してそのままやり過ごすところなのに、どうやら俺は相当まともな思考を失っているらしい。振り向いてしまったからには聞こえなかったフリも無為にして無意味。諦めて声をかけてきたそいつを見やる。
 そいつは、いわゆる「お隣の幼馴染」だ。使い古された設定でありながら未だ俺にとっては果てしない浪漫を秘めた「お隣の幼馴染」。しかも俺好みなことに年下だ。ただし、俺の浪漫を全力否定するかのごとく、こいつは男である。
 男の幼馴染なんて萌えねえよ。
 ここしばらく意図的に顔も合わせていなかったが、変わらないな、こいつは。俺がどんなに人を露骨に避けていても、こいつだけは空気を読まずに俺の顔を見れば話しかけてくる。しかも、満面の笑顔つきで。
 一言で言えば馬鹿、全てを語ろうとしても馬鹿の一言のみで片付く。ただ、そういう馬鹿な奴だってわかっている分、ちょっとだけ気が楽なのも確かではある。
「久しぶりー。元気してた?」
「あ、ああ……」
 ただ、気が楽なのと今の俺がまともな対応できるかってのはまた別の話。あからさまに目を逸らして、そいつのキラキラした目を出来る限り見ないように努める。
 今はお前の相手をしてる場合じゃねえんだ、他の事で頭が一杯なんだから後にしろ。そう思うけれど言葉には出せない辺り、俺のダメっぷりが露呈しまくりである。
「あー、そういや、何でお前こんな時間に?」
 学校は、と言おうとして俺は口を噤むハメになる。しまった。今日は何月何日だと思ってるんだよ、俺。案の定と言うか何というか、そいつは「あははは」と無邪気に笑ってやがる。
「シン兄、今日は三日だよ、学校休みだって」
 家族旅行でも行ってろお前は! こんな時間にふらふらしてんじゃねえ!
 自分を全力で棚に上げそう叫びたくなるのを無理やり押さえ込んで、その代わりに真面目に考えてみる。今日は五月三日、完璧に休日だ。それどころかこれから七日まで学生は休日が続く……昨日まではきっちり覚えていたはずだ。今だってしっかりその事実を認識している。
 ならば、俺が記憶を失っている間の行動も明らかに「変」だとわかる。
 ヒナは「いつも通り」だと言っていたが、本当は今日「いつも通りの行動」をする方がおかしいのだ。他の何を忘れても、カレンダーを忘れる俺じゃない。
 ――俺は、休日は絶対に外に出ない。
 わざわざクラスメイトと顔を合わせるような日に出かける理由が全く感じられないからな。だからこそ俺は平日の午前から下校時間前の間だけ単車を駆って外をほっつき回る生活を送っているんだ、それを破って外に出るなんて普段の俺らしくもない。
 なら、俺は何故外にいたんだ……変であることだけわかってもどうしようもないんだよ!
 一人脳内でじたばたしている俺なんか見えているはずもないそいつは、人懐こい笑みを浮かべて言った。
「そうそう、母さんがおはぎ作ってるから持ってくよ」
「何っ、おはぎ?」
 ちょっと真面目に考えていた意識が、その一言で一気に持っていかれる。おはぎ。それはとてつもなく甘美な響き。実際に甘いしな。
「シン兄、食べるよね?」
「それは……もちろん、つぶあんだよな」
「もちろん。うちの母さんが作るんだから」
 そう、俺がつぶあんをこよなく愛するのは、こいつの家のお袋さんが作るおはぎが美味だからだ。小さい頃から時々作ってくれるおはぎをご馳走になるのが楽しみだったが、それはこの年になっても変わらず。
 ああ、考えるだけで唾が出る。
「それじゃ、後で持ってくね」
「ああ」
 ぶんぶんと手を振るそいつに軽く手を振り返して、俺は背を向ける。何だか、マスターとヒナ以外の人間とまともに話したのは久しぶりだったかもしれない。まあ、ほとんど相槌だけだったし、今回はおはぎがあったからな。おはぎ、今から楽しみだ。
 玄関の扉を開けて、靴を脱いで。顔を上げるとお袋と目が合ってしまった。何だ、今日は奇妙な出来事があった上に人間と目が合う日なのか? 俺は無視してさっさと部屋へ向かいたかったが、あいつがおはぎを持ってくることくらいは伝えておくべきかもしれない。
 あいつが持ってきたところでお袋が買い物にでも出かけていたら、多分おはぎを食べられなくなるのは俺。流石にあいつが来たところで俺が出て行って玄関を開けてやる気にはなれんからな……
 うん、背に腹は代えられない。俺はふいとお袋から視線を逸らして、口の中で言う。
「後で、カツがおはぎ持ってくるって」
 言うだけ言って早足に階段を上る。お袋が何か言ってたような気がするが、それは意識の外に追い払う。伝えることは伝えたんだ、それでいい。早く部屋に戻って、ヒナと話をするのだ。別におはぎに気を取られて忘れていたわけじゃない。
 念のため、部屋の扉が開けられた形跡も確かめる。扉には俺以外の人間が出入りした際の目印となる紙がそのまま挟んであるから、出て行くときの俺はいつも通りにこれを仕掛けていったらしい。あまりに「いつも通り」すぎて不気味なくらいに。
 部屋の中に入っても、普段と何ら変わった様子はない。何か物が増えていたり、減っていたりするわけでもない。誰が見ているわけでもないのに布団や服をきちんと畳んであるのもいつもと変わらない。
 ひとまず、完全にオーバーヒートしちまった頭を冷やすためにも深呼吸。埃っぽい空気を吸い込んでしまって、ちょっと咽せた。
 それにしても、今日は人と話しすぎた。頭が微かに痛みを訴えている。向こうじゃこのくらいどうってことないのに、こっちでは人と目を合わせるだけで息苦しくなる。真綿で首を絞められるような感覚? それは何か別の比喩な気がするが、俺の実感としてはそんなもんだ。
 ただでさえ誰かに見られているような妄想を常に抱いている俺なんだ、実際に見られていると思うと本気で息が上がってくる。足元がぐらぐらして、自分がどこに立っているのかもわからなくなってくる。
 正直、こんな姿はテレサには見せられないな。笑い飛ばしてくれるならともかく、あいつにまで憐れむような目をされたら、今の俺の精神状態だと本気で首を吊りかねない。普段は自分の首を掻き切る勇気も無いダメ人間だが、テレサにそんな目を向けられた地点で俺の人生終わるという確信がある。
 ヒナの場合、初めっからダメなところを見られちまってるからな。恥ずかしいは恥ずかしいが、格好つける必要はない。
 数回深呼吸をしたところで、少し落ち着いてきた。大丈夫、俺の肺は正常に酸素を取り込み始めている。ベッドに腰掛けて、足を伸ばして。
「ヒナ」
「はいっ」
 待ってましたと言わんばかりの声が響き、ふわり、薄暗い部屋に桃色が生まれる。
 そういや、ヒナって俺が呼ぶまでは何処にいたんだろうか。例えば、今俺が呼ぶまでは喫茶店の駐車場で律儀に待ってたとか。ちょこんと駐車場に座って俺が呼ぶのを待っているヒナ……これはこれでかなり可愛い。萌える。
 じゃなくて、だ。
「悪い、今日の俺の様子を詳しく聞かせてもらえないか」
「はい……今日は九時頃に目を覚まして、廊下にあった朝ご飯を食べてから、わたしに『喫茶店に行く』と言って着替えて出かけたのです」
 それだけ聞けば、ごく当たり前の平日の行動だ。
「何か、変なこと言ったりしてなかったか。逆に、ものすごく無口だったりとかさ」
「いいえ。わたしは、いつものあなただと思いました。その、本当に覚えていないのですか?」
「覚えてないどころの話じゃねえよ。俺は『楽園』から戻ってきた瞬間にあそこで寝てたんだから。それに」
「それに?」
「俺が今日外に出るはずがねえ。俺の意識があったなら、そんな真似は絶対にしない」
 ヒナはその言葉を聞いて、ちょっと驚いたようだった。そういえばヒナには言ってなかったな、俺が休日は外に出ないってこと。
「それは、確かに不思議です」
「何か心当たりはないのか、例えば……考えたくねえが、誰かが俺の体を操ってるとかさ。『楽園』にいる間はこっちの体、空っぽなんだろ」
 実はそういう奴を見たことないわけじゃない。
 いわゆる「狐憑き」って珍しくはないからな。実際に取り付いているのは「狐」じゃないことの方が多いんだが、何か「目に見えないもの」が人の体を操っていたり乗っ取っていたりすることは十分ありえる。
 特に向こうに行っている間の俺は完全無防備。そういう連中にとってはカモじゃないか。
「でも、それならわたしがわかります。そういうことが無いように、わたしも見ていますし」
「あ……もしかして、お前が『楽園』にいないのはそういう理由もあるのか」
「はい。もちろん『楽園』でわたしの力が必要ならば、そちらに向かうですよ」
「いや、悪い、全然それは気づかなかったからさ。いつもありがとな」
 俺は元々そういう奴に相当魅入られやすい性質だからな、ヒナが見守っていてくれるのは正直ありがたい。
 だが、結局ヒナにもこの奇妙な現象の原因はわからないってことか。気持ち悪いが……今は諦めるしかないんだろうな。情報が少なすぎる。
「何かわかったらすぐに教えてくれ」
「はい、わかりました」
 ヒナも不安げな表情を浮かべながらもしっかりと頷いてくれる。それで少しだけ、暗く落ち込みがちだった心が軽くなる。一人で抱えなくていい、それだけでも楽になれるのだ。
 しばらくすると、チャイムの音と共にカツのやかましい声が響く。どうやらおはぎを持ってきたようだ。お袋と二、三言葉を交わしているがその内容まではこの部屋に届かない。別に、アイツが何を話しているかなんて気にはならなかったが。
「嬉しそうですね」
「まあな」
 溢れるおはぎに対する期待は隠せなかったらしい。俺はヒナに笑いかけてやってから、お袋がおはぎの皿を部屋の外に置いてくれるのを待った。
 この時ばかりは一瞬前までの不安なんか吹き飛んでいて、頭の中にはつぶあんおはぎの姿だけがあった。
 甘味の力は、偉大なのである。