「こちらの剣こそが、神が救国の英雄に授けたといわれる聖剣です」
波打つ赤銅色の髪を持つ、見目麗しい女性が白い手で「それ」を示す。周囲の人々の視線がその手の先に向けられ、一拍遅れてディスプレイの視界もまた、促された方に向いた。
剥き出しの地面が少しだけ盛り上がっており、そこに、一振りの剣が刺さっている。聖剣、というからには華美な装飾を施された剣を想像したが、案外どこにでもあるような、ごくごく単純なつくりの剣だった。ただし、柄の錆や腐食を見る限り長らく風雨に晒されているとわかるが、刀身は不思議と曇りひとつなく、鏡のようですらあった。
「英雄は悪魔と相打ちになりこの世を去りましたが、聖剣だけは、今もなおここに遺されているのです。不思議でしょう、長き時を経た今もなお、変わらぬ姿をしていますね。錆びることもなく、折れることもなく。何人もの研究者がその謎に挑みましたが、未だにその理由は明らかになっていません。英雄が持っていた力なのか、それとも元より聖剣が帯びていた力なのか」
もしくは、そのどちらも、なのかもしれませんね、と。笑顔で言う女性は、この地のガイド役であるらしい。人々の視線を受けながら、澱みない語りを続けている。それこそ、観光客相手に幾度となく繰り返してきた文句なのだろう。
「加えて、不思議なことに……」
その女性が、集った観光客の前で声を潜める。とっておきの秘密を語ろうとするかのように。
「悪魔を打倒した後、死にゆく英雄が地面に突き刺したこの剣、誰にも抜けなくなってしまったのです。多くの人がこの剣に挑みましたが、誰一人として、この剣を抜いたものはいません」
だからこの場所に遺されているのですがね、と。女性は言って、ぐるりと人々を見渡す。
「もしかすると、皆さんの中に、この剣を抜くことのできる、新たな英雄がいるのかもしれませんが。いかがでしょう、皆さん。ひとつ、試してみませんか?」
かくして、観光客たちは我先にと剣に群がる。自分がこの剣を抜く一人目になるのではないか? そんな、ちょっとした好奇の気持ちが、彼らを突き動かしているようだった。
ディスプレイの視点の主――『生きた探査機』Xは、ぱちぱちと瞬きをしながら、行列をなして、一人ずつ剣を抜こうとする観光客の様子を身じろぎもせず見つめているだけだったが。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
今回の『異界』は、『こちら側』と似た景色を見せていた。立ち並ぶ建物も、行き交う人々の姿も、道を走る車や遠くに見える電車の様子も、『こちら側』とそう大きくは変わらない。強いて言えば、我々にとって見慣れた土地ではなく、西洋のどこか――特定のどこかではなく、「一般的に日本人がイメージする『西洋』の街並み」そのもの、といった印象ではあったが。
そのような場所に降り立ったXが、浮いていなかったといえば嘘になる。着古したトレーナーにズボン姿、裸足にサンダルをつっかけただけで、荷物らしきものも何一つ持たない中年男性だ。それでも、多少怪訝そうな顔を向けられる程度で、完全な不審者とみなされなかったのは幸いといえよう。潜航する『異界』によっては、降り立った直後に警察をはじめとしたその地の治安維持機関に目を付けられ、逮捕されることも一度や二度ではなかったから。
そうして、しばし街中を彷徨った後にXが目を留めたのは、ぺちゃくちゃと喋りながら同じ方向に向かって歩く集団であった。話を盗み聞く限り、他の土地からこの都市にやってきた観光客の一団であるらしく、Xはその集団に素知らぬ顔で混ざりこむことで、自然とこの土地を知る機会を得たのだった。
我々が『異界』のXと交信することは不可能なので、これはどこまでも「 『異界』を知るために最適と考えられる行動を取れ」と命じられているXの判断だ。いつものことながら、Xの『異界』における行動力には舌を巻く。妙な思い切りのよさ、と言い換えてもいいが。
観光客たちの話によれば、この街は遠い昔、悪魔と呼ばれる存在に脅かされていたそうだ。病を流行らせ、人の心を操り相争わせて、その様子を高みから眺めて嘲笑するもの。まさしく「悪魔」という呼び名が相応しい存在といえよう。私が聞きとれる言葉はあくまで「Xの認識を通して訳された言葉」でしかないので、Xの無意識が『異界』の言葉をそう解釈したもの、という但し書きからは逃れられないのだが。
そんな、悪魔のもたらした長き暗黒時代を経て、神から聖なる剣を与えられた青年が悪魔を打倒し、この街には平和がもたらされた、という伝説。
どうやら、観光客たちは、その伝説にまつわる土地を巡っているようだった。
悪魔の足跡が刻まれる石畳を展示している博物館に、かつて人々が身を寄せ合って悪魔から身を守ろうとした教会の跡地。英雄の生家、と言い伝えられている場所は何故か三ヶ所もあった。
悪魔と英雄の伝説はもはやこの街にとっては遠い昔の出来事であり、立派な観光資源であり、言い伝えの陰惨さに反してそれを語る人々は商魂たくましいというか何というか、観光客たちに伝説にまつわる土産物を買わせようとあの手この手で迫ってくるのだった。
とはいえ、ろくに金銭を持っていなさそうな――実際持っていないXに話を持ち掛けてくる者は、ほとんどいなかったわけだが。
そして、観光客たちの最後の目的地こそが、聖剣そのものが遺された丘だった、というわけだ。
ガイド役の女性に促されるままに、今にも崩れてしまいそうな柄を握り、剣を抜こうとする観光客たちだったが、その誰もが剣を抜くことができなかった。確かに硬そうな地面ではあるが、しかし、無造作に刺さっているように見える剣。傍目には、いつ抜け落ちて倒れてしまってもおかしくないと思えるのだが、今に至るまで誰ひとり抜いたことがない、という女性の言葉に違わず、誰の手も拒み、その場に立ち続けているのだった。
観光客たちはそれが自分の手に負えないとわかると、肩を竦めたり首を振ったりしながら、来た道を引き返していく。
やがて、その場には、ガイド役の女性とXだけが残された。
女性は切れ長の目を細めて、Xに向けて言う。
「あなたも、どうぞ?」
Xの視線が、女性の示す手を追って、その先の剣に向けられる。しかし、彼の手が剣の柄に伸ばされることはなく、代わりに女性の顔をひたと見つめて言う。
「その前に、ひとつ、いいですか」
低い声。言葉を一つ一つ選びながらの、独特のテンポの語り口。女性はここで質問を投げかけられるとは思っていなかったのか、驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに笑顔を取り戻して「どうぞ」とXの言葉を促す。
Xは女性の顔を真っ直ぐに見据える。対象を観測する、という目的もあるだろうが、そもそもXという人物は人と喋る時に目を逸らすということをほとんどしない。私や他の研究員に対してもそうなのだから、彼の癖のようなものなのだろう。
穴が開くのではないか、とこちらが不安になるくらいの凝視とともに、Xはいたって普段通りの調子で言う。
「不思議な影ですね。剣も、あなたも」
……影?
今まで気づいていなかったが、日は随分傾いていて、うっすら赤みを帯びた空に沈みゆこうとしている。その光を受けた女性と、その傍らの剣の影は、確かにXの言うとおり、X自身の落とす影とはまるで異なる形をしていた。女性の影は無数に枝分かれした樹のようであり、その樹の中心、太い幹に当たる部分を、光源の位置からは考えられない方向に落ちた剣の影が穿っている、ような――。
この『異界』の人々が皆このような奇妙な影をしていたかといえば、そうではない、はずだ。私はここに至るまで地面に落ちる影には注目していなかったが、それでも道行く人や共に行動した観光客たちに違和感を覚えることはなかったし、Xもそうであったからこそ、指摘しているに違いなかった。
女性はXの言葉に対して、「そうですか?」と首を傾げるだった。その輪郭とはまるで異なる影を揺らしながら。
「そういえば」
ぽつり、と、Xの声が落とされる。このディスプレイに映るのがどこまでも「Xの視界」である以上、『異界』におけるX自身の姿を知ることは難しい。もちろん、今、言葉を選んでいるXがどんな表情を浮かべているのかも。
ただ、想像をすることはできる。普段の研究室での態度や、今までの『異界』における彼の言動から。
きっと、隙だらけに見えて思考や感情が極めて読み取りづらい、「いつもの」ぼんやり顔でいるのだろう、ということくらいは。
「ここに、来るまでに、博物館に寄ったのですが。かつて、この街を脅かした『悪魔』と呼ばれていたものは、まるで、大樹のような姿をしていた、ということですね」
――まさしく、あなたの足元の、影のように。
その言葉の調子もまた、あまりにもいつも通りであったので、それが「追及」なのか「単なる世間話」なのかも判然としなかった。
それでも、目の前の女性が見た目通りのものでないのは間違いなさそうだ。Xの言葉に、女性の笑みが、色を変えたから。観光客を前にしたガイド役らしい明るい笑みから、どこか、ほの暗さと妖艶さを帯びたそれに。
「よく見ていますね。なかなかいないんですよ、気づく方」
「よく見ることが、仕事、なので」
確かに観測を命じているのはこちらだが、Xの観察力の高さについては、あくまでX自身の才覚だ。違和感を目ざとく見つけ、それが危険を伴っているなら回避する、という行動が取れるからこそ、Xは数多の『異界』を経てなお、本来は「使い捨て」の想定であった異界潜航サンプルを生きて続けている。
かくして、Xはなおも女性に向けて語り掛ける。
「ガイド、楽しいですか?」
「楽しいですよ、結構。……この場から離れられないことを除けば」
この剣、なかなかしつこいんですよ、と女性が溜息をつく。地面に落ちた大樹の影が剣の影に縫い留められているように見えるが、実際にはこの女性自身もまた、見えない力によって剣に縫い留められているのかもしれなかった。
「ですから、これ、抜いてほしくて、色んな人に頼んでいるんですよ。私ではどうしても抜けなくて」
「なるほど」
なるほど、とは言ったがXはその場に立ち尽くしたまま、剣に手を伸ばそうとはしない。その様子を見た女性が軽く肩を竦めてみせる。
「つれないですね」
「私に抜けたとして、いいことも、なさそうなので」
「もし、あなたが抜いてくれるなら、いくらでもお願いを聞きますよ。今は随分弱ってしまいましたが、それでもあなたのお願いを聞き届けるくらいなら」
「ありがたいお言葉ですが、今は、叶えたいと願うことも特にありませんので」
「たまーにそういう人、いるんですけど。無欲って、別に美徳でもなんでもないと思うんですよね、私」
「同感です。欲することがなければ、変化も発展もありえませんから」
「それでも、『あなたには』ないんですね、願うことが」
「そうですね」
身をすり寄せてくる女性に対し、Xはどこまでも淡々としていた。話をしている間、表情だってろくに変わっていなかったに違いない。
「それに、仮に叶えてほしい願いがあったとしても」
Xは少しだけ、言葉を選ぶような間をおいて。
「あなたに頼みたいとは、思いません、ので」
数々の惨劇を引き起こした悪魔だとわかった以上、手助けをする理由も義理もない、ということだ。
Xは、私から見る限り極めて善良な部類に属する人物である。人に手を差し伸べることをよしとし、害するものを強く憎む。時折、どうして死刑を宣告されるまでの罪を犯したのか不思議に思うくらいには、「真っ当」な感覚の持ち主といえる。
女性はやれやれとばかりにもう一つ溜息をついて、首を横に振る。
「抜けるかどうか試すくらいいいじゃないですか。どうせ、誰にも抜けないんですから」
「誰にも、ですか」
確かに、女性が「誰にも抜けない」と言い切るのには、不思議な心地がした。ガイド役を装い、観光客に剣を抜かせようとしている一方で、抜けないものだとはっきり言う。その心理には興味がある。
「これは、先ほどもお話した通り、くそったれな神が、あの男――今は『英雄』って呼ばれる人物に与えたものでしてね。あの男の手でないと、扱えないようにできているんです」
「しかし、その人物は、悪魔と相打ちになったと」
「正確には、命がけで私を封印したってところですね。私、神から力を与えられているとはいっても、ただの人間に滅ぼされるほど脆くはありませんので」
そこまで言って、女性のしらじらとした指が、今にも崩れ落ちそうな剣の柄に触れる。
「でも、いい線ではありました。それに、あの、ひたむきな様子はとても好ましくて、それこそ、あの男のお願いならいくらでも叶えてやってもいいかな、と思っているんですよ。今はね」
「……だから、『剣を抜いた人物の願いを叶える』と?」
「そう、抜けるはずがないんです、もういないあの男以外には」
女性が視線を遠くに向ける。もちろん、その視線を追ったところで何があるわけでもない。あるとすれば、きっと、彼女の中にある「あの男」――聖なる剣を手にした、彼女自身が命を奪ったはずの英雄にまつわる記憶なのだろう。
果たして、遠い日の英雄は、どのような人物だったのだろう?
そして、この女性にとって、かの英雄はどのような存在だったのだろう?
気にならないと言えば、嘘になるが――。
女性の目が、赤く染まりゆく空から、Xに戻されて。
「そんなわけで、ひとつ、試しにどうですか?」
「試しませんよ」
「ちぇー」
無名夜行