霧世界報告

過去から未来への

「んあー、全っ然思いつかねー!」
 ゲイル・ウインドワードが山吹色の頭をがりがりと掻きながら談話室のテーブルに向き合っていた。その目の前には紙と万年筆。どうにも似つかわしくない取り合わせに、ジーン――ユージーン・ネヴィルは不思議に思う。
 手元を覗き込むジーンに気づいたゲイルは、ぱっと顔を上げてうめき声を上げる。
「なあジーン、いっそもうお前が書いてくれよー」
「一体何を書こうとしているんだ?」
 同期であり、友でもある男が困っているのだ、ものによっては手を貸すこともやぶさかではないと思ったのだが、ゲイルはいたって元気にのたまうのだ。
「遺書!」
「それは流石に他人が手を出すものではないな……」
 ――遺書。
 それは、霧航士ミストノートにとってはどうしても避けては通れないものだ。何せ霧航士ミストノートの寿命は短く、しかもその死がいつ訪れるのかもわからない。言ってしまえば、明日には海に溶けて消えていてもおかしくないのが霧航士ミストノートだ。
 そのために、霧航士ミストノートは生きているうちに遺書を認めておく決まりになっている。生前の意向を明白に記しておくことは、死後に起こりうる面倒を避けるのに有効だ。
 とはいえ。
「だってさあ、俺様が死んだ後のことなんて、さっぱりだもんよ」
 ゲイルは突き出した唇の上に万年筆を乗せる。
 もちろん、ゲイルの言いたいこともわかる、とジーンは思う。明日死ぬかもしれない身ではあるが、己の死とそれに伴う影響を明確にイメージできているかというと、ジーンとてそんなことはない。時折死について思いを馳せることはあっても、それが現実に起こるということを実感できているとは言いがたい。
 器用にも唇の上に乗せた万年筆を落とすことなく、ゲイルは言う。
「そもそも俺は死ぬ気なんてさらさらねーし?」
「そりゃ、お前が簡単に死ぬとは思えないけどな」
 そう言ったのは、ゲイルの横で難しい顔をしていたゲイルの相棒、オズ――オズワルド・フォーサイスであった。オズは長い睫に縁取られた紫水晶アメジスト色の目を伏せ気味にして、深々と息をつく。
「それでも不測の事態ってのはあり得るだろ」
「でも俺様が死んじまったら、その後なんて知ったこっちゃねーしさあ」
 ゲイルは唇を尖らせたままずるずると椅子に沈み込む。オズは呆れ果てたという調子でジーンの方に目を向けて肩をすくめる。
「さっきからずっとこうなんだ。一文字も進みゃしない」
 確かにゲイルの前にある紙は真っ白で、文字のひとつも書かれていない。
「俺だってさっきからオズに助けてくれー、って言ってるのにさあ」
「なんで俺がお前の死後まで手取り足取り考えてやらなきゃならないんだ」
「ってさあ」
「まあ正論だな」
 あくまでそれはゲイルの問題であって、オズの問題ではない。その上で、手を貸す気はなくてもこうして横についているあたりは、どうにもゲイルを放っておけないオズの性質のようなものだろう。ジーンは少しばかりうらやましく思う。
「そもそも、遺書って何書けばいいんだ? オズ、お前何書いたの?」
 ゲイルはオズを見上げて問いかける。オズは「それ、人に聞くか?」と眉根を寄せながらも白い紙に視線を落として言う。
「主に父さんと母さん宛の内容だよ。親不孝な息子ですみませんってな」
 それがどこまで真実かはジーンにはわからないが、オズが両親を大切にしているのは知っている。そのくらいのことは書いておかしくないだろう、と思う。一方、ゲイルは万年筆を手に取り直し、しかし首をぶんぶん横に振る。
「参考にならねーなあ、親父が生きてりゃ親父に宛てたんだろうけどさあ」
 ゲイルの父はゲイルが候補生の頃に病で亡くなったと聞いている。その上で母を早くに亡くし、親戚とも没交渉であるらしいゲイルは、今や天涯孤独ということになる。確かに遺書を宛てる相手に困るのもわからなくもない。ジーンもまた「宛てるべき者がいない」という意味では同じであったから。
「ジーンはどうなの?」
「私は任務で得た報酬を寄付してほしい旨を書いている。私のしてきたことが、少しでもこの国の未来に役立てられるなら幸いだ」
「なるほど?」
 わかったのかわかっていないのか、ゲイルはこくんと首を傾げる。オズは「流石にジーンはしっかりしてるな」と微かに笑って言う。
「どうあれ、遺したいものを書けばいいってことだ。自分がいなくなっても大丈夫なように。……もちろん、絶対に大丈夫なんてことは、あり得ないんだろうけどな」
 オズの言葉に、ジーンも頷きで返す。結局のところ、まだ二十年程度しか生きてきていない自分たちが、「いなくなってから」のことを、「遺したいもの」を想像するのが難しいのは間違いないのだ。
「いなくなって、遺したいもの、なあ……」
 ゲイルの視線が中空を彷徨う。そこに、何かを探すように。
 実際に、探しているのだろう。自分がここにいなくなってから、遺しておきたいものを。
 やがて、ゲイルは姿勢を正し、手を動かし始めた。一体何を書こうとしているのか、ジーンは流石にその手元を見てはいなかったから、わからない。ただ、ゲイルはいたって真剣な表情で紙に向き合い、ものすごい速度で万年筆を走らせていた。
 ゲイルが手を動かし始めてやっと安堵したのか、オズが腰を浮かせて言う。
「紅茶、淹れようか」
「ああ、ありがとう」