診療所のシャッターを下ろした後、トルクアレトは二つのシャーレを用意し、双方に血液を一滴ずつ落とす。今日の患者から採取したそれは、一見ただの血液だが。
一つのシャーレには、別の患者の血を一滴垂らす。特に反応はなく、二つの血液が混ざりあっただけに見える。少なくとも、肉眼では。
そして、もう一つのシャーレには、ラベルのない採血管から一滴。すると、二つの血液が接触した箇所から見る間に凝結していく。
「病名は明らかだけど」
――何を飲んでも、妙に喉が渇くんだ。
困り顔で訴える患者の顔を思い浮かべ、二人分の血液の塊だけが残されたシャーレを揺らして、溜息一つ。
「どう伝えるべきかが、悩ましいわね」
01/22 - 諧謔
「おいトルクアレトよ、まぁた子供泣かせてんじゃねえか。今度は何言ったんだ?」
外で母親にあやされる子供を見かけた
「ちょっと冗談を言っただけよ? 気分が楽になるかと思って」
この生真面目の塊に見える医師が意外と諧謔を好むということは、弓張も長年付き合ってきてやっとわかってきたことだが――。
「お前さんは、まず愛想を学ぶとこから始めたらどうだ? 冗談が冗談に聞こえねえんだわ」
弓張の言葉に、トルクアレトは仏頂面を見せる。それが「解せぬ」を意味することだけは、弓張にもはっきり伝わった。
01/23 - 寂寥
「こんにちは、チアキさん。お手紙ありがとうございます。お部屋から見える景色のお話、とても興味を引かれました」
「私の部屋から海は見えないので、同じ
窓の外はちょうど、老朽化が進んだ近所の建築物が解体されたところで、妙に寂寥としている、と綴ってから、一つ付け加える。
「けれど、この寂しい感じは、嫌いではありません」
01/24 - 軋む
関節を軋ませて、器具を載せた四足のロボットが廊下を行く。彼女は、トルクアレトが診療所の主となる前からここで働く最古参だという。
「つまり、ジグを作ったレイさんは、ドクターより前から診療所に出入りしていたのですね」
「そう。レイはアタシから見ると兄弟子でね」
思わぬ言葉に驚く
「あいつは技術屋だけど、師匠から医術を学んでたらしいの。アタシがここで働き始めた頃、あいつは〈市中〉に出てたから、一緒に教わったわけじゃないけど」
ジグだけが、兄弟子の気配としてトルクアレトに寄り添っていたわけだ。語らう二人の傍らで、ジグは普段通りに朝の準備を続ける。
01/25 - 覚醒
次の瞬間、意識がふっと浮かび上がり、覚醒と同時に上体を跳ね起こす。我に返れば、そこは常夜灯を点しただけの、薄暗い自室。
「っ、あー……」
自分の声を確かめる。大丈夫、己の声は聞こえている。視界が酷くぼやけているのは、眼鏡を外しているからだ。焼け付くような感触は既に遠く、あれは悪い夢に過ぎない、と己に言い聞かせる。
汗を吸った夜着が肌に張り付いて気持ち悪い。シャワーを浴びて、乾いた服を着よう。
サイドテーブルの眼鏡を手探りでかけるついでに、額に滲む脂汗を拭い、ぽつりと呟く。
「いつになったら、忘れられるのかしら」
01/26 - 輪郭
「変わらぬものなどありません。変わってはいけないものもありません」
モノレールの広告スペースに浮かぶホログラム。完璧な輪郭、波打つ金髪、若葉色の双眸。市内で、御伽話の王子様を思わせる彼を目にしない日は無い。
「あなたが変わりたいと望むなら、我々『白雨バイオテクノロジーズ』はその力となりましょう」
美容医療に若返り、遺伝子編集に脳機能拡張。その意志と、意志に見合う金さえあれば如何様にも「変えて」くれる、それが白雨バイオテクノロジーズ。
春宵燈は考える。仮にその機会が訪れたとき、自分は彼の手を取るだろうか。変わりたい、と思うことは幾度もある、けれど。答えは出ないまま、家の最寄り駅で扉が開く。
01/27 - 邂逅
「レイが来てたらしいな」
長らく〈潮溜まり〉を離れていたレイが再び現れた、とは弓張も聞き及んでいたが、診療所を訪れたという話は初耳だった。主が交代した診療所に用も無いと思っていたのだが。
「
「怪我でもしてたのか」
「守秘義務を行使するわ」
トルクアレトの顔は冴えない。正規の医師でない以上、義務を守る必要もない。つまり「言いたくない」という意味でしかなく。
「もしかして、ケツに入れたオモチャが取れなくて泣きついてきたか?」
「え、常習犯?」
トルクアレトの言葉は明白な肯定だ。お互い診療所に縁があるといえ嫌な邂逅もあったもんだ、と弓張は深々と溜息をつく。
01/28 - 羨望
羨ましい、と、レイは口癖のように言っていた。
「トウマとオレのツラを取っ替えられたらいいのに」
当然、顔を取り替えるなんて幻想にすぎない。だが、レイは今やかつての面影を残さぬ美貌で、それでいて変わらぬ意欲を胸に〈市中〉に挑み続けている。
今日もまた「白雨バイオテクノロジーズ」のニュースが拡張視界の隅に流れてくる。レイこと
「もう、羨ましいとも言わねえだろうな、お前は」
レイは己の手で羨望を理想へと昇華した。だが、自分はどうだ。弓張は紙巻煙草に火をつける。
――本当に羨んでいるのは、どちらだろうな?
01/29 - 席捲
今や知らぬ者のない新星、幽戸涼夏と「
「まあ、そう上手くはいきませんね」
中空に映るのは〈市中〉の企業規模と評価の一覧。白雨は新興企業としては目覚ましい成長を遂げているが、市に古くから根付く企業にはまるで及ばない。
何なら、勢いは衰えている。幽戸が攻め手を緩めたのではない、単に都市が慣れたのだ。新星の驚きは、長くは続かない。
しかし、秘書はディスプレイに照らされる代表の横顔に戦慄する。
「勝負どころです。こうでないと面白くない」
幽戸は、笑っていた。うっとり夢見るように、舌なめずりする獣の顔で。
01/30 - 炯炯
市場通りから一本奥に入ると、万年朝顔に覆われた雑居ビルがある。それがスティンガー診療所、〈潮溜まり〉でも数少ない「医者」の住処だ。
正規の資格を持たない闇医者だが、どんな奴でも受け入れるって話だ。乳飲み子から臑に傷ある奴まで、人種も立場も問わず、そいつの前では等しく患者だ。
――ただし、くれぐれも気を許すなよ。
かの医者は捕食者だ。眼鏡の下で炯炯と光る目を直視するな。血が通っていると思えぬ無感情なツラは、人間を真似た「何か」に他ならない。
「……って根も葉もない噂が流れてるらしいんだけど、どう思う、綾瀬さん?」
「弓張さんやレイさんじゃないですが、ドクターはまず笑顔の練習をすべきかと」
01/31 - 終焉
〈蜃気楼閣〉の歴史は〈潮溜まり〉から始まる、と綾瀬は言った。
「ここは元来、海上に潮璃市を建造するため、本土から派遣された工事関係者の一時居住区でした。都市完成の暁には撤収の後に再開発される予定でしたが、建造まで年月を要したこともあり、根付いた住民が立ち退きを拒否し、今に至ります」
二人同時に「へえ」と感心の声を上げるトルクアレトとレイに、綾瀬は呆れを隠せない。
「ドクターもレイさんも、ここのこと何も知らないのですね」
「 〈潮溜まり〉のこと教わる機会なかったし」
「現地生まれでも、歴史なんて教わりませんよ。知らなくても生きてけますし」
現に〈潮溜まり〉は、未だ、終焉を迎えぬままここにある。