老舗セキュリティ企業の大規模情報漏洩。市政の機密データに上書きされた草花のスケッチ。市内総合レイヤーがジャックされ、全市民の視界が色とりどりの花で埋め尽くされたこともある。
事件の存在は明らかでありながら、関係者の誰もが口を噤み詳細を語らない。
その結果〈蜃気楼閣〉には「リンネ」という天才ハッカーがいる、という噂だけが一人歩きしている、とレイは語る。
「で、今挙げた犯罪のうち、どっからどこまでお前の仕業だ?」
「そいつを語ったら都市伝説として片手落ちです。わかんないままの方がいいことってありますぜ?」
警察の前でも決して「やっていない」とは言わない幼馴染に、
01/12 - 揺曳
「弓張さん、アタシにも一本いただける?」
「医者のくせに体に悪いもんを欲しがるな」
「医者ってのは、総じて不養生なものよ」
何一つ説得力のないことを言うトルクアレトに、くしゃくしゃの箱から取り出した紙巻煙草をライターと共に差し出す。トルクアレトは、弓張の黒手袋に触れることもなく、器用に煙草とライターだけを取り上げてみせた。
「まだ、そっちは痛む?」
眼鏡越しの視線が、煙草を差し出した手とは逆側の肩に向けられる。朝焼け色の瞳に宿る罪悪感の色に気づきながら、弓張はあえて正直に答える。
「たまにな」
そう、とだけ応え、トルクアレトも煙草に火をつける。朝の〈蜃気楼閣〉に、二筋の紫煙が揺曳する。
01/13 - 乖離
「どうして本物のお嬢様が、闇医者の助手なんてやってんです?」
レイは、いつだってずけずけものを言う。診療所に出入りするこの自称天才技術屋を
「どうしてあなたのような今をときめく企業代表が、こんな場所で油を売ってるんですか?」
「オレはこっちがホームですから? アヤセちゃんと違ってね」
それが嘘でないことは、綾瀬も知っている。そして、綾瀬にとってここが「ホーム」でないのも、また事実。
事実、ではあるが。
「私は、ホームの方が居心地が悪かったんです」
自分自身が周囲から乖離していると気づいてしまった。ただ、それだけ。
01/14 - 隠微
「また出たって、リンネ」
「本当にどこにでも出てくるんだ」
「あたしたちもリンネに見られてたりするのかな」
「手振ったらどっかで振り返してくれたりして?」
姦しいクラスメイトの声を聞きながら、こちらを覗くのは別にリンネに限ったことでもないだろう、と
この都市の隠微な働きを、日頃から意識することは難しい。授業開始のチャイムを聞きながら、今この瞬間、己の何がどこに記録されているのだろう、ととりとめもなく考える。
01/15 - 残滓
上に報告することもできた。あるいは、その辺に捨て置くことだって。どちらを選んだところで、弓張は責められやしなかっただろう。
だから、「どうして」とばかりにこちらに向けられた双眸に、何と声をかけるべきかわからずにいた。
気まぐれ、というつもりはなく、さりとて明確な展望があるわけでも無い。その中で、あえて、言葉を選ぶとしたら。
「お前さんは、まだ、生きてるだろ」
単に命があるというだけではなく、弓張を見上げて揺れる瞳に、魂が宿っていると、気づいてしまったから。
それが、かろうじて肉体にこびりつく残滓に過ぎないとしても。
「これからも、生きろ」
望みを押しつけずには、いられなかったのだ。
01/16 - 氷解
「社を立ち上げた理由、ですか?」
「白雨バイオテクノロジーズ」代表の
「代表としての回答は聞き飽きたでしょうし、個人的な理由を語っても?」
「もちろんです」
インタビュアーは目を輝かせる。自社技術からなる美少年の姿形と、〈潮溜まり〉出の成り上がりという情報が一人歩きするばかりの彼の本音が聞けるとあらば――。期待で身を乗り出せば、幽戸が淡く色づいた唇を開く。
「絢爛な〈蜃気楼閣〉には今日も謎と疑念と思惑とが絡み合い、氷解など夢のまた夢」
都市を見渡す窓を背に、妖精じみた美貌に浮かぶ、獰猛な笑み。
「故にこそ、私は、都市に挑戦したい。白雨はその足掛かりですよ」
01/17 - 蠱惑
「トルク先生じゃん。こんな夜更けに往診?」
大胆に肌を晒す赤毛の女に、トルクアレトは「ええ、今から帰るけど」と返しヘルメットをかぶる。
診療所に足を運べぬ患者を診ることもトルクアレトの大事な仕事で、骨董品同然の原動機付自転車は往診の強い味方だ。
「ねーえ、今度はお店にも寄ってよ、せんせ?」
蠱惑的に身を寄せる女に、トルクアレトは仏頂面で手をひらひらさせる。
「はいはい、気が向いたらね」
「もう、一度も気が向いたことなんてないでしょ」
頬を膨らませる女を引き剥がし、原付に跨がる。
かくして、頼りないエンジン音だけを引き連れ、トルクアレトは一人、誘いの声が絶えない〈潮溜まり〉の夜を行く。
01/18 - 伏流
「これがリンネの花か」
一輪の雛菊が拡張視界に浮かぶ。見た目こそ可憐だが、潮璃の通信網を蝕み、企業や市が築く防壁を食い破る、生きた都市伝説リンネによる自律思考型ウイルス。
だが、データを一瞥し、スーツ姿の男は鼻を鳴らす。
「この程度のAIに防壁を食われる方が悪い」
「目に見えるものが全てではないよ」
傍らの女が指を伸ばせば花は枯れ落ち、落ちた種が芽吹き、新たな花を咲かせる。更に枯れ、咲き、見る間に部屋が花で満たされる。しかも、どの花も同じではない、と気づいた男の額に汗が伝う。
「花は、枯れる度により適した形に輪廻する。今も」
街のどこかで、伏流のごとく、リンネの庭園は拡張を続けている。
01/19 - 脆弱
「最近、動きが鈍いですね」
綾瀬の言葉に「そうですか?」とジグが平たい背中を傾ける。診療所で働く四足歩行のロボットは、レイの作品らしいが。
「そうなのよ。変な電波拾ったかしら」
「ウイルスに感染した可能性も……」
すると、突如、ジグのスピーカーからジグ以外の声が飛び出す。
『黙って聞いてりゃ、オレがんな脆弱性を見逃してるとお思いで!?』
「盗聴が犯罪ってご存じない奴に言われたかないわ」
トルクアレトの言葉に、こちらの音声はジグを通してレイに筒抜けなのか、と気づく。甘んじて受け入れるトルクアレトもどうかと思うが。
かくして、ジグは遠隔でパッチを当てられて復帰した。異常の原因は謎のままだ。
01/20 - 焦燥
〈紅喰い〉の被害者は増える一方だ。
人を襲い血を啜る怪物が跋扈している以上、ただ暮らしているだけでも危険を伴う。焦燥を隠せず、弓張の指がせわしなく机を叩く。
「確かなのは、こいつとは別の〈紅喰い〉がいる、ってことだけか」
せめて話ができればな、と、強化硝子越しに弓張の血を啜った怪物を見やる。
こちらの声は届かず、唇から漏れるのは意味を成さない呻きばかり。弓張から引き剥がし、捕縛した時から既にこうだった、と部下は語る。
留置場の隅に蹲る、虚ろな目の〈紅喰い〉から有益な情報を聞けるとは思えない、が。
「見た目だけなら俺らと変わらねえのに」
怪物と呼ぶには人間すぎる〈紅喰い〉は、応えない。