アサノから借りたCDを、プレイヤーに差し込む。
モーリス・ラヴェルのピアノ曲集。ラヴェルといえば『ボレロ』や『水の戯れ』、『亡き王女のためのパヴァーヌ』などが有名だが、この曲集に含まれるのはアサノがこよなく愛する組曲『クープランの墓』、そして……組曲『鏡』。
柔らかな、しかし技巧を凝らしたピアノの音色が部屋の中に響き始めたところで、来客を告げるベルが鳴る。
「どうぞお入りください、タナカさん」
扉を開き、招き入れたのは灰色のスーツの男……田中文規。田中は「失礼します」と丁寧に頭を下げて事務所に入ってきた。肩から提げた大きなボストンバッグが相変わらず不釣合いだ。
秋谷は田中にソファを勧め、自分もソファに腰掛ける。ちょうどそのタイミングでアサノが奥からやってきて、二人分の茶と茶菓子をテーブルの上に並べた。
「お茶どうぞっすー」
「ああ、アサノさん。ありがとうございます」
アサノと一度話したという田中は、にこやかにアサノに礼を言った。アサノも気の抜けた笑顔でそれに応じている。アサノにとって、田中は警戒に値しない相手であるらしい。
アサノは常々己のことを「大したことのない」と称するが、アサノが持つ、無意識に対象の本質を見定める才覚に関しては、秋谷も一目置いている。それは自己と他者の境界線を軽々越えてしまう歪曲視としての能力に由来しているのか、それとも他者に容易に踏み込ませないための防衛策であるのか。それは秋谷にはわからない。アサノ自身にもよくわかっていないはずだ。
ともあれ、アサノが警戒しないということは、田中がアサノから見て「危険」に分類される相手ではないということである。そして秋谷も、田中がこの場にいる秋谷とアサノに危害を加えることは決して無いと確信していた。
田中は銀縁眼鏡を左手の人差し指で押し上げて、秋谷を真っ直ぐに見据えてきた。
「それで……ハセガワ・コズエについてですが」
「ええ、今まで報告したものも含め、こちらに纏めています。どうぞお持ちください。ただし情報の扱いにはお気をつけください」
秋谷は調査結果の封筒を田中に差し出す。田中はその中身を取り出して、ゆっくりと目を通し始める。そこに今まで浮かべていた柔和な表情はなく、資料を見つめている間は徹底した無表情であった。それに、田中自身が気づいているかどうかはわからなかったが。
田中の、資料を繰る手が半分ほどまで達した時、秋谷は小声で言った。
「と言っても、タナカさんが本当に知りたいことは、そこには書いていないと思いますが」
「え……?」
田中は呆然と視線を上げる。秋谷の言っていることが全くわからなかった、という表情だ。秋谷はそんな田中の戸惑いを飲み込んだ上で淡々と語る。
「ここに書いてあるのは、探偵としての私が、事実として裏付けを取った内容ばかりですから。私の推測や、私の目に見えていないものは何一つ書いていない」
田中の目が、銀縁眼鏡の下で細められたのがわかった。秋谷の言わんとしていることを即座に理解したらしい。流石に異能府の代行者を名乗るだけはある、秋谷と自分が「どういう位置」に立っているのかをよくよく把握している。
「なるほど。この調査結果は、あくまで『常識』の範囲でしかない、ということですね」
「その通りですよ。もちろんあなたが望むのであれば、あなた方が『チェシャー・キャット』と呼ぶ私から、代行者であり異能であるあなた……『アラン・スミシー』に向けた、推測と妄想に満ちた戯言を語ることもできます。それでよければ、耳を傾けてみますか?」
チェシャー・キャット。不思議の国に迷い込んだアリスを惑わせ、時に導く極彩色の猫。誰が自分をそう呼び始めたのか、秋谷は知らない。しかし、なかなかに面白い表現ではないか。非日常の世界に迷い込んだ迷い子に、夢とも現とも知れぬ「超常の理」を語る三流探偵にはぴったりだ。
田中は、秋谷の言葉に対し、一抹の迷いもなく頷いた。
「戯言でも構いません。聞かせていただきたい」
すると、ソファの横で盆を抱えていたアサノがおろおろしながらこちらに視線を向けてきた。自分はここにいていいのか、と問うているのだろう。秋谷は苦笑しながら、田中に提案する。
「アサノくんも同席して構わないですかね? 実は彼女もハセガワ氏と彼女に関する一連の出来事に関わっていましてね、顛末を知りたがっているのですよ」
実のところ、アサノには長谷川に関する一連の事件が終わった日に、ある程度の推測は語ってある。だが、田中が秋谷の導いた答えにどのような反応を示すのか、それはアサノとしても気になることに違いなかった。
田中は少しだけ、ほんの少しだけ躊躇った末に小さく頷いた。
躊躇うに決まっている。これから始まる「謎解き」は、決して田中にとって好ましいものではないはずであったから。そして、聞いていて気持ちのよいものでもないはずであったから。
それでも、刹那の躊躇いで全てを割り切るだけの潔さが田中にはあった。その清々しいまでの潔さがあったからこそ、今の今まで異能府の代行者として生きてくることができたのだろう。
全てを失ってもなお……立っていられたのだろう。
秋谷はアサノにもソファに座るよう手で促してから、薄い唇を開く。
「結論から言うと、あなたが調べて欲しいと言ったハセガワ・コズエは人間ではありません。歪神……あなた方組織の間では来訪者と呼ばれる存在ですよ。あなたの想像通り」
田中が、当初から長谷川梢が人間でないと当たりをつけていたのは間違いない。秋谷の元に身辺調査の依頼を届け出たのも、アサノを捕まえて歪神について質問していたのも、そもそも長谷川の存在そのものに疑問を抱いていたからだ。
それならば、何故、田中が長谷川を「人間でない」と思ったのか。
簡単なことだ。
「あなたは、ハセガワ・コズエが死んだという事実を、知っていたのでしょう」
「……はい」
幽霊、そしてドッペルゲンガー。田中が確かめようとしたことは、あの長谷川を「長谷川梢」本人だと思っていないことを示している。長谷川の姿をした何か。限りなく近いけれど決定的に違う、何か。
「私も件の事故について調べてみましたが、それは痛ましい事故だったようで。きっと、即死だったのでしょうね」
もちろん、誰かが撥ねられた痕跡が残されていない以上、本来ならば秋谷がそれを断言することはできない。けれど。
「最低でも、『あなた』はそうやって死んだと思っているのでしょう?」
秋谷は真っ赤なフレームの眼鏡の下から田中の表情を伺った。田中は秋谷から決して目を逸らすことは無かったが、その表情が僅かに沈んだことはわかった。
「……本当に、気づいているのですね、全て」
「どこまでも推測ですがね。何しろ、あなたについて調べようとしても何もわからないに等しいのですよ。結局わかったことといえば、あなたが組織の中でも異能狩りを生業とする異能で、『アラン・スミシー』と呼ばれていることくらい」
それが、唯一にして絶対的なヒントではあったけれど。秋谷は笑みを深めてソファに体を沈める。
「アサノくんの言葉を借りれば、『アラン・スミシー』は『誰かさん』を示す名前です。つまり、『アラン』と呼ばれるあなた自身は誰でもなく、誰だっていい。タナカ・フミノリという名前だって、あなたにとっては偽名の一つに過ぎないのでしょう?」
田中は……否、『アラン・スミシー』は答えない。答えないという形で、秋谷の問いに肯定していた。
「推測を続けましょうか。『あなた』はあの日に車に撥ねられ、そして死んだ。調べたところ、あれは飲酒運転で、運転手は完全な酩酊状態だったといいます。ま、撥ねたその瞬間に酔いは覚めたでしょうけどね」
酔いが覚めたところで、それ以上の狂気に溺れていってはどうにもならないというのに。
「そして、こともあろうにその運転手は、偶然『あなた』を撥ねた形跡がほとんど残っていないのをいいことに、『あなた』を埋めて事故それ自体をなかったことにしようとした。どこに、というところまでは私にはわかりませんでしたがね」
埋めた、という言葉は長谷川をストーキングしていた男の口からアサノが聞いたことであり、その後の供述からも明らかになっていることであった。『アラン・スミシー』は目を細め、無言で話の続きを促す。秋谷の話が終わるまでは、口を挟む気はないのだろう。
それならば、秋谷が知りえたこと、そしてそこから推測したこと全てを語るまで。
「その後の『あなた』については、あなた自身が一番よく知っていると思いますから今は横に置き……まずはこちらの話をいたしましょう」
言って、秋谷はオレンジ色のウィンドブレーカーのポケットから、それを取り出す。その瞬間、目の前の代行者は「あっ」と声を上げた。
「あなたならご存知でしょう」
秋谷の手の中には、一枚の手鏡があった。黒塗りの背に牡丹が咲く、古くも美しい手鏡。割れていた鏡面は小林の手によって修復されていて、秋谷のチェシャー・キャットの笑みを映しこんでいた。
「ハセガワ氏はこれを祖母の形見だと言っていたと言いますが、間違いありませんね」
「はい。確かに、それは」
祖母から預かった鏡である、と。
彼……『彼女』は、言った。
秋谷は鏡をテーブルの上にそっと置いて、言葉を続ける。
「古来、鏡というのは不思議と共に語られるものです。あなたの祖母も、そしてあなた自身も、それを『おまじない』という行為を通して何とはなしに理解していたのではありませんかね」
長谷川梢は、鏡に向かって祖母から受け継いだおまじないを呟いていたという。鏡の中の自分が、自分を支えてくれるように。
「そして、その『おまじない』は、何もあなたにだけ働くわけではないのです。『おまじない』の媒体である鏡そのものも、少しずつ、少しずつ、『おまじない』の影響を受けていたのです。やがてそれが歪神となって現れたもの……それが、あなたの見たハセガワ・コズエですよ」
「そんな、ことが?」
可能なのか。起こり得るのか。疑問符の後ろに続くべき言葉は容易に想像できる。それに対し、秋谷はただチェシャー・キャットの笑みをもって応えるだけだ。
「どんなこともありえますよ。それが、歪神というものです。それはあなた方異能にも言えると思いますが……まあ、それはそうとして話を続けましょうか」
『アラン・スミシー』が微かに眉を寄せたのを視界に映しながら、秋谷は鏡の上に手を翳して言う。
「撥ねられた『あなた』自身は運転手に連れ去られましたが、鏡だけはその場に残されました。そして、力を持った鏡は『あなた』の存在が危険にさらされたことに気づき、『あなた』がいなくなったという事実を隠しました。ハセガワ・コズエという『あなた』そのものの『鏡像』を作ることによって……ね」
何故、と。彼女の唇が動いた。
当然の質問ではある。何故『鏡像』が長谷川梢に成り代わる必要がある。消えたという事実を隠す必要がある。だが、その答えは歪神を視ることのできない秋谷でも、簡単に導き出せる。
「それはそうですよ。だって、『おまじない』は言っているのでしょう……『いつでもここにいる。あなたは一人じゃない』と」
それは、『アラン・スミシー』にとっては想像できない答えであったに違いない。目を見開いて、その場に固まってしまったから。
きっと。これこそ秋谷の推測に過ぎないが、きっと彼女はハセガワ・コズエの姿を見た瞬間にこう思ったのだ。
――「乗っ取られた」と。
事実、全てを理解した小林巽はこう指摘している。
『理由はどうあれ、己の座に誰かが居座っている、ってのはそれだけで嫌悪に値する』
……と。
だが、鏡は彼女の感情を想定などしていなかった。歪神は己の存在する理由の通りに、ただ鏡としての役割を愚直に続けていただけで。
少しだけそれが狂ってしまったのは、長谷川梢を「殺した」と確信しているあの事故の運転手が、鏡像を見つけてしまったことだ。殺したはずの女が再び目の前に現れた恐怖、それが男を狂わせ……ストーキングの末の二度に渡る鏡像殺しに発展し、最後には小林とアサノに捕まった。
そう、鏡像は覚えていなかっただけで、男に出会った度に殺されていたはずなのだ。だが、殺害されたそれはあくまで鏡が映し出す幻。殺されたという記憶を封じ込め、再び像を結び、当たり前のように生活を続けていた。
どこまでも、どこまでも、己に与えられた役割を果たすために。
「彼女はね、『おまじない』の通りにひたすらに待っていたんですよ。『あなた』が帰ってくるのを」
「しかし……私は、確かにあの時死んで……」
「いいえ、鏡は『あなた』が生きているということを確信していたはずです。何故なら」
秋谷は指先で鏡面を叩く。その奥に何が眠っているのか、秋谷は知らない。知らなくても、これだけは言える。
「彼女は『あなた』と言う存在を通して初めてこの世に存在し得るんですからね」
「ああ……それが、インタフェース……ですか」
インタフェース。それは、やけに情報技術に精通する副所長が歪曲視を表現する時、好んで使う表現だ。本来手の届かない世界に干渉するための仲立ち。『アラン・スミシー』がその言葉を使ったということは、アサノから顕現の仕組みを聞いていたに違いなかった。
「ええ。歪神は元来存在する次元が違うが故に、この世に顕現するためには強大な力が必要です。ただ、例外的に、世界を越えた干渉を行う歪曲視を通すことで、容易に認識が可能となります。あなたにも、歪曲視の才があるというのは前にご指摘した通りです」
それも、単に歪曲視がそこにいるだけでは意味がない。
秋谷はそう付け加えて、笑みを深める。
「歪神と歪曲視との間には、縁が必要なのです。例えば、あなたとこの鏡の関係のように」
『アラン・スミシー』は、鏡を見つめたまま動かなくなった。秋谷から受け取った情報を、己の理解できる範囲に落とし込もうとしているのが伝わってくる。それでも、やはり理解できないものは理解できなかったのだろう、素直にこう言った。
「……にわかには、信じられません。けれど」
それは、自分が今まで踏み入れたことのない領域の話だからでしょう、と呟く。己自身を客観的に評価できるのは、一種の才能でもある……そう、思いながら秋谷は問う。
「それでは、信じてくださるので?」
「知らないものを『存在しない』と切り捨てるのはナンセンスですから。組織に入ったころも信じられないことばかりでしたが、その全てが確かに『在る』ものでした……己のことも、含めて」
だから、それはきっと、そういうことなのだろうと。
そう思うことにすると『アラン・スミシー』は言って微笑んだ。それが今の彼女に出来る範囲の、最大の「理解」であったに違いない。秋谷としても、そこまで納得してくれるのであれば成果としては十分過ぎるほどであった。そんなことありえない、とはねつけられることも覚悟していたから。
秋谷はふ、と小さく息を付いてから、黒い鏡を『アラン・スミシー』に向けて差し出す。
「さて、ここからは『これからの話』になります。あなたは、どうしたいですか?」
「……私が?」
「いえ、ここは順番に行きましょうか。あなたはハセガワ・コズエのことを知ろうとした。『あなた』の姿をした何者かの正体を知ろうとした。彼女のことを知って、どうするつもりだったのです?」
『アラン・スミシー』にとって、それは十分想定された質問だったはずだ。しかし、彼女は左手の人差し指を折り曲げ、唇に当てて首を傾げた。
「あー……それは、すごく難しい質問ですね」
そんなに難しいかな、と秋谷まで一緒になって首を傾げてしまう。ふと視線を向ければ、アサノまで同じように首を傾げていて何だかおかしくなる。しかし、『アラン・スミシー』はいたって真面目な表情のまま、ぽつりと言った。
「実は、考えていなかったんです」
「……ほう?」
その答えは、秋谷の想定外だった。何かしらの思惑があって……その正体が何であれ、長谷川梢に対して何かしらのアプローチを取ろうと考えていた、そのための調査だと思っていたのだ。
しかし、『アラン・スミシー』は言う。
「先日、この町に初めて訪れた時に『彼女』を見かけて、以来、ずっとそれが頭の中に引っかかっていました。彼女は何なのか。何をしようとしているのか」
死んだはずの人間と、かつての己と、限りなくよく似た姿をした「何か」。それを目にして、放っておけるはずもなかった。
「彼女が何なのか、自分でも色々考えました。悪意ある異能、ドッペルゲンガー、それとも私から分離した生霊か。どうあれ……ハセガワ・コズエの存在は、私が生きてきた世界を壊すようなことではないのか、と」
その場合は、己に与えられた力と権限をもって、長谷川梢を排除することも厭わなかっただろう。そう言った『アラン・スミシー』の瞳はどこまでも鋭かった。
「しかし」
それは杞憂だったようですね、と。彼女は不意に微笑む。一瞬前までの表情をまるで忘れたかのように、どこまでも、穏やかに。
それで、秋谷も彼女の「答え」を知った。彼女はどうするつもりなのか考えていなかったのではない。初めから答えは決まっていて、単純にそれ以外の選択肢を考えもしなかったというだけで。
「そうですか。あなたは……戻る気は、ないのですね」
「私、今のお仕事結構好きなんです」
『アラン・スミシー』の言葉はいたってあっさりしていた。
「もちろん、色々思うことはあります。殺されたと思ったら異能として目覚めて。それから、全ての歯車が狂ったのも事実です。己の名前と今までの人生を捨てて、姿も捨てる羽目になったわけですし」
この格好は多分に自分の趣味ですけどね、とどこからどう見ても平凡な男性にしか見えない姿で彼女は苦笑する。
「姿を変える、それがあなたの能力ですか」
「正確には限定的な肉体組織の制御、と言えばいいのでしょうか。変形と修復が主な能力です。ああ、これはここだけの話でお願いします」
わかっていますよ、と秋谷は笑う。組織の異能にとって……特に能力が知られていない『アラン・スミシー』にとって、己の手の内を明かすことで被る危険は大きい。しかも彼女の場合、その能力だけ聞けば便利ではあるが、荒事には向きそうにない。だからこそめったに表に出ず管理職に徹しているのかもしれないが。
『アラン・スミシー』は小さく息を付き、手渡された鏡を見つめる。そこに映る鏡像は、『彼女』本来のものではなかっただろうが、それでも彼女自身のものであったに違いない。
「本当に、恨んでいない、と言ったら嘘になりますよ。しかし、それは彼女に対してではなく……」
「あの日の、運転手ですか」
ええ、と。俯いたまま彼女は笑う。それは、酷く暗い笑みでもあった。アサノが不安げに秋谷と彼女を交互に見ているのを視界の端に映しながら、秋谷はきっぱりと言い切った。
「しかし、あなたは彼を殺さなかった」
「……!」
「あなたでしょう? 捕まった彼の元に現れた『幽霊』は」
留置所に現れた幽霊の話は、秋谷も人づてに聞いたものだ。あの時消えたはずの長谷川が忽然と現れ、男の首を絞めようとしたのだという。それも、姿を変える能力を持つ『アラン・スミシー』だからこそ出来た真似に違いない。侵入するにしろ逃亡するにしろ、方法はいくらでも取れうるのだから。
ご存知でしたか、と『アラン・スミシー』は言って、くしゃりと顔を歪ませた。
「情けないですよ。己自身の復讐ですら、まともに遂げられないなんて」
「いいえ。一線を越えなかった、それも『あなた』の選択ですよ。いいではないですか、その男にはあなたの手を汚すほどの価値がなかった、ということでもあるのですから」
「は、あっさり言ってくれますね」
「そりゃあ、他人事ですからね」
秋谷の無責任極まりない言葉に対し、彼女は「一理ある」と言って、おかしそうに笑った。秋谷の言葉に傷ついた様子はなく、それどころか心から愉快だと思っているようであった。
そうだ、もはや彼女に必要なものは同情ではない。彼女の今の生き方を肯定する言葉なのだと、秋谷は感じ取っていた。
確かに、彼女は過去の自分を奪われた。けれど……今、超常の世界で生きている自分もまた、自分自身なのだ。姿かたちは違っても、それが「自分」であるという認識を失わない程度の強さが、彼女には備わっているのだと思う。
彼女は、秋谷が思っていたよりもずっと強かった。もちろん最初からそうであったとは思わない。だが、異能に目覚め、組織で積み重ねた経験が彼女を自然とそうさせたに違いない。その経験があったからこそ最後の一線を踏みとどまり、そこに存在するもう一人の『自分』を認めるに至ったのだろう。
そう考えてみると、そもそも今回秋谷に託された依頼は……彼女の心に引っかかった小骨を抜く、ただそれだけだったのだ。思ったよりもずっと大きな事件になってしまったけれど、それはそれでこれはこれ、『アラン・スミシー』の物語は、彼女自身の疑問を晴らすための物語であった。
おもむろに、『アラン・スミシー』は、秋谷に手鏡を返す。
これは、今の彼女には必要のないものだから。むしろ、彼女が今の道を選んでいる限りは、彼女の手元にあるべきものではないから。秋谷は手鏡を受け取り、小さく頷いた。
明日から、あるべきものは、あるべき場所に戻っていくのだろう。彼女は組織に帰り、鏡は再び『彼女』の鏡像を映し出す。それが正しいか間違っているかを論ずるのは、間違いなくナンセンスであった。
彼女は鞄を手に立ち上がり、確かに何かしらを吹っ切った、すっきりとした表情で頭を下げた。
「……ありがとうございました。おかげさまで、心が晴れた気がします」
「それならよかった。こちらも、久々に『らしい』仕事ができましたしね。また何かありましたら遠慮なくどうぞ。あなたからの依頼なら、歓迎いたしますよ」
「嬉しいお言葉ありがとうございます。しかし、次はお互い敵同士かもしれませんけどね」
その可能性の方が圧倒的に高いのは事実だ。異能の存在を一般から隠しおおせようとする異能府と、そんな彼らを出し抜いて異能について知ろうとする秋谷は、本来決して相容れない存在なのだから。
秋谷はチェシャー・キャットの笑みを深めて、手にした手鏡をくるくる回す。
「はは、その時にはお手柔らかに頼みますよ。あなたは敵に回すと手強そうだ」
「光栄です」
『アラン・スミシー』も爽やかな笑顔でそれに応じた。本当に敵に回ることがあれば、彼女は同じ笑顔を浮かべ、迷いなく秋谷と真っ向から対峙するのであろう。本当に手強い相手だと思いながら、秋谷は嬉しくなる。
こういう相手がいなければ、面白くない。面白いか面白くないか、を全ての基準に据える秋谷にとって、『アラン・スミシー』と彼女が属する異能府は、これからも鮮やかに秋谷の人生を彩ってくれるという確信があった。
「それでは、またどこかでお会いしましょう、『アラン・スミシー』。あなたの行く手に幸あれ」
ありがとうございます、と笑った代行者は、呆然と二人の会話を聞いていたアサノに向き直って頭を下げた。
「アサノさんにも、色々とお世話になりました。変なことに巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」
「い、いえっ。その……」
「はい?」
アサノは口をぱくぱくさせて、助けを求めるように彼女を見上げていたけれど。やがて、軽く首を振って、言った。
「お仕事、頑張ってくだせえ。あたし、応援してます」
「……ありがとうございます」
アサノの言いたかったことは、もっと別のことだ。秋谷にはそれがわかった。そして、苦笑にも似た笑顔を浮かべる『アラン・スミシー』にも伝わっていたに違いない。
アサノは、歪曲視だ。彼女よりも彼女の姿を模した鏡像について、よく理解している。『アラン・スミシー』が己から元の名と立場を取り戻そうとしない限り、鏡像はそこにあり続ける。そこにあって、主の帰りを待ち続けることになるのだ。
だから、きっとアサノは問いたかったのだ。今は無理でも、いつか彼女の場所に帰ることはないのかと。待ち続ける鏡像の思いが報われることはあるのかと。
唇を軽く噛んで、それでも『アラン・スミシー』をじっと見上げ続けるアサノ。そんなアサノの頭を、彼女は軽く叩いて言った。
「また、暇になったら仕事抜きで遊びに来ますね。その時には……そうですね、『彼女』ともきちんと顔を合わせたいものです」
「え……」
「待っていてくれてありがとう。そう、伝えたいので」
その瞬間、アサノの表情がぱっと明るくなる。
「絶対ですよ。約束っす」
ええ、と頷いて。『アラン・スミシー』はアサノの手を取った。指切りとまではいかないものの、手を繋ぐ、その動作を通してお互いの思いを通わせる。彼女の答えは決して解決を示したわけではない。けれど、彼女に可能な限りの前向きな答えではあった。それだけでアサノは満足だったに違いない。
そうして、灰色のスーツを纏った異能の代行者は、短い別れの言葉と共に事務所から去った。
部屋に残された秋谷とアサノは、しばしその場に立ち尽くしていた。残されたのは、秋谷の手の中の古びた鏡が一つ。それで、この依頼は終わった。
そう、これで終わりなのだ。
あっけないまでの幕切れ、しかし秋谷の仕事とはこういうものだ。色々な出来事に首を突っ込みながら、秋谷自身はその物語に本当の意味で関わることはできない。秋谷にできることは、誰かの行くべき方向を示すことと、示した結果を見守ること、ただそれだけだったから。
その時、きぃと奥の扉が開いて、見慣れた顔が現れた。金茶の髪をがしがしとかきながら、緑と青のオッド・アイを細めて代行者が去っていった後の扉を睨む。
「……気に食わねえなあ、アイツ」
「タツミくん、立ち聞きとは感心しないね」
「聞いてろって言ったのはシズカさんでしょ! 何で俺様が悪いことにされてんの!」
相変わらず冗談の通じない『元神様』だ。もちろんそれをわかって言っているのだが。意地悪な笑みを浮かべた秋谷は、ずっと扉の向こうで話を聞いていたのだろう小林巽に向かって言う。
「しかし、タツミくんはああいう子は苦手かい? 私は好ましいと思ったがね」
「……ああいう形で割り切っちまった奴を見てると、なんつーか、それでいいのかって思っちまうんだよ」
言って、寒色の視線を天井に投げる。実のところ、巽がそういう感想を抱くことは秋谷も予測していた。『アラン・スミシー』のあり方は、巽にとって可能性の一つとして理解しながら、決して受け入れられない解答であったのだろう。
割り切る。それは、前に進むために必要な手段でありながら、己のどこかを切り捨てることでもある。望まぬ形で異能として目覚めてしまった『アラン・スミシー』にとって、それは過去の自分と自分が生きてきた世界だった。
彼女の手を握った感覚を確かめるように、手を握って開いてを繰り返していたアサノも、顔を上げて言った。
「あたしも、どちらかというとコバヤシさんと同じかもしれねっす。何か、上手く言えないんすけど……納得したくて、でも、びみょーに納得しきれない感じっす」
「だろうね。けど、アランくんだって、迷わなかったわけではないと思うんだ」
彼女は、笑ってああ言ってみせたけれど。それは「今」だから言えた話なのだろうと思っている。彼女がここに依頼に来て、この結果を携えて帰るまでにどのような思考の変遷があったのか。それは秋谷の知る由もない。
「それに、仮にチャンスがあったとして、今生きている場所を捨てて、元の場所に戻るってのはそれはそれで難しいもんさ。ねえ、タツミくん?」
「……はっ」
巽はそっぽを向いたまま、乱暴に息を吐く。アサノは、何故巽がそんな反応をするかわからなかったらしく首を傾げた。
「タツミくんも、そういう苦い『選択』を何度も強いられて、後悔しまくってきたってことさね」
「一言多いっすよ、シズカさん」
小林巽は『元神様』だ。今の彼は人間としては規格外の性能を持つが、別に神に匹敵する力を持つわけではない。けれど、彼には確かに『神』と呼ばれた時代があり、そう呼ばれるだけの年月を重ねた存在である。
その間にどのような理不尽な選択を強いられたのか、秋谷がその全てを知るわけではない。ただ、割り切れなかった、それでいて忘れ去ることもできなかった思い出を抱えて生きていることは、わかっているつもりだ。
「選択というのはいつでも理不尽さ。だって、どれを選んだところで必ず後悔は付きまとうんだからね」
「どれを選んでも……っすか?」
アサノは不思議そうな顔をする。結局のところ、誰かの選択とその先に待つものは目に見えるものではなく、どこまでも言葉遊びの世界でしかない。それでも、秋谷はにぃと笑みを深めながら言うのだ。
「選ばなかった答えは結局わからずじまいだからね。人は必ず、選ばなかった選択の方がよい答えだったのかもしれない、と思ってしまうものだよね。それ以外の道は、選ばれなかった以上、もはや存在しないのにさ」
「結局、そいつが選んだ道に正しいも間違ってるもねえんだよ。俺様は、答えのない命題なんて大嫌いだがな」
巽が秋谷の言葉を引き継ぐ。そこに「大嫌い」という一言が入るのは何事にも単純明快さを求める巽らしいとは思うけれど……
「いつも思うんだがね、仮にも因果律の神様が言うことじゃないよ、それ」
「ほっといてください」
ともあれ、巽を弄って遊ぶのはこの辺にして。秋谷はアサノと巽、双方に視線を投げかけて言う。
「ま、アランくんがこれからどうするかは、彼女自身が決めることさ。そして、君たちがどうするかも、君たちが決めること。これから、ハセガワ氏を『呼ぶ』んだろう?」
「あ、そうっした!」
アサノは慌ててテーブルの上の鏡を手に取る。
今は鏡の奥底で眠っているという鏡の歪神。それを呼び起こすために、これから二人でちょっとした儀式を行うつもりらしい。秋谷は歪曲視ではないしましてや歪神でもないから、彼女らのいう儀式が何なのかはわからないが、多分、あの鏡に力を与えた『おまじない』とそう変わらないものなのだろう。
「忘れてんじゃねえよ」と呆れながらも、巽はそのまま大学に向かうつもりで持ってきたのであろうギターケースを担ぐ。
「じゃ、お邪魔しました。もしトートが戻ってきたら『いい加減なこと言いふらしやがって、もう一度楽園見せたろか』って言っといてください」
「確かに伝えておくよ」
「それじゃ、失礼しましたっ!」
アサノは元気にびしっと敬礼し、巽もまたアサノにならって軽く敬礼の仕草をする。秋谷も二人に倣って右手を挙げて「いってらっしゃい」と笑う。
一つの物語が終わっても、そこに関わった全ての人の物語は続いていく。そうしてまた、秋谷の前に別の物語が紡がれることになるだろう。
もちろん、それまでは事務所に閑古鳥が鳴くのだろうけれど。
鐘を思わせるピアノの音色を聞きながら、駆け出していく二人の姿を隠すようにゆっくりと閉じていく扉を見つめて……
秋谷静は、チェシャー・キャットの笑みを満足げに深めた。
迷走探偵秋谷静