迷走探偵秋谷静

アサノ、お仕事をする

「ハセガワ、コズエさん……かあ」
 口の中で調査対象の名前を呟いて、アサノは大きな門を見上げる。門の上には、アサノの目にしか見えない巨大な鯨が泳いでいる。空を悠然と泳ぐ鯨は、この町の守り神なのだという。巨体に似合わぬ小さく真ん丸の目でアサノを見下ろし、ぱちぱちと瞬きして空の向こうに泳いでいくのを見送って、改めて門に視線を戻す。
 M大学の正門。調査対象の通う大学であり、アサノが志望する大学でもある。昨年受験した際は、現代文で少年同士がいちゃいちゃしている小説が出てきて、何をどう答えるべきかさっぱりわからなくなった思い出がある……それがいい思い出、なわけはないのだが。
 今年の受験問題は普通の小説ならいいなあ、というかあの問題誰が作ったんだろう、そんなことを思いながら門をくぐる。守衛は、いたってラフな格好のアサノを生徒だと思ったのか、軽く挨拶をするのみで彼女の足を止めることはなかった。
 侵入は完了。まずは……どうするべきか。
 秋谷から「長谷川梢」の特徴は教えてもらっていたし、写真も貰っていたが、果たしてどこに向かって、どう探せばいいのかも全くわからない。何しろアサノは探偵見習いどころか見習い未満だ。別段探偵になりたいわけでもなく、ほとんどの時間を事務所で菓子を食うことに費やしているのだから当然と言える。
 故に、まずはこの大学に通う知り合いに、協力を求めてみることにした。
 人探しに協力して欲しい、ということを昨夜メールで伝えたところ、明け方に「正門辺りで待っていろ」という簡潔な返事があった。そのため、とりあえずは校門近くに置かれている案内板を眺めて過ごすことにする。
 文学部棟は受験会場だったために二度ほど訪れたことがあるが、総合大学の敷地はとにかく広い。ただただ古いだけであった高校とは比べ物にならない。薬学部棟には植物園まであるのかー、と妙なところで感心していると、講義が終わったのか突然ごった返し始めた学生の間に、見覚えのある姿を見た。
 人より頭一つ突き出た長身と、鮮やかな色の髪は、どれだけ人が溢れていようと、どれだけアサノの目が悪かろうと見逃すことはない。その点は、人の顔を覚えるのがとことん苦手なアサノにとってはとてもありがたい。そうやって言うと、彼はいつも複雑そうな顔をするけれど。
 向こうは向こうでアサノに気づいたのだろう、手を振ってこちらに近づいてくる。
「よう、アサノ!」
 名前を呼ぶ声は、決して低くはないが酷くしゃがれている。それでいて、この人波の中にありながらよく響く、不思議な声であった。アサノも負けじと両腕を振って声を張り上げる。
「ちわっす、お久しぶりっす!」
 青年は布製の黒いギターケースを担ぎなおして、アサノの前に立つ。アサノが小柄なせいでただでさえ細長い体が際立って見える。
 だが、やはり何よりも目を引くのはその色彩だ。
 綺麗に切りそろえられた短髪は限りなく金に近い茶色。染めたのか脱色したのか、と疑ってかかるのは自由だが、眉や睫毛も同じ色をしているのだから、地毛と考えるのが妥当だろう。肌の色もやけに白く、黄色人種として生まれついていないことは見ただけでわかる。そして、特筆すべきはその両眼。どちらも鮮やかな色をしているが、右目は勿忘草のような薄青であるのに対し、左目は氷河を思わせる青みの緑。それこそ、ファンタジィのゲームか漫画でしかお目にかかることのない「オッド・アイ」というやつだ。
 頭の上から爪先まで、まさしく漫画の世界から抜け出てきたような端正なつくりをしているが、惜しむらくは顔面にまでその端正さが働いていないということだ……と言ってしまったら失礼極まりないが、それでも青年は決して美形とは言いがたかった。凶悪に吊りあがった三白眼に、西洋風の色彩とは相容れない、あっさり風味の醤油顔。この顔立ちが青年の国籍を更に不明確なものにしていた。
 いつ見ても、正体不明はなはだしい。アサノは思いながら青年の細い顎の辺りを見上げて言った。
「すみません、お忙しいとこ呼びつけちまって」
「や、今日は実験もねえから楽なもんよ。で、今日は人探しだっけか?」
 青年の唇から飛び出すのは、下手な日本人よりもずっと流暢な日本語。もう慣れたつもりではあったが、久しぶりに相対してみるとやっぱり違和感は拭えない。これはもう、不可抗力というやつなので諦めることにして。
 アサノは見かけ国籍不明、中身完全日本人の青年に向かって、言った。
「そうなんすよ、実はアキヤさんのお手伝いで……」
 言いかけたところで、青年の後ろから何者かがひょこりと顔を出した。
「あの、この方は?」
 その顔はを見た瞬間、アサノは目を丸くした。
 ふわふわとした癖の強い髪に、おっとりとした顔立ち。フェミニンなワンピースに身を包んだ女は、紛れもなく調査対象である長谷川梢、その人だった。
 青年は長谷川を振り向き、親しげな笑顔を浮かべて言った。
「ああ、こいつは俺様のダチで――」
「ちょ、ちょーっとすみません失礼します!」
 アサノは慌てて青年の袖を取った。「な、何だよ」と戸惑う青年を引きずって、案内板の後ろまで引っ張っていく。取り残された形の長谷川がきょとんとしているのが視界の端に映ったが、それに構っている場合じゃない。
「どうしたんだよ急に……」
「か、かかか彼女っすか! あの人!」
「違えよ!」
 青年はきっぱりと己の容疑を否認した。アサノは露骨に「ちっ」と舌打ちして、青年に鋭い視線で睨まれた。からかうネタが一つ増えるのかという期待を裏切られた失望が、つい表に出てしまったのだから仕方ない。
 だが、今この場ですべき話はそれではない。アサノが話を切り出す前に、青年の方が先に言った。
「つか、お前の『探し人』って、もしかしてコズエだったのか?」
「ええそうっすよ、びっくりさせないでくだせえ! それよりコバヤシさんは、ハセガワさんとはどういう関係なんすか?」
 アサノの問いに、青年……コバヤシは、金茶の髪をがりがりやりながら、少しだけ真面目な顔になって言った。
「俺様はボディーガードのバイト中なの」
「ボディーガード?」
 思わぬ言葉にアサノは首を傾げる。すると、涼やかな色の視線が、先ほどの場所から動かず二人の会話が終わるのを律儀に待つ、長谷川梢に向けられる。どこか不安げな表情を浮かべる彼女を見据えたまま、異相の青年は微かな苦味を篭めて言い放った。
「何か、変な野郎につけ狙われてんだよ、アイツ」
「……え?」
 
 
 小林巽はアサノからすれば一つ年上の、探偵・秋谷静と浅からぬ縁を持つ大学生であり、また秋谷静と同様に『不思議の世界』に片足……どころか全身を突っ込んでいる人物だ。
 とある『不思議』な事件でアサノと知り合い、以来何かと親切にしてくれる天性のお人よし、とアサノは認識している。他でもない、アサノに探偵事務所のアルバイトを勧めたのがこの小林なのだ。
 突飛な見かけながら戸籍上はれっきとした日本人であり、記録上は日本から一歩も外に出たことはないらしい。
 記録上は。
 そんな但し書きをつける理由は彼の奇想天外すぎる生まれ育ちに由来するのだが、実のところアサノも彼がどのような由縁でここに来て、何故好き好んで日本国籍を手に入れて、ごく普通の大学生をやっているのか、詳しいところは何一つ知らない。
 アサノは小林のことを知ってから今に至るまで、彼のことは単に変わり者の『元神様』なのだ、という認識でいる。それで、大体間違っていなかったから。
「っとと」
 つまずいた瞬間に手にした盆が大きく揺れて、アサノは慌ててバランスを取る。コップは、ぎりぎりのところで水を溢れさせてはいなかった。ケーキの皿を台無しにしなくてよかった、とほっと息を付く。
 アサノは今、大学のカフェテリアにいた。昼時というわけでもなく、さりとて終業後、バイト前の腹ごしらえという時間でもない、そんな微妙な時間のために学生の姿はまばらだった。
 高校には食堂というものがなかったため、物珍しさにあちこち見回していると、先に席を取っていた小林が大きく手を振った。
「アサノ、こっちだ」
「あ、はーい」
 呼ばれなくても、小林の姿は目立つため場所がわからないということはなかったのだが、素直に返事をして、よたよたとした足取りで席に向かう。
 長谷川と向かい合う形で長方形のテーブルについていた小林は、さりげない所作で右側の席に移りアサノに席を譲る。アサノは「ありがとうございます」と頭を下げて小林の左側に座った。
「すみません、何かお邪魔しちゃったみたいで。それに、いきなりお話聞きたいなんて、失礼っすよね」
 アサノが言うと、長谷川はふわふわとした笑顔を浮かべて言った。
「いえ、コバヤシさんのお友達なら安心してお話できます。それに今は、話を聞いてもらえるだけでもありがたいです」
 柔らかい笑顔の中に走った一抹の影を、アサノは確かに見た。よくよく見てみれば、写真で見た顔よりも顔色が悪く見える。話の詳細はさっぱり見えていないが、ボディーガード、つけ狙われている、という小林の言葉を聞いてしまえば、この憔悴した顔も納得には値する。
 小林は水で喉を湿してから、それでも隠せないざらついた声で言った。
「改めて紹介しとく。こいつはアサノって言って、この近くに住んでる俺様のダチだ。一つ年下で……今は浪人してんだっけか?」
「ですです」
 アサノはこくこくと頷く。
「普段はバイトしながら、予備校に通ってるんすよ。来年にはこの大学に入りたいなーと思ってまして」
 と言っても、勉強らしい勉強などまともにしていないし、予備校よりも事務所に入り浸っている時間の方が長い、という似非浪人生ではあるが。もう十月なのだから少しは危機感を持った方がよいのではないか、と己でも思うが、結局は「まあ何とかなるだろう」という楽天的な考えに至ってしまう。
 長谷川はアサノに純粋な興味を抱いているようで、じっとアサノを見つめている。こちらの背中がくすぐったくなってくるくらいに。
 小林はアサノが軽く身じろぎしたのに気づいているのかいないのか、今度は長谷川を指して言う。
「で、こっちがハセガワ・コズエ。文学部の三年だ」
「よろしくお願いしますね、アサノさん」
「こ、こちらこそよろしくお願えします」
 アサノはしどろもどろになりながら頭を下げる。そのばね仕掛けの人形のような動きがおかしかったのか、くすくすと笑った長谷川は、自分のケーキをフォークで切り分けながら話を続ける。
「わたしは、この近くに部屋を借りて、一人暮らししているんです。ただ、今はアルバイトもお休みさせてもらってて……」
「で、大学の行き帰りは俺様が送ってるの」
 小林が言うと、長谷川は心底申し訳なさそうな顔をして言う。
「その、お忙しいのに毎日すみません」
「ばーか、一度関わっちまったら放っておけねえよ。それに、報酬だって出る正当な依頼なんだ、俺様は当然のことをやってるまで」
「依頼?」
 そういえば、さっきもボディーガードはバイト、みたいなことを言っていた気がする。アサノの疑問に対し、小林は早口で答えた。
「別にタダで請け負ったっていいんだが、それだと逆に気を使わせちまうしな。だから報酬を貰うことにしてんの。俺様が今最も必要としている米と醤油と味噌をな」
「相変わらず赤貧なんすね……」
「言うな」
 天涯孤独の身である小林は、後見人の資金協力を己のプライドを理由に全面的に断り、奨学金とアルバイトのみで学費と生活費をまかなう勤労学生のカガミである。もう少し人を頼ることを覚えればよかろうに、とアサノなんかは思うのだが、小林は周囲の思惑なんか知ったことない、とばかりに日々自転車で学内と町を駆け回っているのだという。
 それに加えてほとんど得にもならない人助けとは、多分前世は止まったら死んでしまうというマグロか何かだったのではないか……金色に輝くやたら派手な小林の前世を頭の中に思い描きながらアサノも己のケーキをつつく。
「それで……その、ハセガワさんがコバヤシさんに依頼したことって、実際何なんすか?」
「実は、ここ二週間ほど前から、誰かに後をつけられているような気がしていたのです」
 本題に入り、穏やかに笑っていた長谷川も暗い顔で手元に視線を落とす。半分ほどになったケーキは、生々しい断面をさらしている。
「しばらくは、ただ気味が悪いだけだったのですが、ある時急に、知らない男の人がわたしの肩を強く掴んできたんです」
「ちょ……ええっ」
 想像を遥かに超えた急展開だ。思わず声を上げてしまうアサノに対し、長谷川は俯いたまま言う。
「わたし、怖くて、必死に逃げて、その日はそれで終わりました。けれど、次の日も帰り道にその人が現れて、わたしのことを追いかけてこようとして……そこで、コバヤシさんに助けてもらえました」
「偶然だったが、ま、最悪の事態にならなくてよかったよ。野郎の顔がほとんど確認出来なかったのは残念だが」
「見えなかったんすか?」
「ああ。奴、俺様を見るなり逃げ出しやがったからさ。次に会ったら絶対に目に焼き付けてやる」
 心底悔しそうに小林は言う。そうだろうなあ、と言葉にしないまでもアサノも小林の言葉に同意せざるを得ない。仮に小林が犯人の顔を見ていれば、いちいちボディーガードなどという面倒な真似をするまでもなかっただろう。
 そこまで考えて、アサノは当然聞いておくべきことを聞いていないことに気づいて問う。
「しかし、そこまで危ない目に遭ったなら、警察に頼らなかったんすか?」
「言ったぜ。でも話を聞くだけでまともに対策してくれねえんだよ、あいつら。事件に発展しねえと動けねえ体質ってのも考えもんだ」
 それじゃあ遅すぎるってのに。小林の言葉は吐き捨てるようだった。
「そんなわけで、俺様がしばらくボディーガードを買って出たってわけだ。了解?」
「了解」
 アサノはこくりと頷いた。
 これは、予想だにしない展開だ。調査対象が事件の渦中にあるとは思いもよらなかった。それとも、あの田中氏という異能府の代行者はこの事件を知っていて、長谷川梢の調査を依頼したのだろうか?
 もし、そうだとすれば……どういうことだろう。
 可能性はいくつも考えられるが、与えられた情報が少なすぎる。唯一、ここはアサノがああだこうだ考えるよりも、秋谷に判断を委ねた方が安全だ、ということだけははっきりしていた。今は、長谷川についての情報を出来る限り引き出すことを考えるべき、と意識を切り替えて、長谷川を見る。
 長谷川も見られていることに気づいたのか、俯いていた顔を上げた。
 黒目がちの瞳がアサノの視線を受け止めたその瞬間、突然視界が揺らぎ、アサノの目に映る全てが輪郭を失って精彩を欠く。慌てて目蓋の上からごしごし目を擦って不快感を取り除こうとしていると、小林の声が降ってきた。
「どうした、アサノ」
「大丈夫ですか?」
「や、何か突然目がおかしくなって……あ、だいじょぶっす。治りました」
 目を開けば、何も変わらない世界が目に入る。目の前に座る長谷川の顔だって、確かな輪郭をもってそこにある。元々目がさほどよくないため、その輪郭が多少ぼやけて見えるのはいつものことだ。
 その視界の中に、普通の人には見えないであろう『何か』が見えることだって、いつもと変わることはない。
 ふわふわと踊る空気の精が、アサノの髪を軽く弄ったかと思えば空調の作り出す微風に煽られて飛んでいく。それを見るともなしに目で追ってしまっていることに一拍遅れて気づき、アサノは慌てて視線を長谷川に戻した。
 長谷川は、きっと初対面のアサノに必要以上に気を遣わせまいとしているのだろう、気丈にも笑みすら浮かべている。だが、伝わってくる思いは決して晴れ晴れとしたものではない。多分、つけられていると気づいた日からずっと、その心が晴れたことはないに違いない。
 思った瞬間に、アサノは口を開いていた。
「事情はわかりました。聞いちまった以上、あたしも出来る限りご協力しますよ」
「しかし……」
「あたしがそうしたいって思うだけなんで、遠慮するこたないすよ。それとも、ご迷惑っすかね?」
 戸惑う長谷川に向かって、アサノは言葉を重ねる。秋谷の依頼を完遂するためにも、長谷川とは繋がっている方が都合がいい、ということもあったが……それよりも、とにかく長谷川を悩ませている原因を取り除いてやりたい、という思いの方が圧倒的に強かった。
 というよりも、言葉に出すその瞬間まで、すっかり依頼のことを忘れていた。まあ、結果的には長谷川のことを知ることができたからいいかな、と思うことにして、これからのことは後で考えようと決める。
 長谷川は、初対面のアサノからこんなことを言われるとは思わなかったのだろう、小林に助けを求めるような視線を向ける。小林は「お前も俺様に負けず劣らずのお人好しだなあ」と目を細めながらも、長谷川に視線を向けて言う。
「ああ、こいつ、こんななりだけど『守る』ことにかけちゃ右に出る奴いねえから。そういう意味じゃ、信頼していいぜ」
「ふふん、せいぜい敬い奉りなさい、コバヤシさん」
「はいはい、偉いねえアサノは」
「軽くあしらわれた! コバヤシさんのくせに生意気!」
「お前の方がよっぽど俺様のこと馬鹿にしてんじゃねえか」
 心外だ、と子供みたいに頬を膨らませる小林の顔を見て、アサノは思わず噴き出してしまった。小林も本気ではなかったのだろう、すぐにけたけたと笑ってみせた。
 そして、長谷川を見れば……下らないやり取りをしている二人を見て、緊張が解けたのか。ふわりと、初めて不安の影が消えた笑みを、浮かべていた。硬い蕾が不意にほころんだような、素敵な笑い方をする人だ。アサノは思いながら、ただただ長谷川の笑顔に見とれていた。
 すると、ぬっと横から伸ばされた小林の手に、軽く頭を小突かれた。
「なーにぼうっとしてんだよ、アサノ」
「ぼーっとしてませんよ! とにかく、あたしに出来ることがあれば遠慮なく言ってくれてだいじょぶっす。あたし、コバヤシさんより暇っすし、呼び出していただければコバヤシさんの代わりにボディーガード請け負いますよ」
 小林も苦笑しながら「それは助かるかも」と応じた。
 小林は先ほど言った通りの赤貧生活を送る苦学生だ。まだ大学生活一年目とはいえ、ただでさえ多忙な理系の学部に通いながらサークル活動をこなし、アルバイトをいくつも掛け持ちしている彼にとって、長谷川のボディーガードのために時間を割くのはなかなかの骨であるに違いない。
 アサノも、予備校の授業の時間があるために、全ての時間が自由に使えるわけではない……それに、秋谷への報告だって必要だ……が、それでも小林より自由なのは確かだ。
「でも、そんな……」
 なおも申し訳無さそうに俯く長谷川に、小林は諭すような声をかける。
「いいじゃねえか、アサノがやりてえって言ってんだし。あの馬鹿野郎が捕まるまでは、遠慮なく頼っとけ。大丈夫だ、俺様もアサノも、そう簡単にどうこうなったりはしねえよ」
 小林の言葉に、根拠らしい根拠は示されない。けれど、いつも彼の言葉は自信に満ちている。アサノはそう小林を評価している。小林の言葉には嘘がない。その真っ直ぐさがアサノにとっては眩しく、それでいて少しばかり羨ましくもあった。
 長谷川はしばし俯いていたが、やがて顔を上げてアサノを真っ直ぐに見据えた。
「……お願いして、よろしいですか?」
 恐る恐る、といった様子で投げかけられた言葉に対し、アサノはどんと胸を叩いた。
「もちろんっす! 泥船に乗ったつもりでどーんとお任せくだせえ!」
「 『大船』だろ。それ沈むじゃねえか」
「わかってますよ。お茶目な冗談じゃねっすか」
「お前の場合、冗談に聞こえねえから怖いんだよ」
 失礼な、とアサノは唇を尖らせる。アサノとて浪人とはいえ国語を最も得意とする文系の端くれ、日本語の語彙と使い方ならば小林に負けない自信がある。その他では何一つ勝てないとも思っているが。
 そんな軽口を叩き合っていると、ほんわかとした笑みを浮かべた長谷川が、改めて頭を下げた。
「よろしくお願いしますね、アサノさん」
 はい、とアサノも笑顔で応じてから、頭の中に一つのアイデアが閃いた。
「そうだ、報酬といっちゃなんですけど」
「はい?」
「あたし、実はここの日文目指してるんすよ。よかったら、どんな授業があるのか、とかどんなセンセがいるのか、とか教えてくれねっすかね?」
 一瞬何を言われるのかと身構えたように見えた長谷川は、アサノの言葉に柔らかな笑みをもって答えた。
「そんなことでよければ、喜んで」
 これで、話は決まった。
 長谷川と携帯の連絡先を交換し、いくつか大学に関する話をしているうちに、気づけば日が暮れ始めていた。
「そろそろ時間か」
「そうですね、では……」
 立ち上がり、それぞれが己の鞄を手に取ろうとしたその時、はずみで長谷川の鞄が椅子の上から転がり落ちた。
「あ、わっ」
 ばさばさ、と横倒しになった鞄から色々なものが床に落ちる。アサノは慌てて駆け寄って、長谷川と一緒に拾うのを手伝った。分厚い教科書とファイルからこぼれてしまったプリント、財布に小さなポーチを床から拾い上げている途中……ふと、アサノは手を止めた。
 アサノが指を伸ばそうとした先には、小さな手鏡があった。パステルの柔らかなトーンで統一された他の小物とは違い、手鏡だけは漆と思われる黒塗りの、やけに古風なものだった。鏡の面は床を向いていて、鏡が嵌っていない面には、和風の花の代名詞ともいえる牡丹の花が赤く咲き誇っていた。
 ざわり、と。アサノの中で何かが違和感を訴える。
 指を伸ばしてそっと鏡を手に取ったその瞬間、アサノの脳裏に、甲高い音と鮮明なイメージが響いた。思わず鏡を取り落としそうになったが、空中でもう一度鏡を掴みなおし、何とか惨事は防ぐ。
 けれど、一度脳裏に焼きついたイメージは消えない。闇の中に突然現れる光。それは目の奥の奥まで焼きつくような、強烈な光だった。光と音、この場ではないどこかの記憶。それはアサノの記憶ではなく……
「鏡! わ、割れてませんか?」
 どこか切羽詰まったような長谷川の声に、アサノははっと我に返る。目の前には、間抜け面をさらす童顔の女がいた。丸い枠の中に収まるもう一人のアサノは、目をぱちぱちさせなががら、じっとこちらを見つめ返している。紛れもなく、ただの鏡だ。
 ……なら、先ほどの幻視は、何だ?
 思いながらも、もう一人の自分から目を逸らして、長谷川に鏡を返した。
「平気みたいですよ。何だか素敵な鏡っすね」
「はい。これ……おばあちゃんの、形見なんです」
 そっと手鏡を握り締める長谷川の所作からは、本当に大切なものなのだ、という思いが伝わってくる。小林もアサノと同じようにそんな長谷川に見とれていたようだが、すぐに我に返ったのか残りの落ちたものを拾って長谷川に返した。
「ほら、お前らもぼーっとしてねえで、とっとと行くぞ」
「あ、はい」
 長谷川は落ちたものを詰め込んだ鞄の中身を確認し、全てのものが入ったことを認めたのだろう、一つ頷いた。それを合図にして、アサノも自分のリュックサックを背負って、カフェテリアを後にした。
 自転車を取りにいった小林を待っていると、長谷川がアサノに問うてきた。
「そういえば、アサノさんはどの辺にお住まいなのですか?」
「ああ、うちはこっから電車で二駅ってとこです」
「こいつ、大学を家からの近さで選ぶような奴だかんな」
 悪いっすか、と自転車を引いて戻ってきた小林をちょっとばかり睨む。
「うちから一番近い大学が、ちょうどよーくあたしの背丈に合ったランクだったってだけっす」
「その割に浪人してんじゃねえか。勉強しろよ、浪人生」
 それは言わないお約束だ、と思いながらむぅと唸る。そんなやり取りが面白かったのか、長谷川はくすくすと笑いながら言った。
「お二人は、本当に仲良しなのですね。ちょっと羨ましいです」
 アサノは、言われて思わず小林を凝視してしまう。小林も、反射的にアサノに視線を合わせて……慌てて弁解を始める。
「仲良し、って確かに仲はよいかもしれんが、別にそういう関係じゃねえぞ、俺ら」
「そうっすよ。そういやコバヤシさん、名前も知らない花屋のお嬢さんに一目惚れってマジすか」
「そ、その話どこで聞いた!」
 いつも滑らかな喋り方をする小林が露骨に噛んだということは、図星なのか。アサノはにやりと笑わずにはいられない。
「この前アキヤさんのダンナさんが言ってたっすよー。あれは恋する男の目だって」
「アスカ、後で絶対殴る」
 何か物騒な言葉を聞いてしまった気もするが、自分に危害が及ぶわけでないことだけは確かだったので、華麗にスルーすることに決めた。秋谷の夫がどうなろうと、アサノの知ったことではないのである。
 それよりも、一体何を話しているのだろう、と不思議そうな顔をしている長谷川に向き直ったアサノは、先ほどからずっと気になっていたことを確かめるべく言った。
「そうだ、ハセガワさん」
「何ですか?」
「さっきの鏡……もう一度、見せてもらってもよいすか」
「はい、どうぞ」
 長谷川は嫌がる風でもなく、アサノに鏡を貸してくれた。アサノの危なっかしさを知る小林が「落とすなよ」とからかいにも似た声を投げかけてくるが、それは無視して鏡の両面をしげしげと眺める。
 やはり、古いだけで何の変哲のない鏡だと思う。
 先ほどの幻視と幻聴は、アサノの勘違いだったのだろうか。それとも、この鏡は幻視とは何も関係なくて、単純にあの瞬間に何か電波を受け取ってしまっただけだろうか。
 常に目には見えないものを見ているアサノには、まれにあることだ。流れてくる「誰か」の思いがするりと自分の中に入り込んでくるような、感覚。単なる幻覚と断じてしまえばそれまでで、今までは自分でもそう思っていたが、秋谷や小林から「それもまた一つの才能だ」と言われてから心が楽になったのを覚えている。
「綺麗な鏡だよな。大切に使ってるってのがわかるよ」
 鏡に映るアサノの後ろから、緑と青の瞳がぬっと現れる。小林がアサノの背後に回りこんで、鏡を覗きこんだのだ。「そうっすよ」と同意しながら長谷川を見ると、まるで自分が褒められたかのように、嬉しそうに微笑みながら、言った。
「おばあちゃんが使っているのを見て、すごく素敵な鏡だなと思って。それで、譲ってもらったんです。その時に教わったおまじない、今でもよく覚えてます」
「おまじない?」
 おまじないというよりも、自己暗示みたいなものですけど、と苦笑しながら言った長谷川は、アサノから鏡を受け取って自分の顔をそこに映す。
「不安になったり、自分が嫌になったり。そういう時には、鏡の中の自分に向かって言うんです。『あなたが笑えばわたしも笑う。向かい合わせ、背中合わせ、いつでもここにいる、あなたはひとりじゃない』って」
 向かい合わせ、背中合わせ。
 アサノもつられて口の中で呟きながら、牡丹の描かれる手鏡を見つめる。
「こうやって唱えると、少しだけ、心が楽になるんです。どんなに酷い顔をしている日でも、鏡を見ていると少しだけ笑えるような、そんな気持ちになります」
 それは確かに「自己暗示」に近いな、と今まで黙り込んでいた小林が言う。己を『元神様』と称する割に、オカルティックなものを好まない小林らしい分析であるが、アサノも同じように思った。
 鏡の中の自分が笑顔になれば、現実の自分も笑っている。そうやって、鏡というものを通して自分自身の意識を少しだけ上向きにする技術。アサノにとって鏡は単純に自分の姿を反転して映すものでしかなかっただけに、長谷川の『おまじない』は興味深かった。
「今度、あたしも試してみるっすかねえ」
「アサノ、お前、おまじないが必要なほど落ち込むことってあんのか?」
「ねえっすけど、コバヤシさんはいつもあたしに対して失礼じゃねっすか」
 そうか? と小林は自覚ないとばかりに首を傾げた。まあ、小林の回答には期待をしていない。小林はアサノに対して失礼だが、大概アサノに限らず誰に対しても失礼だ。この男にデリカシーというものを期待してはならない、というのはよくよく理解している。
 首を捻り続ける小林は横に置いて、長谷川に意識を戻す。長谷川は今自分が置かれている状況を思い出したのか、不安げな表情で鏡を覗きこんでいる。アサノは軽く長谷川の肩を叩いて、にっと歯を見せて笑ってみせる。
「だいじょぶっすよ。きっと、すぐに解決しますから」
「……はい。ありがとう、ございます」
 そう言った長谷川は、少しだけ笑った。
 
 
 長谷川梢を無事アパートに送り届け、アサノは夕焼けに染まっていく道を、小林と共に歩く。別に一緒に帰ろうと言ったわけではないのだが、途中までは同じ道を通るのだ、あえて別れる理由もない。
 それに、長谷川と別れたからには、小林を呼び出した本当の理由を話す必要もあった。
 結局、先に話を切り出したのは小林の方だった。からから、と自転車の車輪が回る音をバックグラウンド・ミュージックに、しゃがれた声を響かせる。
「……で、何でお前さんはコズエを探してたんだ?」
「アキヤさんの、お手伝いっす」
「探偵の仕事か」
「です」
 アサノは長身の小林を見上げて頷いた。夕日に照らされて仄赤く染まっているように見える小林は、無骨な指で薄い色の顎をさすりながら言う。
「俺様、話を聞いていいのか?」
「今回は依頼の内容も内容なんで、コバヤシさんに全面的に頼れってアキヤさんは言ってました。コバヤシさんは基本的に口が堅いから喋ってもだいじょぶ、ってことらしいっす」
「信頼されてんのはありがてえが、相変わらずいい加減だな、あの人も」
 だから仕事もろくに来ねえんだよ、と小林は苦笑するが、仕事が来ない原因はそれだけではないだろう、とアサノはこっそり思う。例えば、探偵秋谷静の格好は、決してセンスがよいとは言えないアサノの斜め上を行くエキセントリックさを誇る。どこからどう見ても探偵には見えない見た目、それが客足を遠ざけている大きな理由の一つである気がしてならない。
 とはいえ、本当の原因がどこにあるにせよ、秋谷がまともに探偵業を営む気がないことは見ればすぐにでもわかることであり、小林も重々承知しているのだろう、呆れた溜息をつきながらも話を元に戻す。
「で、アキヤさんに頼んでコズエを探してる奴がいるのか」
「正確には調べてきて欲しいってことなんす。しんぺんちょーさって奴っすね」
「身辺調査の対象にいきなり接触しようとするとはチャレンジャーだなお前も」
 それは、もっともな指摘であった。アサノも「本当だ!」と叫んだが、叫んでから秋谷の言っていたことを思い出して気を取り直す。
「や、まあ詳しい諸々は、秋谷さんが調べてくれるはずなんでだいじょぶっす。あたしの第一のお仕事は、ハセガワさんがどういう人なのか知ることだったんで無問題っす。多分。多分」
「多分、って辺りがすげえ不安だ」
 小林はげっそりとした顔になって、素直な感想を言葉にした。アサノも己の行動の浅はかさに自分自身で不安になる。小林が長谷川の知り合いであったからよかったようなもので、知り合いでなかった場合、もし長谷川を見つけられたとしても、自分はどう長谷川にアプローチするつもりだったのだろう。一番大事な部分をさっぱり考えていなかったことに気づく。
 考えれば考えるほど、自分が情けなくなってくるけれど。
「ま、結果オーライっすよ!」
 何だかんだで運よく長谷川と接触し、怪しまれることもなかったのだから問題ないじゃないか、いう結論に達してしまうのが楽天家のアサノであった。
「お前さんって、本当にそういうところはやたら前向きだよな」
「えへへー、コバヤシさんに褒められちゃいました」
「あんまり褒めてねんだけどな」
 それじゃあ馬鹿にされたんだろうか、と思わなくもなかったが、それに対する疑問符を投げかけるよりも先に、真面目な顔に戻った小林が口を開いた。
「で、その依頼人ってのはどんな奴だったんだ?」
「それが、いのーふの代行者さんなんすよ」
「マジで?」
 小林は露骨な嫌悪を言葉に滲ませた。こういうところが、素直で誤魔化しのない性格の現われ……と言えば聞こえはいいが、単純に感情の制御が苦手なだけともいえる。アサノは、その欠点も含めて小林巽という男を好ましく思ってはいるが。
 眉を顰めたまま、虚空を見上げて肩を竦める小林。
「人のことは言えんが、シズカさんといや異能府に蛇蝎の如く嫌われてる代表じゃねえか。どういう風の吹き回しだよ」
「あ、でも正式な異能府の依頼ってわけじゃなくて、あくまで代行者さんの個人的な依頼だってことらしいっすが」
「個人的なあ? シズカさん、何か騙されてんじゃねえのか?」
 アサノは詳細を知らないが、小林も色々な事情で何度か異能府と関わったことがある身であり、何度か痛い目に遭わされたとも聞く。疑り深くなるのも当然なのかもしれない……そう思いながら、アサノは小林の金茶の髪の先端に視線を向けて言う。
「かもしれません。アキヤさんも依頼人の素性を気にしてましたし、単なる調査かと思ったら何かきな臭い事件絡んでるみたいですし」
「こりゃ、俺様から直接シズカさんに話した方がよさそうだな。アサノ、明日は事務所か?」
「はい。アキヤさんへの報告もあるんで」
「なら、俺様も午前中に行く。詳しい話はそん時だ。じゃ、また明日」
 話しながら歩いているうちに、いつの間にか小林の住むアパートの近くまで来ていたらしい。ここからはアサノとは別の道を通ることになるため、小林は挨拶の言葉もそこそこに、たんぽぽ色の自転車に跨ってペダルを踏んでいた。即座に遠ざかっていく黄色い背中に向けて、アサノは見えていないとわかっても手を振って、その背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
 どこか超然とした雰囲気を持っていた田中の姿と、不安に笑顔を曇らせていた長谷川の姿が交互に脳裏に蘇る。
 異能でもない人物の身辺調査を依頼する異能府の代行者に、何者ともわからない男にしつこく追われている女……
「何だか、厄介なことになっちまいましたねえ、クジラさん」
 アサノの声が聞こえているのかいないのか、紅の空を泳ぐ鯨はまん丸い目をぱちりとさせた。