ロンリームーン・ロンリーガール

ロンリーガール:5

 結論から言えば、男は今日も公園にいた。
「おはよ」
「おはよう」
 ライカが、待ってましたとばかりに男に駆け寄る。男は微笑を浮かべてライカの喉の辺りを撫でてやる。
 男のやることは普段と何ら変わらないけれど、ベンチに腰掛けた男を見下ろせば、男はいつになく真面目な表情で何かをヒトミに言おうと、言葉を探しているように見えた。
 果たして、そんな男にどう声をかければいいのか。躊躇したが、躊躇ってばかりではどうしようもない。ヒトミは思い切って言った。
「昨日は、ごめん。急に、泣き出したりして」
 男は一瞬きょとんとしてから……顔をくしゃりと歪めて笑った。
「ああ、気にしてねえよ。そういう気分の時もあるだろ」
 少しくらいは気にして欲しいけど、と思ってしまう辺り、自分の中に住まう天邪鬼は本物だ。流石に言葉にはしなかったものの、ヒトミの表情から考えを読み取ったのか男は笑みをにやりとしたものに変える。
「何、泣き顔も可愛かったよ?」
「バカ言わないで」
 この男に言われても、さっぱり嬉しくない。
 何となく、この男が女に振られた理由もわかった気がする。人の様子はよく見ているし、相手の感情を読む能力も的確。しかし、致命的に一言多い。わざとやっているようには見えない辺りが、余計にたち悪い。
「結構本気なのになあ」
「惚れた?」
「うーん、振られたばかりですぐ惚れるってのも、軽い男って思われそうで嫌だな」
「言われなくとも、軽い男に見えるけど」
「うわ、ひどっ」
 そんなやり取りを経て、少しだけ気持ちが軽くなる。男もそうだったのだろう、「座らないの?」と気安く横を指す。ヒトミは言われるままに横に座った。ライカによじ登られている男とヒトミは、並んで桜の木々を見やる。
 桜は、もうすぐ満開と言えるくらいまで花開いていた。
「……桜、好き?」
 ヒトミは、男に問うた。問いに深い意味は無かったが、男はライカの頭を撫でながら目を細めて答える。
「好きだな。すぐに散る所とか、寂しいけれど、だからこそ綺麗だと思う」
「それ、兄貴も全く同じこと言ってたな」
「兄貴?」
 男は不思議そうな顔になってヒトミを見た。ヒトミも男を見上げて、口端をわざとらしく歪めて笑う。
「私の兄貴。月に行って、死んじゃったんだけどね」
 兄のことを、自分の口から話すのは初めてだった。
 ヒトミの周りの人間は宇宙飛行士の兄を知らないはずがなかったし、あの事件の後に知り会う人間も、ヒトミの名前を聞けばすぐに兄について尋ねてきた。
 だが、お互いの名前も知らないこの男には、話せる。
 始めから最後まで、自分の言葉で。
 一年の間語ることのできなかった思いを、語ることができる。
 驚きの表情を浮かべる男に、ヒトミは無理やり笑いかける。
「兄貴は、昔から月に行きたいって、そればっかりだった。あんな砂ばかりの寂しい場所に行って何が楽しいんだって思ってたけど……兄貴曰く、『寂しいから、綺麗だ』って。桜も同じ理由で好きなんだって」
 言いながら桜の花に向かって腕を伸ばす。少し離れた場所で咲く桜は、淡く赤みがかった白い花を春の風に揺らしている。すぐに散ってしまうとわかっていても、咲くたびに見上げずにはいられない、儚い花。
「変な人だったけど、月に行きたいっていう夢だけは本物だった。必死に勉強して、国の宇宙飛行士の試験にも受かって、それで月に行ったんだ」
『ヒトミ、聞けよ! ついに、月に届くんだ!』
 兄の言葉を聞いた瞬間はただ驚くばかりで、一緒に喜べたかどうかは覚えていない。何しろ、一昔前よりはずっと宇宙に行きやすい時代になったものの、まだ宇宙飛行士になれるのは一握りどころか一つまみ以下。
 兄が、その一人になったのだ、驚かないはずはない。
 それから、兄はほとんど家に戻ってこなくなった。最後に直接顔を見たのは、月へ飛び立つ直前。兄は子供のような笑みを浮かべて、人前だというのにヒトミの額に小さく口付けて言ったのだった。
『月の土産、楽しみにしてろよ!』
 ――と。
「それから、通信はよく来たけど、一度も家には帰ってこなくてさ。一年前、『桜の季節には帰る』って言ったのに、二度と戻ってこない」
「 『ディアナ』の事故か」
 男の声は、重かった。重みを確かに受け止めながら、ヒトミは笑みを消して、頷く。
 沈黙する二人の間を、若草と花の香りを乗せた風が駆け抜けていく。桜を愛した兄がいなくとも、お構いなしに春は来る。桜の季節は、ここまで来ているのだ。
 しばし押し黙っていた男が、ゆっくりと唇を開く。
「アイハラ・ヒサノリ」
「え?」
「月探査船『マリーチ』の搭乗員で、一年間『ディアナ』に滞在した宇宙飛行士。一年前の事故で、死亡が確認されている……で、合ってるよな?」
 それは紛れもなく、ヒトミの兄のこと。
 男はそこで言葉を切って、ヒトミを見つめた。
「そっか、お前の兄貴だったか」
 ――哀れみなら要らない。
 そう言い返そうとしたが、男に見出せる感情はヒトミの想像するようなものではなかった。驚きと、何かを決意したかのような、不思議な目で真っ直ぐヒトミを見据えていた。
「これも、縁ってやつだな」
「どういうこと?」
 ヒトミの問いには答えないまま、男が勢いよく立ち上がる。ライカの灰色の頭をくしゃりと撫でて、ヒトミを振り返った。
「なあ、お前はどう思ってるんだ?」
 どう、というのは兄についてか、兄の死についてか。どちらとも取れる質問だったが、どちらにせよ答えは決まっていた。笑って、何度言ったかもわからない文句を言い放つ。
「兄貴は幸せだったと思うよ。行きたい場所に行けて、夢見た場所で死ねたんだから」
「違う」
 大きな桜の木を背負って言い切った男は、決して格好良くなんてなかったけれど。
 真っ直ぐにこちらを見据える瞳からは、どうしても目を逸らすことは出来なかった。
 
「俺が聞きたいのは、『お前が』どう思ってるか、だ」
 
 その瞬間。
 笑っていたはずなのに、不意に、涙がこぼれた。
 別に、思い出して悲しくなったからとか、そんなつまらない理由じゃない。
 この一年間、無意識に求め続けていた問いは、それだったのだ。兄があんな形でいなくなって、辛いだろう、悲しいだろうと、慰めてくれる人はいくらでもいたけれど。
 誰でもない、ヒトミの思いを「聞いて」くれた人は、一人もいなかった。
 だから。
 ヒトミは、頬を流れる涙も拭かずに、心のままに叫んでいた。
「寂しいよ!」
 もう辛くはない。悲しくもない。
 ただ、胸にぽっかりと開いてしまった穴は、ずっと埋まることはない。
 ――そう、この感情の名前は、「寂しい」。
 膝の上で、爪が食い込むほどに強く両手を握りしめて、ずっと胸の中に閉じ込めていた思いを、名前も知らない男に向かって吐き出す。
「寂しいんだ! だって、ずっと側にいたのに、いてくれるだけでよかったのに、どんどん遠くへ行くんだ……届かない場所まで、行くんだ!」
 今の自分はぼろぼろだ。きっと見ていられる顔じゃない。
 心の片隅で思うけれど、一度言葉にしてしまえば、止めることはできない。
「わかってる、兄貴は幸せだった。幸せだったから、余計に悔しいんだ、この寂しさを、どうしていいかわからないんだよ……っ!」
 もう、そこからは言葉にならなかった。喉から漏れるのは嗚咽だけになって、ヒトミは両手で顔を覆った。
 兄が消えてから一年、こんな気持ちになるのは初めてだった。胸に開いた穴が、心細い音を立てているような心持ち。不安で、切なくて、苦しい。
 すると、顔を覆って俯くヒトミの頭の上に、何かが載せられた。それは、目の前に立つ男の手だったのだろう。細い体躯には似合わぬ、大きな温かい手だと思う。記憶の中の兄も、よくこうやって頭を撫でてくれたと思い出す。
「……今日の八時ごろ、ここに来いよ」
 ヒトミは答えない。嗚咽がひどくて答えるに答えられなかったし、男の言っていることがわからなかったというのもある。
「花見しようぜ、夜桜もいいもんだし。お前の兄貴も、花見、したがってたんだろ」
 花見をしたいと言っていたことまでは言っていなかったはずだが、間違っていなかったため、俯いたままこくりと頷く。
 それだけで男は満足だったのだろう。ヒトミの頭から手を離し、笑った。
「友達呼んで、待ってるからさ。ライカもつれて来いよ」
「うん」
 かろうじて、答えることができた。足元の砂利を蹴る音と共に、微かにオイルの香りを纏った気配が離れていく。少しだけ目を上げれば、男はひらひらと、背を向けたまま手を振っていた。
 手を振り返すことは出来なかったけれど、その代わりにずっと、ずっと、姿が見えなくなるまで、男の背中を見つめていた。