『ディアナ』。
それは、一年前に崩壊したはずの、月基地ではなかったか。
呆然とするケーリと博士に、ミドリノは畳み掛ける。
「おそらく、一部の通信施設の機能が生きているのでしょう。そこを介して、この通信が送られてきている」
「信じられないわ」
「俺だって信じられませんよ。ただ、公にはされてませんが、数週間前に国の研究機関も『ディアナ』からの通信を受け取っているという記録があります。ここまではっきりとしたメッセージではないみたいですが」
ミドリノの言葉に、博士が腕を組んで唸った。
「確かに、『ディアナ』では面白い研究をしていた、と聞いているけど……」
面白い研究? とケーリが首を傾げる。ミドリノも博士が何を言い出したのかわからなかったらしく、ケーリと並んで首を傾げた。博士は机の下からバインダーを出し、一発で目当てのページを開いて二人に示す。
薄明かりに照らされたそのページには、一昔前の新聞記事がスクラップされていた。
内容は、こうだ。
『月に知的生命体か。「ディアナ」にて交信開始』
「ああ、これですか。結局ガセだったっていう」
ケーリもこのニュースは覚えている。博士が普段になく騒いでいたということもあるし、流石にこの時には家族も、クラスメイトもその話で持ちきりだった。誰もが、宇宙人の存在を期待し、続報を待ち望んだのだ。
だが、『ディアナ』側はこのニュースを否定し、騒ぎはあっさり収束してしまった。それ以来、博士もこのニュースの話題をすることはなかった。
呆れるミドリノに対し、博士はかぶりを振った。
「これ、実はガセじゃないの。友人の飛行士がこっそり教えてくれたんだけど、情報を隠したんだって」
「隠した?」
「知られたくなかったか、『まだ』伝えるべきことじゃなかったか。私は後者だと思ってる」
「確かに、事実ならば騒ぎは免れませんし、開発中の『ディアナ』自体にも影響が出かねない、ってところですか」
「そうね。でも、研究していた『ディアナ』はもう無い。研究の事実すら、外に出さなかったお陰で完全に消えてしまった……と、思ってたんだけどね」
ケーリはメッセージを映し出したままのディスプレイに視線を向ける。もう、存在しないはずの場所から送られてくるメッセージ。博士はケーリの視線に気づいたのか、小さく息をついて、言った。
「まあ、真実は『本人』に聞いてみた方が早いかしらね。ケーリくん、お願い」
ケーリはこくりと頷き、額に乗せていたバイザーを下ろし、質問を入力する。
『質問。この通信は、「ディアナ」からのもの?』
問いに対し、かかる時間は普段よりも長く感じられたし、壁の電波時計を見る限り普段より実際に長かった。答えに迷っているのだろうか、と思い始めた時、返事が来た。
『はい。「ディアナ」の通信機能を借りています』
『 「ディアナ」は一年前に壊れたはず』
『はい。もうすぐ、この通信も途絶えるでしょう』
ケーリと博士、ミドリノは顔を見合わせた。
博士に無言のままに促され、ケーリは慌てて新たな質問を打ち込む。
『それは本当ですか?』
『事実です。明日か、明後日かは不明ですが、もうすぐです』
これには、全員が沈黙するしかなかった。
しばし、ケーリは何を言っていいものかわからなかったため、キーボードを打つ手を止めていたが、一番聞かなくてはいけなかったことをまだ聞いていなかったことに気づき、今度はゆっくりと、言葉を選んで……しかし結局一番シンプルな形の質問を入力した。
『質問。あなたは誰?』
『私は、「月」です。「月」という名であると、ヒサが教えてくれました』
「ヒサ……って誰かしら?」
「もしかして、アイハラ・ヒサノリじゃないですか。『ディアナ』の飛行士」
首を傾げる博士に、ミドリノが助け舟を出す。その名前には、ケーリも聞き覚えがある。日本から『ディアナ』に行った数少ない宇宙飛行士の一人であり、ここからそう遠くない場所に住んでいたという。
もちろん、『ディアナ』が崩壊したためこの飛行士も故人だ。
「それにしても一体、『ディアナ』は何の研究をしていたんですか、『月』って……」
ミドリノが言いかけたところで、ディスプレイに自動的に新たな文章が追加されていく。
『月』からの、メッセージが。
『ヒサは、私の声を聞き、私に言葉を教えてくれました。
私が「月」であり、天体と呼ばれる存在であると教えてくれました。その他にも色々なことを教えてくれました。私を引き寄せるものの名前が「地球」であること。ヒサたちはそこから来た「人間」であること』
だから、『月』と名乗ったのだ。
ケーリもやっと理解した。
自分が交信していた相手は、宇宙人などではない。今まさに窓の外に広がる碧空に浮かんでいる天体……月そのものだったのだ。
『色々なものに、名前があると知りました。
私が見ているもの、感じているもの、そして私の知らないものにも名前があるのだと知りました。「知る」ということも、知りました。
しかし、もうヒサはどこにもいません。
それが「死ぬ」ということだと、最後にヒサは言いました』
月に考える力や心があるなんて、にわかには信じられない。だが、誰が「心がない」と確かめたことがあっただろう。心の存在が人間に理解できなかったとしても、心が「ない」という証拠にはならない。
呆然としながらも、ケーリは月の言葉を受け止める。
『ヒサが死んでも、私はもっと知りたかったのです。
私のこと。地球のこと。人間のこと。
知りたくて、知りたくて、残された「ディアナ」の通信を借りて、どうしても地球に生きている人間の言葉を聞きたいと思っていました。
だから、ケーリと話すことができてとても嬉しかったのです。
ケーリと話していると、寂しいと思う気持ちが消えました。
ケーリのお陰で、知らなかったことを新しく知ることができました。
しかし、私にはもう、時間が残されていません』
「残った『ディアナ』の通信機能も、長くはもたないってことですか」
「多分そうでしょうね……」
ケーリは、囁く二人の声が随分遠くから聞こえるような気がした。
今のケーリの心は、ただ月の声にだけ向けられていた。月から届くメッセージは味気ない電子の文字列でしか示されないけれど、ケーリは確かに月の声を聞いた気がした。
ほら、耳を澄ませば、透き通った硝子のような声がケーリの耳に囁く。
『だから、最後に一つだけ。
私のわがままを、聞いてくれませんか』
「……聞くよ」
ケーリは、ぽつりと、言葉を落とす。
目を上げれば、バイザー越しに天井に貼り付けられた『ディアナ』のポスターが目に入る。黒い空に、白い大地。不思議な形をした基地の前で、宇宙服を着た人々が肩を組んでいる。
一年前からずっと、一人きりの月はこの夢を見ていたのだ。
自分の上で、月に夢をかけた宇宙飛行士達が笑いあっている、そんな寂しくも綺麗な夢を。
そんな月のために自分ができることは、ただ一つ。
『教えて。僕らが、叶えるよ』
ロンリームーン・ロンリーガール