家に帰ってすぐに、ヒトミは自分の部屋に逃げ込んだ。
泣き顔を見た親が「何があったのか」と心配していたけれど、その言葉すらも無視して部屋の中に駆け込み、ベッドの上に転がった。ベッドの下ではライカが床に腹ばいになって、こちらを見上げている。
「ごめんね、ライカ」
腕を伸ばして、ライカの灰色の毛を撫でる。心地よい温もりに触れて、やっとのことで心が落ち着いてきた。
「……あの人と、遊びたかったよね」
ライカは答えない。当然だ、犬が返事をしてくれるはずもない。ただ、ヒトミの目から見る限り、ライカはしゅんとしているようにも見えた。
自分だって、本当はもう少しあの場所にいたかった。男の話を聞いていたかった。お互いのことを何も知らないからこそ、あの男と他愛のない話をしていたかった。
「ダメだ、私」
忘れよう、忘れようと思っていたのに、こんな下らないことで泣き出してしまうなんて。涙はとっくに枯れたと思っていた。一ヶ月で、泣くことを止めて、二ヶ月で何事もなかったかのように振る舞えるようになった。
あの人を「かわいそうに」と言う人もいるが、それは違う。
あの人は、最後の瞬間まで幸せだった。
幸せだったことを、疑っていなかった。
いつもは伏せたままの枕元の写真立てを、無造作に起こす。一年前からずっとそのままだった写真立ては埃をかぶっていて、指先にざらりとした感覚を残す。
写真に写っていたのは、今まで顔も思い出さないようにしていたあの人……青い空を背景に笑う兄と、小さな自分。やっぱり、兄の顔は公園で会う男とはさっぱり似てなくて、悲しく思う以前に笑えた。
確か、家族でキャンプに行ったときの写真だったと思う。年の離れた兄は、危なっかしいヒトミの手を引いて、いつも鼻歌を歌っていた。どれもこれも、月が出てくる歌。その中でも一番好きだった、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』。
兄は、夢を叶えたのだ……どういう形であろうとも、どんな結末を迎えようとも、それだけは変わらない事実。
なのに、どうして涙が出てくるのか。兄が二度と戻ってこないという現実が、今になって切々と胸を締め付けるのか。
「もう一年経ったよ、兄貴」
写真をかざして、ヒトミは届かない声をかける。
「桜、咲いてるよ」
『桜の季節には、一度戻るよ』
一年前、はるか遠くから届いたメッセージで、
『あの公園で、また花見をしよう。友達も集めて』
と、言っていたじゃないか。
また涙が溢れそうになって、袖で乱暴に涙を拭う。こんなの、ひと時の気の迷いだ。桜とか歌とか、そんなつまらないきっかけで思い出してしまっただけ。すぐに、今までどおりに「思い出さない」ことにできる。
だけど。
本当に、それでいいのだろうか。
のろのろとベッドの上に体を起こすと、ライカも起き上がって、ヒトミの膝の上に前足を置いた。ヒトミはそんなライカの体を引き寄せて、強く抱きしめる。
ライカは何も言わない。言わないけれど。
「お前に慰められるとか、情けないなあ、ホントに」
あの男の言い回しを真似て、ヒトミは涙目ながらもくすりと笑う。
明日も、男は同じようにベンチに座っていてくれるだろうか。
謝らなくては。突然泣き出して、逃げ出したりして。変な奴だと思っただろうし、あんな風に言われれば嫌な気分になるに違いない。
それから、許されるならば話してしまいたかった。この胸の中にずっとわだかまっていたものを。一番届けたい人には届かない、話しても仕方ない、それでいて誰かに話したくて仕方ない思いを。
迷惑だろうけど、あの男なら、きっと聞いてくれる。
根拠もなく、そう思った。
ロンリームーン・ロンリーガール