ヒトミは、ベンチに腰掛けて日に日に満開に近づいていく桜を見上げていた。
ライカも、ヒトミの片手にリードを握らせて、地面に寝そべっている。普段通りの大人しいライカだ。
男は、まだ来ていない。
無意識に男が訪れるのを待っている自分に気づいて、ヒトミは「ありえない」と思う。
名前も知らない男だ。年齢だってわからない。大学生だと言っていたから、さして年が離れているわけではないと思うが、何年生なのか、何を学んでいるのかも知らない。
ただ、現に夢を見ているような目つきといい、しっかりしているように見えてどこか現実離れした言動といい。脳裏に焼きついたままのあの人と、似ている。顔は全然似ていないのに、と思えばほんの少しだけ、笑えた。
思えば、ライカの名前をつけたのだって、あの人だったのだ。
「犬と言えば、ライカだろう」
そんなことを言い出すのは、世界を探しても三人いればいいところだろう。最後の最後まで、あの人のセンスはよくわからなかった。
手を繋いでいたって、視線は常に空……その向こうの宇宙に向けられていて、片手は常に、届くはずのない月にかかっていた。側にいても、心はここにはない。そんな人だったと思い出す。
そんな人が、遠くに行ってしまうのも当然で。
あの人が好きだった歌を口ずさみながら、ヒトミは桜を見る。あの人は、桜の花も好きだった。だから、今まではこうやって桜を見上げるのも嫌だったのに、今だけはそんな気持ちでもなかった。
ただ綺麗だな、と思いながら、歌詞がわからない歌を歌い続ける。
果たして、鼻歌で歌っていたあの人は、この歌の歌詞を知っていたのだろうか……
「 『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』、か」
突如、声をかけられて、ヒトミは慌てて歌をやめた。声が聞こえてきた方を見れば、男が口元に微かな笑みを浮かべながらすぐ側に立っていて、ライカがその足元にじゃれついている。
ぼうっとしていた上に、歌まで聞かれてしまったことが恥ずかしくて、同時にちょっと悔しくて、俯きがちに言う。
「気配を消して近づくとはいい度胸ね」
「別に気配を消したつもりはねえよ。歌、上手いな」
「言わないで」
ただでさえ、恥ずかしいのだから。
ヒトミが睨みつけたものだから、男は「悪かった」と笑いながらひらひらと手を振る。
「でも、随分古い歌を知ってるんだな」
映画やアニメーションにも使われるスタンダード・ナンバーではあるが、流行の歌とは程遠い。不思議そうな顔をする男に、ヒトミはわざとぶっきらぼうな口調で返す。
「歌詞は知らないけど」
「直球のラブソングだ。俺も好きだよ」
私を月まで連れてって。
星たちの間で歌わせて。
火星や木星の春を見せて。
つまり、私の手を握って、キスして……
「知らなかった。そんな歌だったんだ」
ヒトミは目を丸くすると同時に、何故か胸が強く、強く締め付けられるような感覚に囚われる。そんなヒトミの反応を見て、男は苦笑を浮かべた。
「どんな歌だと思ってたんだ」
「月に行きたいな、って歌?」
最低でも、この歌が好きだった人はそのつもりで歌っていた、とヒトミは確信している。男はやれやれとばかりに肩を竦めてみせる。
「あのなあ、それは『側にいて欲しい、愛して欲しい、愛してる』って意味だぜ」
フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。
私を月まで連れてって。
歌詞も知らずに、手の届かぬ場所への憧れを歌うあの人は、もうどこにもいない。
歌詞に歌われている「手を握って、側にいて欲しい」なんて、ほんのささやかな願いすら届かないのだ。
――二度と。
「何で、それ、早く教えてくれないのさ」
理不尽なことを言っているのは自分でもわかっている。男は一昨日出会ったばかりで、ヒトミの名前も、何も知らないのだから。それに、たとえ男と一年前に出会っていたとしても、この事実を知っていたとしても、結末が変わるわけでもない。
あの人は、元より歌詞どおりの意味でこの歌を歌ってはいなかったのだから。
それでも、言わずには、いられなかった。
「何でって言われても……って」
案の定、戸惑いを浮かべた男は、放とうとした言葉を飲み込む。一瞬にして、とても長く感じられる沈黙の後に、男は言った。
「もしかして、泣いてるのか?」
「泣いてない! 帰る!」
ヒトミは俯いたまま、立ち上がってライカのリードを引いた。ライカは一瞬名残惜しそうに男を見たが、今回ばかりは大人しくヒトミに従った。男が呼び止めようとこちらに手を伸ばしたのが見えたが、無視して駆け出す。
何で、涙が出てくるのかわからない。全ては過ぎた話、誰のせいでもなく、あの人は最後まで幸せで。それで終わりにした、はずだったのに。
フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。
月になんて、連れてってくれなくていい。
ただ、側にいて欲しかった。手を握っていて欲しかった。それだけなのに。
それだけなのに……!
息が切れても、足は止められない。今、男に呼び止められたら、本当に声を上げて泣き出してしまうかもしれなかったから。あの軽薄な男にそんな姿を見られるのは、ごめんだった。
ガードレールに手をついて、息を整えて……下を向くと、ぽつりと涙の雫がアスファルトに落ちた。それを引き金にして、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。
「ねえ、何で、逝っちゃったのさ」
胸の中に渦巻くやり場のない思いは、言葉として吐き出され、
「答えろよ、兄貴……!」
答える者のないまま、虚空へと、消えていく。
ロンリームーン・ロンリーガール