ケーリは、研究室の前で途方に暮れていた。
普段は開けっ放しになっている研究室の扉は今日だけは硬く閉ざされていて、ご丁寧にもケーリの身長に合わせた位置に、『立ち入り禁止』のプレートが揺れている。
たまに、こういうことがある。
普段は「小さい頃から勉強熱心なのはいいことよ」と、ケーリが来れば喜んで研究室に招き入れ、研究の片手間に星や宇宙に関する色々なことを教えてくれる博士だが、本気で研究に没頭すると、研究室に誰も立ち入らせようとしない。
昨日、アンテナが拾った波の解析を、まだ続けているのだろう。こうなってしまうと、食事も取らなくなってしまうからちょっとだけ不安だ。一度は、一週間くらい研究室から出ずに、救急車を呼ぶ騒ぎになったこともあるらしい。それは、ケーリが博士の家に通うようになる前の話だが。
最近では、父がケーリを博士に紹介したのも、自分を通して博士の健康状況を知るためではないかと思い始めている。
とにかく、研究室の前で突っ立っていても仕方ない。今日は大人しく帰ろうと思ったとき、軋んだ音を立てて研究室の扉が内側から開いた。ぎょっとしてそちらを見やれば、扉の向こうから現れた博士が、ぎらぎらと充血した目を輝かせてケーリを見つめ……言った。
「ケーリくん、ちょうど良かった。ちょっと来て」
「はぁ」
ケーリが気の抜けた声を上げると、博士はそれを肯定と受け取ったのだろう、白衣を翻して颯爽と研究室の中に戻っていった。何とも勝手なものだが、こうなっては博士に従うほかない。
研究室は、普段以上に薄暗い。元々カーテンを引いてある上に、明かりまで落としてあるからだ。部屋を照らしているのは、ブラウン管ディスプレイが自ら放つ光のみ。その微かな光に照らされた、部屋を彩る天体写真はまるで本当の宇宙にいるような錯覚を生み出していた。
椅子に腰掛けた博士は、顎でディスプレイを示す。とはいえ、相変わらずディスプレイに映し出されていたのはケーリには読めない文字列だった。昨日見たような不思議な記号や数字は少なくなっていて、英語の文章としては読めるのだろうが、残念ながら英語はまだ習っていない。
「博士、読めません」
「ああ、ごめん、気づかなかった」
単に気づいていなかっただけの博士は、画面上に翻訳ソフトを立ち上げる。翻訳ソフトを介して表示される日本語はいい加減おかしな訳も多かったが、おかしな場所は博士が説明を入れてくれた。
それによれば、大体こんな文章だった。
『こんにちは。
私の声を聞いてくださりありがとうございます。
私は、「月」です』
「 『月』?」
ケーリの目が、ディスプレイに釘付けになる。
「月って、空に浮かぶあの月ですか」
「わからないの。今、このメッセージの出所について、ミドリノくんにも調べてもらっているんだけど」
ミドリノ、というのは研究所の助手……と博士は呼ぶが、実際には単なる「近所のお手伝いさん」の学生のことである。
四六時中博士のいいように使われているミドリノは、常に「単位」が足らないと嘆いているが、小学生のケーリはミドリノの言う「単位」がどのようなものかは知らない。ミドリノの言葉を聞く限り、足らないと困るものだということだけはわかる。
最低でも、ミリメートルとかの仲間ではないだろう。
そんなミドリノは、家からめったに外に出ようとしない博士の代わりに、外界の情報を仕入れる係である。また、このように細かい調査が必要になる時に、博士と別の方法で調査をするのも彼の役目だった。今もきっと、学校か家でこのメッセージの発信元について調べているに違いない。
ケーリは、いつか自分もミドリノのように博士の役に立てればいいのだけど、と思いつつアンテナが受け取ったメッセージを読み進める。
『このメッセージを受け取ったあなたは、どんな人でしょうか。
どんな場所で、どんな風に、生きているのでしょうか。
私は、あなたのことが知りたいのです』
何故だろう。
目の前に映し出されているのは、味気ない、ゼロとイチで構成された電子の文字列に過ぎないのに、言葉が切々と、胸に迫ってくる。
「博士」
ケーリは、顔を上げた。
この先に続けられているのも、夢見るような言葉……一貫している「あなたを知りたい」という望みだった。ならば、ケーリが考えることは一つ。
「これ、メッセージを『送り返す』ことはできないのですか?」
その言葉を聞いて、博士の口元が大きく歪められる。その質問を待っていた、とばかりの会心の笑みだった。
「確実性は低いけど、元よりこの研究所は宇宙人と『交信』するための場所よ。電波を受け止める方向に向けて『発信する』ことだって不可能じゃない」
「それじゃあ!」
「ケーリくん、やってみる? 私は横で記録を取るから」
珍しく、博士が自分からケーリに席を譲ってくれた。ケーリは迷わずそこに座ると、コンピュータと直接連結しているバイザーディスプレイを目の上に被せ、旧式のキーボードに指を乗せる。博士はケーリの横で、何だかよくわからない機械のツマミをいじっている。おそらく、メッセージを発信するための装置を立ち上げているのだろう。
「普段は難しい顔してるけど、今日は楽しそうね」
そんな博士の笑いを含んだ言葉が聞こえた気が、した。
ケーリは博士に説明されるままに文字を打ち込む。ケーリが打ち込んだ言葉は英語に変換されて、その後ゼロとイチに置き換えられて発信される。打ち込んだ内容は、こうだ。
『こんにちは、はじめまして。
僕の名前はコバヤシ・ケーリ』
エンターキーを押して、簡単な挨拶を送ると、ケーリは博士に向き直る。
「届きますか?」
「届いたかどうかはわからないからね……返事が来れば、いいのだけど」
まだ、送られてきたメッセージが本当に月からのものなのか、たちの悪いイタズラなのかもわからない。それでもケーリは無性にわくわくしていた。こんな不思議な経験、学校では絶対にできない。
今自分は、『月』と言葉を交わそうとしているのだ!
静寂が、研究室を支配する。鳴っているものは、コンピュータの内部で回るファンの唸り声と、処理をするカタカタという音くらいのもので。
壁にかけられた電波時計の針が一秒進むたびに、ケーリの心の中のわくわくは不安へと塗り替えられていく。この言葉は、届かなかったのか。それとも、やっぱりあのメッセージも単なるイタズラだったのか。
横の博士をちらりと見ると、博士は奇妙な機械を真剣な面持ちで見つめていた。博士は、このメッセージが本物であると疑っていないようで、それだけが救いだ。
その時。小さなビープ音と共に、何かを受信した、という表示がディスプレイ上に現れた。
「来た!」
博士の鋭い声が飛ぶ。ケーリも、目を覆うバイザーに映し出されるものを待った。
次の瞬間に映し出されたのは、味気ない文字の羅列でしかないはずなのに、ケーリの目には明らかに「弾んでいる」ように見える言葉だった。
『はじめまして、ケーリ!
応えてもらえるとは思っていなかったので嬉しいです。
人と言葉を交わすのは、一年ぶりになります。
どうか、私と話してくれませんか。
私に、教えてくれませんか。
あなたのことを、あなたのいる場所のことを』
ケーリは、ぱっと博士を見上げた。
博士は笑みを浮かべ、短く「やってみなさい」とだけ言った。
笑顔こそ見せなかったけれど、強く、ケーリは頷いた。
ロンリームーン・ロンリーガール