ロンリームーン・ロンリーガール

ロンリーガール:2

 散歩のコースは、いつも決まっていて。
 ヒトミとライカが大体同じ時間に公園を通るのも、日課で。
 だから、昨日の男が足を広げてベンチに座っていたとしても、ヒトミはそこを通りがからなくてはならないわけで。
「ちわっす」
 男はひらりと手を挙げて、ヒトミに挨拶する。ヒトミはいっそ無視してやろうかと思ったが、ライカが許してくれない。ライカは予想通りヒトミを引きずりながら男に駆け寄って、尻尾を振る。
「昨日は、恥ずかしいとこ見られちまったな」
 ライカの喉元を撫でながら、男はヒトミに苦笑する。ちらりと、ベンチの横に停めてあるバイクを見ると、そこには昨日地面に転がっていた女物のヘルメットが引っかかっていた。
 ――まだ、諦めてないのかな。
 そう思わずにはいられない。諦められない、という気持ちは痛いほどわかる。そして、諦めなければ戻ってくるかもしれない、と思えるうちはまだ幸せだとヒトミは思う。
「散歩ですか?」
「まあな。バイクだから散歩とは言わないかな」
「でも、この辺の人じゃないですよね」
 意識しているつもりはないが、言葉に刺が混ざるのは避けられない。自分を振った女を忘れられない男の女々しさに苛立っているのか、それとも全く別のところに苛立っているのかは自分にも判別はつかないが、どうにもイライラして仕方ない。
 男は、ヒトミが苛立っていることに気づいてもいないのか、微かに笑みを浮かべて言う。
「ああ。待盾の方から来てる」
「結構遠いじゃないですか」
「大学がこっちだから。今は休み中だけど、調べものもあるし」
「それに、恋人さんがいるから、ですか?」
 自分でも、何でこんなに意地悪なことを言ってしまったのか、わからなかった。しまった、と思った時にはもう言葉を放った後で。
 恐る恐る見れば、男は……からからと、笑っていた。
「そう。正確には『恋人だった奴』がな」
 昨日の湿っぽさとは打って変わって、軽い口調で言い放つ。それで、すっかりヒトミは毒気を抜かれてしまった。意味もなく苛立っていたのがバカみたいだ。
 昨日あれだけ傷心の面持ちだったのに、どうして笑っていられるのか。すっぱり諦めたというのなら、どうして女物のヘルメットを未練がましく持ってきているのか。どうして振られた現場であるここで、ライカと戯れていられるのか。
 さっぱり理解できない。
「……辛くないんですか?」
 色々な思いはあったが、ヒトミの問いはその一言に集約された。男は「うーん」と首を傾げた後に、言った。
「どうかな」
 答えにはなっていないが、人の感情なんて言葉に出来ない領域の方が多すぎるし、万が一言葉に出来たとしても、名前も知らないヒトミに伝える筋合いはない、はずだ。
 すぐに立ち去ろうという気が失せてしまい、ヒトミは仏頂面のまま男の横に座った。リードを力いっぱい引っ張っても、ライカが男の側から動いてくれそうになかったのもある。
 ベンチからは、公園に咲く桜が一望できた。よく考えてみると、最近は散歩のコースとして公園を足早に通り過ぎるだけで、ゆっくり桜を見つめることもなかったと思い出す。
 公園の中心に生える一際大きな桜の木の下で、子供達が遊んでいる。
「いい場所だな」
 ライカを撫でながら、男が、ぽつりと呟いた。
「桜が、綺麗だ」
「満開になると、もっと綺麗ですよ」
 そりゃあ楽しみだ、と男が笑む。もしかして毎日ここに来るつもりなのだろうか、とヒトミは訝しむ。実際に問うて見れば、男は小さな目を見開いて言った。
「そのつもりだけど」
 何かおかしいだろうか、と言わんばかりの表情だ。別に、おかしくはないが、物好きだとは思う。桜が自慢の場所はここ以外にもあるし、こんな公園では散歩以外にできることもない。
 何を言えばいいのかわからないまま男を見れば、男は口端を歪めてにっと笑う。
「ほら、ここに来ればライカにも会えるしな」
 ライカは自分のことを言われたと気づいたのだろう、耳をぴんと立て尻尾を振って男の膝の上に両の前足を乗せて、大きな体に似合わぬ素早さで男に迫った。男は「うおっ」と驚きの声をあげ、顔を舐めようとするライカから逃れようとする。
 その動きが大げさなものだから、ヒトミは声を上げて笑っていた。
「ライカ、やめなよ、困ってるしこの人」
 笑いながら言っても、説得力は皆無。ライカは男にしがみついて離れようとしない。男は深々と溜息をついて言った。
「なあ、こいつ、俺に惚れたんじゃない?」
「うわー、それはかなり悪趣味だわ」
「ちょっ、それは酷え!」
 男は大げさに顔を歪めてみせてから、ヒトミと声を揃えて笑った。ヒトミがクラスの友達と喋るような気安い口調で喋りかけても、男は嫌な顔一つしなかった。元より、そんなに年が離れているようには見えないから、男にとっても気安いのかもしれなかった。
「ちょっとナルシスト入ってるよ、自分の顔鏡で見たら?」
「ほぼ初対面の相手にそれを言うか! 顔が悪いのは自覚してるけどさ」
「してたんだ!」
「その代わり他の部分で頑張るわけですよ、男は顔じゃありませんからね」
「でも振られたよね」
「あああ、改めて言われると落ち込むわあ……」
 肩を落とし、「わかってくれるのはお前だけだよホント」とライカを撫でまくる男。ライカが迷惑そうな顔をしていたように見えたのは、気のせいか否か。
「どうして振られたの? やっぱり顔?」
「違えよ。でも、聞いてもさっぱり面白くねえよ」
 面白くないと言いながらも、男は自嘲気味の笑みを浮かべてヒトミを見やる。
「 『アンタはどこを見ているかさっぱりわからない、口で何を言っても、アタシのことなんて見てないじゃない』ってね」
 ヒトミは、どきりとした。
 そんな人を、よく知っているような気がして。恋人なんて関係ではなかったけれど、似たことをいつも考えていた。ヒトミの気持ちも知らない男は、溜息混じりに愚痴を続ける。
「正直、グサっと来たわ。そんなつもりなかったのに、な」
「そんなつもりなくても、『見てない』って思われることしてきたんでしょ」
「そりゃ手厳しいお言葉で。身に染みます」
 男は生真面目そうな顔を作って、深々と頭を下げた。わざとらしい動きに、ヒトミは再びけらけらと笑う。こんな、下らないやり取りが不思議と楽しい。
 学校に行っても、クラスメイトは遠巻きにヒトミを見ているだけで、他愛ない会話を出来る相手なんて、ほとんどいない。名前も知らない男を気安く感じるのもおかしいとは思うけれど、今はこのまま話をしていたかった。
 何も考えず、何に心悩まされることもなく。
 ただ、笑っていたかった。