散歩道は、春の匂いに満ちていた。
ライカのリードをしっかりと握りしめ、確かな足取りで歩きながらも、ヒトミの脳裏に蘇るのは、手を握りしめていた温かな手の感触。
『ほら、お月様だよ』
小さな足がつまずかないように、手を引いてゆっくりと歩いてくれた大きな影。手の感触はしっかり覚えているのに、影がどんな顔をしていたのかは、思い出せない。
思い出せるのは、その人が月を見ていたことだけ。
青空に浮かぶ儚いペーパームーンを見上げて、繋いでいない片方の手を届かない月に伸ばし、笑っていたのだ。
『俺、いつかあそこに行くんだ』
それは、過去の思い出。もう誰も手を握ってはくれないし、空を見上げていた影も二度と戻ってこない。記憶を振り払うように首を小さく振り、不思議そうにこちらを見上げるライカに笑いかける。
「行こう」
横を歩くライカに、というより自分自身に言い聞かせ、少しだけ早足になる。
小さく鼻歌を歌いながら住宅街の角を曲がり、いつもの公園に足を踏み入れた途端。
不意に、ライカが駆け出した。
「ライカ?」
あまりに突然のことで、ヒトミは思わずリードを手放してしまった。普段ならばリードを握っている限り決して自分から飛び出したりはしないライカは、リードを引きずりながら尻尾を千切れんばかりに振って、ある一点に向かって駆けていく。
「あ、危ない!」
ライカを追いかけながら、ヒトミは叫んでいた。ライカの視線の先には、ベンチの前に立っている男がいたからだ。
だが、男はヒトミの悲鳴に気づいていなかった。ぼうっと虚空を見つめたまま、立ち尽くすばかり。
次の瞬間、大きな灰色の体をしたライカが、どーん、と音が聞こえてきそうな勢いで男に突撃した。
「うほぁっ」
間抜けな声を上げて倒れこむ男だったが、ライカは容赦しない。地面に尻餅をついた男の上に乗っかり、大きな舌でぺろぺろと顔を舐めている。やっとのことで追いついたヒトミはライカのリードを引っ張って、無理やり男の上からどかす。
「すみません! 大丈夫ですか!」
男は目を白黒させ、地面に座り込んだままライカとヒトミを交互に見上げる。ヒトミは興奮が冷めていないライカを上から押さえ込み、頭を下げるしかない。
「ごめんなさい、普段は大人しい子なのに……怪我、ありませんか?」
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
砂を払って男が起きる。そして、体を屈めるとライカの首元から耳の後ろにかけて撫でた。ライカは撫でてもらったことでやっと落ち着いたようで、気持ちよさそうに目を細め、尻尾をぱたりぱたりと振った。
「俺、犬に好かれやすいみたいでさ、よく襲われるんだ」
苦笑する男に、ヒトミは何と言っていいものか悩んだ。襲われるのは、単に「好かれやすい」からなのだろうか。確かに、ライカは喜んで男の元に駆けて行ったように見えたが……
慣れた手つきでライカの灰色の毛並みを撫でながら、男はヒトミに目を移す。
「この子、名前は?」
「ライカ、です」
「宇宙犬のライカから来てる?」
即座にそう切り返されるとは思わず、ヒトミは目を丸くしてしまった。だが、男の言葉は事実だったので、頷きを返す。『ライカ』は遠い昔に初めて宇宙に行き、宇宙で死んだ犬の名前だ。
ライカという名前をこの犬につけたのは、ヒトミではなかったのだが。
「お前、ライカっていうのか。もう襲い掛かってくんなよ」
ぺちり、と男はライカの鼻を軽く叩いて立ち上がる。ライカは一瞬前までの興奮が嘘のように、普段の賢そうな目つきで男を見つめていた。
ヒトミは改めて男を見た。細い体をしていて、ぴったりとした皮のジャケットにジーンズという出で立ちだ。ベンチの横に停めてあるバイクと、ベンチの上のフルフェイスヘルメットはこの男のものなのだろう。金髪に近い明るい茶に染めた髪を少しだけ伸ばし、無理やり後ろで括っているのが、ゴールデンハムスターの尻尾のようだと思う。
これで、顔もよければ絶対にかっこいいのだけど、とヒトミは失礼なことをしみじみ思う。残念ながら顔はヒトミの好みではない。
男が不思議そうにヒトミを見返したので、ヒトミは慌てて視線を逸らす。まじまじと見つめていれば、変に思われるに決まっている。だが、視線を逸らしたその瞬間に一つだけ、気になる点を見つけた。
――この人、泣いてた?
今まで気づかなかったが、男の目が妙に赤く、瞼も腫れているように見えたのだ。
目のやり場に困って地面に目をやれば、無造作に転がっている小さなヘルメット。可愛らしいステッカーが貼ってある、見る限り女性用。
男はヒトミの視線が転がるヘルメットに向けられていると気づいたようだ。何も言わずに腕を伸ばしてヘルメットを拾い上げる。その表情は、何とも形容しがたい複雑なものだった。
そこでヒトミは一つの結論に達した。
この男は、女に振られたのだ。おそらくは、こっぴどく。
そうでなければ、こんな公園で意味もなく立ち尽くしているはずもない。女は既にこの場から去り、独りで取り残されてしまった……と邪推すれば。
「何でだろ。犬にはモテモテなのになあ、俺」
まるでヒトミの心を読んだかのようなタイミングで、男が呟いた。ヒトミがはっとして男を見ると、男はもう一度ライカの毛並みに指をうずめ、こちらを見上げて笑っていた。とんでもなく、不恰好な笑い方で。
「犬に慰められるとか、情けねえよ、ホント」
その笑顔が「今にも泣き出しそう」に見えたのは、見間違いだったのか、否か。
何故か胸に浮かんだ小さな苛立ちを振り払うかのように、ヒトミは空を見上げる。五分咲きの桜の向こうで、青白く、透けるような月がこちらを見下ろしていた。
ロンリームーン・ロンリーガール