「俺が、犯人です」
「は?」
唐突に耳に入った、意味の通らない言葉。いや、意味自体はわかるのだが、すぐには認められるはずもない言葉に、思わず聞き返してしまう矢代。それに対して男は切実さすらも込めた響きで迫る。
「お願いします、今すぐ、俺を捕まえてください」
暗く窪んだ目が、この時ばかりはぎらぎらと輝いているように見えて、矢代は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
時は、五分ほど前に遡る。
「御兜のD社研究所で研究員と社長が変死、か」
矢代剛志は言うなれば「町のお巡りさん」だった。
待盾駅前の交番で毎日を過ごし、訪れる来訪者の相手をする。そんな毎日を変わらず続けていた、平凡な警察官。近頃は待盾第一中学の不良どもの相手に手を焼いているが、それすらも当たり前の日常に組み込まれた出来事。
だから、新聞に書かれた壮絶な事件も、あくまで紙面の世界。矢代にとっては遥か遠い世界で起こった出来事であり、自分の世界の中に組み込まれているわけではないのだ。
D社というのは、隣の御兜市に拠点を持つ製薬会社で、ここ近年で営業成績を伸ばしてきている。だが、昨日そこにいた研究員、そしておそらくは研究所の視察に訪れていたのだろう社長、深沢丈治が死亡したということが淡々とつづられている。
ただ、一つ気になることは、それが「変死」であること。
紙面によれば、死因は『感電死』。
感電の原因となるものは未だに見つかっていない。
現在原因を調査中だということだが、あまりに不可解な事件に、矢代も新聞片手に首をひねることしかできない。
しかし、近頃こういう事件が多いのだ。普通では考えられない、「怪事件」と称されるような事件が。
先日は、この待盾市で一年近く神隠しにあっていた高校生二人が無事保護されたという話を聞いたし、剣檻市では唐突に意識不明になって倒れる者が続出しているらしい。
いつの間に、世界はこれほど歪んでしまったのだろう。
かつて、古い友人にそうぼやいたところ、その友人はにやりと笑みを浮かべて……それは、『不思議の国のアリス』に出てくる化け猫、チェシャー・キャットを髣髴とさせた……言った。
「初めから世界なんて歪んでいるさ。ただ、それが君の目に見えるようになっただけ」
まあ、その友人自体がかなりイカれた奴だという説もある。そいつは今確か、趣味が長じて探偵のようなことをやっているはずだ。掴ませるところのないチェシャー・キャットにはお似合いか、と思いながらも、あの笑顔だけはどうにも気に食わない。元より、矢代は「探偵」という職業自体が好きではない。
嫌なことを思い出したな、と首を横に振り、新聞を放り出す。どうにせよ、全て自分とは関係がないことである。今日も一日はのんびりと、運が悪ければ小さな厄介事を交えながらも、変わらず過ぎていくのだろう。
ポットの湯が沸いたのを確認し、インスタントコーヒーの素をカップの中に入れ、湯を注いでかき混ぜる。もちろんインスタントではないコーヒーの方が好きは好きだが、手間がかかるのは嫌いなのだ。
熱いコーヒーを冷ましながら、もう一度机の上の新聞に目をやる。死んだ研究員の名前が載っている中、一人だけが行方不明になっているのがわかった。その行方不明になった研究員の行方も、捜査の焦点になっているらしいが……
ず、とコーヒーをすすり、椅子に腰掛ける。なかなか年季の入った椅子であり、座るだけでぎいぎい嫌な音がする。背もたれに寄りかかったときには今にも壊れそうな音が出て思わず背を引いた。いつもわかっていることではあるが、どうにもこれだけは慣れない。
そんなことを思っていると、開いた扉の前に黒い影が立っているのに気づいた。
「……あの、すみません」
暗い声を放って、影はこちらに向かって歩み寄ってくる。影の正体は長身痩躯の男だった。全身黒づくめで、ぼさぼさに伸びきった髪を後ろで無造作に束ね、顎の辺りに無精髭を生やしている。落ち窪んだ目は細められ、まるで生気が感じられない。それこそ、幽霊のような男だ。
「何ですか?」
浮浪者か何かだろうか。何にせよ、ここにやってきたということは自分が対応すべき相手である。矢代は席を立ってその男と対峙する。男は、淀んだ目をきょろきょろと動かし続けて視点を定めない。こんな狭い部屋の中で何かを探そうとしているわけではなさそうだが。
しかし、その視線が、一つのものに向けられる。矢代もつられてその目線を追ってしまった。
それは先ほど机の上に放り出した新聞。ちょうど、あの記事が表に出ていた。大きく物騒な見出しが紙面に躍っている。
暗い目が、じっとその見出しを見つめていたが、やがて決心したように顔を上げて、きっと矢代を見つめる。
矢代はどきりとした。その顔を、どこかで見たことがあったような気がしたのだ。
「この、D社の事件ですが」
男の細い指が、新聞をつまみあげる。よく見れば、爪は割れてぼろぼろになっているし、指先の皮もところどころが裂けていて見ていられたものではなかった。
男は、新聞を広げて矢代に示す。矢代も実際に遠目に見たことがある、白い箱のようなD社研究所の写真が目に入った。
「俺が、犯人です」
「は?」
唐突に耳に入った、意味の通らない言葉。いや、意味自体はわかるのだが、すぐには認められるはずもない言葉に、思わず聞き返してしまう矢代。それに対して男は切実さすらも込めた響きで迫る。
「お願いします、今すぐ、俺を捕まえてください」
暗く窪んだ目が、この時ばかりはぎらぎらと輝いているように見えて、矢代は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
この男をまじまじと見ることも出来ずに、視線を新聞に逃がそうとするが、そこで矢代の目はあるものを捉えた。
見覚えがあるはずだ。
この男は。
「……君、名前は?」
確信を持って、矢代は問いかける。黒づくめの男は、存外はっきりとした声で、考えていたとおりの言葉を放つ。
「フカザワです。フカザワ・トモヤ」
唯一死体が確認されなかったという研究者であり、死んだ社長の子息でもある男の名を。
遠雷と白昼夢