アメガタリ

化猫

 リッカは、傘を肩にかけて、庭に立っていた。庭には、先代から受け継いだちいさな菜園と花壇があり、今は白い薔薇の花が雨に濡れている。
 白い指を伸ばして、薔薇の花に触れる。憂いを帯びた青い瞳が、微かに揺れて。
「何をしてるんだ、リッカ」
 背後から声をかけられたリッカが、「わっ」と小さく声を上げて、そちらを向く。そして、一瞬前までの憂いが錯覚であったかのように、柔らかな笑みを浮かべてみせる。
「シロウ」
「そんなに、薔薇の花が好きかな」
 うん、と頷いて、リッカは再び薔薇と向き合う。
 そんなリッカの肩を、強く引く。驚きに目を見開いたリッカと、唇が触れそうな距離まで顔を近づけて。
「……つれないな」
「え?」
「僕と話すのは、つまらない?」
「そ、そんなことないよ。ごめんね、わたし、失礼なことしちゃったかな」
「いや、そういうわけじゃない。ただ」
 にぃ、と。口元に歪な笑みを浮かべて、リッカの耳元で囁く。
「せっかく二人きりなんだ、僕が、もっと楽しいことを教えて」
 ――さすがに、限界だった。
「いい加減にしろ」
「あだだっ」
 志郎は自分と同じ姿をした男の頭を掴み、無理矢理こちらに向かせる。それでも、男はにやにや笑いを崩さない。
「おやおやシロウ、あまりにお前が不甲斐ないものだから、私が手本をだな」
「いらん。あと早くその姿をやめろ、クメイ」
「え、だ、誰? シロウ、じゃないの? あれっ?」
 リッカは、志郎と、志郎の姿をした男を交互に見やる。混乱するのも当然だが、こんな奴と一緒にされるのはごめんだ。
 仕方ないなあ、と肩を竦めた男は、その場からふっと姿を消した。正確には消えたわけではなく、本来の姿に戻っただけだが。その証拠に、すぐ足下から、猫撫で声が聞こえてくる。
「全く、当代の記録者は冗談が通じなくて嫌んなるよ」
 そう言ったのは、リッカの足下に四本足で立つ、痩せっぽちの三毛猫だ。
「猫……さん?」
「ただの猫じゃないぞ、私は奇跡に奇跡を重ねて生まれた、選ばれし猫なのだから」
「え、選ばれし?」
「遺伝上、雄の三毛猫は出ないもんだからな。珍しいのは事実だ」
 補足したつもりだったが、クメイは猫面に不自然な皺を作る。
「シロウ、お前はもう少し言葉を選べ。率直は美徳かもしれんが、言葉とは時に残酷な刃となる。記録者たるもの、言葉に気を使って使いすぎることはないぞ」
「お前にだけは言われたくない」
 いつだって一言多い猫は、くつくつと笑って、今度こそ本当に消えた。
「今の猫さん、どなた?」
「クメイ。うちに昔から住んでる爺さん猫でね。長く生きすぎて、色んな能力を身につけてる。今までも、ずっと僕らのことを眺めて笑っていた」
「そう、だったんだ……でも、さっきのは、びっくりした」
 よく見れば、リッカの頬は、微かに赤く染まっている。それに気づいてしまうと、志郎まで顔が熱くなってくる。
「その、勘違いしないで欲しいんだが……僕は、君に対して、決して変な感情を抱いているわけじゃないからな」
「シロウがそんなこと思ってないのはわかるよ。ただ、ちょっと、びっくりしただけ」
 志郎の緊張とは裏腹に、リッカは心底気にしていない風に言って、「雨、強くなってきたね」と屋敷に戻ってしまった。
 かくして、一人取り残された志郎は、雨の音に消されることを願って、一言だけ呟いた。
「……それはそれで、複雑だな」
「面倒くさい奴だな、お前は」
「うるさい黙れ」
 虚空を睨みつけると、どこかで猫がけたけたと笑った。