1-20:這い寄る影
弛緩していた意識を引き締めて、先刻までセレスの手を握っていた右手で、上着の下に隠した銃の握りに手をかける。|魄霧《はくむ》充填型の|記術銃《スクリプト・ピストル》。指も自由に動かない俺が、かろうじて陸の上で使える唯一の武器だ。
そのまま、セレスが消えていったという方角に走る。――と言っても、靴底を引きずりながらの早歩きにしかならないが。
ああ、畜生。こんな時こそ『エアリエル』があれば。あんなデカブツじゃどうしようもないのも事実だが、ろくに動かない脚に比べたら『エアリエル』の方がよっぽど自由だ。
杖を握る左手に力が篭る。この間にも、セレスは遠くに連れ去られているんじゃないか。嫌な想像ばかりが脳裏に浮かんでは消えていく。
そして、ガキが言った「裏道」に差し掛かったところで響く鈍い音と、呻き声。思わず痛む足を叱咤して、ひときわ細い道に飛び込む。
「セレス!?」
「あ、ゲイル」
耳に届いたのは、セレスのあくまで淡々とした声。
セレスは、細い道の真ん中に、俺が目を離す直前までと変わらぬ姿で立っていた。唯一変わっているのは、ポケットに、砂糖菓子の瓶が押し込まれていること。
そして、セレスの足元には、男が倒れている。その手にはナイフが握られているものの、白目を剥き、完全に気絶している。
セレスは這いつくばる男を見下ろしながら、てちてち歩み寄ってくる。
「刃物を突きつけられたため、加害意志ありと判断し防衛行動を取りました。問題ありませんか?」
「お、おう。問題ありませんね……?」
こいつ、こんな華奢な体で肉弾戦もできるのか。焦った俺が馬鹿みたいだ。
――とはいえ。
右手に隠し持っていた銃を抜き放つ。俺が突然動いたのに驚いたのか、目を丸くするセレスから目を離さず、銃口だけを背後に向け、二回、引鉄を引く。
悲鳴が、聞こえた。振り返ると、路地の角から体の半分を覗かせていたもう一人の男が、火薬式拳銃を取り落として膝をついていた。手から血が流れているところを見るに、狙い通りに手を撃ち抜けたらしい。外していたら、まず俺の頭か胸に風穴が開いたはずだ。
セレスが、ぱちぱちと二、三度瞬きをした後、大して驚いた様子もなく言う。
「ごめんなさい、気づいていませんでした」
こいつには、恐怖心、ってもんがないのか。とはいえ危険に晒されていたということは理解しているのか、申し訳なさそうに眉を下げる。別に、俺に対して申し訳なく思わなくていいんだよ。
「や、俺様も油断してた。何とか気づけてよかったよ」
いやはや、腕の力が入らないこの状態で、狙いを外さなかったのは奇跡みたいなもんだ。褒めてつかわす。どうせ誰も褒めてくれないから。
「しかし、後ろも見ずに、よくわかりましたね」
「ああ、窓に映ったのが見えてな」
もちろん嘘だが、手の内をセレスにはともかく、連中に聞かせてやる理由もない。突然のことで混乱してるんだろう、俺らから視線を外し、血まみれの手で銃を拾い上げようとする野郎を蹴飛ばし、頭を踏みつけ、地面にキスさせてやる。もちろん、銃を蹴って手の届かないところに追いやるのも忘れない。
「教団の残党か……、いや」
一拍置いて気づいた。俺はこの顔を知っている。
「金物屋のおっさん?」
相変わらず名前は知らないが、町で金物屋を営むおっさんだ。この前は朗らかに笑いかけてくれた四角い岩のような面が、今は血を滴らせながら俺を憎々しげに見上げていた。
「ゲイル、救国の英雄……。やはり我々の邪魔をするのか」
「『我々』ってことは、おっさんも、『原書教団』の信者か」
とすると、今セレスにのされた奴も、町の人間だろうな。いくら外の影響が少ない町だからって、教団の手が伸びてないわけじゃなかった、ってことか。
――もしくは、俺がサードカーテン基地にいるからこそ、か。
療養のためにこっちに移動したってことは公表していないが、情報ってのは必ず漏れるもんだ。ついでに、ついこの間『エアリエル』で教団の偵察船とその護衛を落としたばかりだ、もはやバレバレに決まってる。
つい苦いものを噛み締めたような気分になりながらも、おっさんが教団の信者であるなら、聞いておかなければならないことがある。
右手の銃で頭を狙いながら、おっさんを見下ろして問いかける。
「なあ、おっさん。あんたが信者だってんなら、聞かせろよ。教団は滅びた、教主も教典も失われた。なのにどうして今更動き出した」
「答えると思ったか?」
「期待はしてねえ。だが、セレスを攫おうとした理由くらいは教えてくれてもいいんじゃねーの?」
「セレス? ああ、その『人形』か」
おっさんは、血の滲む口元を歪める。その目は、俺の向こうに、俺ではない誰か――それこそ教主様を見ているかのような、恍惚とした光を帯びていて。
「先日、教主オズワルドが新たな原書を読み解き、我らに告げたのだ。その『人形』こそが、世界に新たな嵐を呼ぶ存在であると」
「……は?」
『原書教団』の教主様は、とっくのとうに死んでいるはずだ。
確かに、ごくごく稀に、肉体を失っても魂魄だけが「幽霊」として魂魄界に留まり、物質界にも何らかの影響を及ぼすことはある。だが、ことオズ某に関しては、それは絶対にあり得ないと言い切れる、はずなのだ。
なら、このおっさんは一体何を言っている?
「聞け、狂騒の担い手、戦乱を運ぶ青き翅よ! 我らが教主オズワルドは、女神の原書は、未だ失われてはいない。この世界に静寂をもたらすその時まで不滅なのだ!」
どうして、教主様と教典が「不滅」だと言い切れる?
あの日からずっと頭を支配していた鈍い痛みが、にわかに強まる。どうして、どうしてお前の影が消えてくれないんだ、オズ?
その時、唐突に甲高い音が割り込んできた。何だ、と思う間もなくセレスが俺の袖を引く。
「通信機、です」
セレスの青い目に見つめられて、頭に上っていた血がすっと引く。確かに、これは腰に提げた通信機の音だ。しかも緊急警報じゃねーか。頭は冷えたが、同時に嫌な予感が背筋を這い上がってくる。
「ゲイルだ。どうした!」
通信機を取って呼びかければ、いつになく激しいロイドの声が耳に飛び込んでくる。
『すぐ戻れ、敵襲だ!』
「……っ!」
かろうじて「了解」という言葉だけ吐き出して、セレスに視線を投げる。セレスも通信機からの声は聞こえたのだろう、張り詰めた気配を漂わせて、こくりと頷く。
だが、そんな中で、螺子のゆるんだ笑い声が路地に響く。それは俺の足の下で這い蹲っているおっさんの声だった。どろりとした色の目で俺とセレスを睨めつける野郎は、何がおかしいのかげらげら笑いながら言う。
「どうする、ゲイル? お前はまた、暴力をもって新たな狂騒を生むのか? 惨劇の嵐を霧の海に生み出そうというのか?」
――遥か遠くを目指す。最初は、ただ、それだけだったのに。
頭の中によぎる、|魄霧《はくむ》の海を見上げていた、遠い日の横顔を振り切って。
「黙れ」
もう一度、足を、振り下ろす。足元で変な声が漏れたが、それきり何も言わなくなった辺り、おそらく気絶したんだろう。
同時に響く、急ブレーキの音。見れば、窓から身を乗り出したゴードンが顔面蒼白で俺たちに手を振っていた。
「ゲイル! 基地に帰るっすよ! ……って、その人たちどうしたんすか!?」
「こっちも襲われたんだよ! こいつら縛り上げるから手伝え!」
完全に後手だが、何もしないよりはマシなはずだ。ゴードンとレオの手を借りて襲撃者を縛って荷台に押し込め、セレスを促して後部座席に飛び乗る。
ハンドルを握るレオは、俺が扉を閉めるか閉めないか、というタイミングで車を急発進させた。人を跳ね飛ばさないか不安になりながらも、車のシートに身を預ける。
霧に霞む町が飛ぶように後ろに流れていくのを見るともなしに眺めながら、つい、考えずにはいられない。
――本当は、俺が飛ぶべきではないか。
教主様周りの話はさっぱりだが、教団がセレスを狙っていることだけははっきりした。ならば、わざわざ教団の連中の前にセレスを出すより、俺が飛んだ方がセレスのためじゃないか。
「ゲイル、不安ですか」
セレスの声が、俺の視野に青のイメージを生む。
窓から視線を戻せば、セレスがこちらを見つめていた。
「そりゃあな。……なあ、セレス、今回は」
「わたしが、飛びます」
言いかけた言葉を遮って、セレスは言い切った。
「ゲイルが何と言っても、わたしが飛びます」
セレスは、じっと俺の目を覗き込んでいる。俺の言いたいことなどお見通しだと言わんばかりに。
確かに、俺は、飛んではならない。『翼』でいるには、あまりにも限界に近すぎる。それでも「俺が飛ぶ」と言い切ればいいのだ。既に飛ぶ理由を失ったこの俺が、身を惜しむ理由なんてどこにもない。
だが、理性の一部が、この捨て鉢な感情に待ったをかける。
ああ、畜生。結局、進むにも退くにも中途半端な俺が、言えることはたった一つなんだ。
「そうか。……頼む」
「はい」
セレスが頷いたところで、車が急停止した。投げ出されそうになるセレスを何とか捕まえて、改めて前方を見れば、既に見慣れた基地の一角だった。
「『エアリエル』の準備はできてるみたいっす! 俺らは後ろの連中引き渡してきます!」
「了解、着替えたら飛ぶぞ、セレス!」
「はいっ」
セレスを連れて車を飛び降り、窓から顔を出すゴードンに指示を飛ばす。
「荷物は置いてく。サヨからの頼まれもんだから、後で渡しといてくれ」
「了解っす!」
結局セレスの服まで買いきれなかったが仕方ない、次の機会――もしあれば、だが――にしよう。セレスに手を引かれるまま部屋に戻ろうとしたが、一つ、危うく忘れかけていたことを思い出した。下手すると、教団の襲撃なんかよりよっぽど厄介なことを。
「そうだゴードン、至急ロイドに伝えろ、『トレヴァーが来てる』って!」
「は? トレヴァー?」
ゴードンの反応は正しい。俺だってそれだけ言われたら「何言ってんだ」で済ませるところだ。だが、俺の懸念が当たっていれば、ロイドには知っておいてもらう必要がある。
「いいから伝えろ、ロイドならわかるから!」
「りょ、了解っす」
「色々悪いな。後で飯奢るぜ、生きて帰ったらな!」
縁起でもない、という声を背中に受けながら、セレスと駆け出す。嫌な予感は止まないが、今はただ、目の前にある脅威に対応するしかない。
――それしか、今の俺にできることはないのだから。