1-16:誰かの見た夢
その言葉と同時に、『エアリエル』が辺りに漂う霧を喰い始める。内燃機関に取り込まれた霧は、鈍い咆哮と共に『エアリエル』の背に青い二対の翅翼を生み出す。演算機関が走らせる記術によって、物理的な法則を無視して「飛ぶ」という力を与えられた飛行翅。
その非実体の翅が『エアリエル』の船体をゆっくり持ち上げるのを確かめる。視界に映る各種数値に異常なし、このまま飛ばして問題なさそうだ。
「セレス、今日はあくまで試験飛行だ、十五分制限で行くぞ」
「十五分制限、了解」
俺の言葉を抑揚の無い声で繰り返し、セレスは『エアリエル』の翅を一度、感覚を確かめるように羽ばたかせる。その一打ちで、『エアリエル』は|魄霧《はくむ》の海の只中に打ち上げられる。
見渡せば、三百六十度の白の中。俺たちはたった二人きりで、鋼の箱の内側から世界を眺める。
「ゲイル、わたしは、どう飛べばいいですか」
セレスの、戸惑いの声が響く。
そういえば、模擬訓練ではほとんど指示らしい指示はしてこなかった。俺が『目』の訓練に専念していたせいで、セレスの方まで手が回っていなかった、というのが正しい。
だが、今日は初めての実機での訓練だ。訓練艇『レディバード』以外に初めて乗る、正規型番を持つ|翅翼艇《エリトラ》。操作性はほとんど|仮想訓練《シミュレーション》と変わらないとはいえ、経験者の意見を仰ごうと思ったのだろう。
とはいえ、俺に言えるのは、一言だけだ。
「好きに飛べ」
「え?」
「好きに飛んでいい。俺様はずっとそうしてきたし、お前にそうしてほしい」
それは、いつのことかも忘れてしまった、遠い日の記憶。
『霧の海は自由だ』
そう言ったあいつの横顔を、思い出す。
実際には、|霧航士《ミストノート》という肩書きを持つ以上、俺たちはどこまでもしがらみにまみれた存在だけれども。今、霧の海で『エアリエル』に抱かれているこの瞬間だけは、しがらみからも、体の重さからも解き放たれて、自由に飛べる。飛んでいいのだ。
だから――。
「お前の飛び方を見せてくれ、セレス」
「……はいっ!」
その瞬間、セレスの声が、魂魄が、色を変える。深く静かにたゆたう青から、鮮やかな光はらむ青へと。それと同時に『エアリエル』が加速し、天蓋に向けて舞い上がる。
セレスの魂魄は船体の隅々に行き渡り、その翅翼の先端までをも支配して、『エアリエル』を躍らせる。『エアリエル』も霧を喰う激しい音を響かせながら、セレスの無茶とも言える指示に従って、時に矢のように鋭く、時に落ちる木の葉のように柔らかな動きで、霧の海を行く。
荒っぽいながらも、伸びやかな。飛ぶというシンプルな喜びを、『エアリエル』という名の翼持つ身で体現している。
それは、俺が今まで忘れようとしていた『エアリエル』の本来の飛び方。
海を行く風の歌を掴み、踊るように舞う、二対の翅翼。
二度と俺がこの身で感じることができないと思っていた、霧を裂く感覚。
ああ、と。思わず、声が漏れていた。
叫びだしたいような、泣きたいような、奇妙な感覚を押し殺す。今、強い感情を表に出してしまえば、セレスにそのまま伝わってしまうから。この感情の意味を聞かれても、きっと、俺には答えられなかったから。
高く、さらに高く。遥か彼方、誰一人として届いたことのない高み目掛けて、『エアリエル』は風と共に目には見えない階段を駆け上っていく。
――が、そろそろ、俺も役目を果たさなければならない。
「気をつけろ、高度限界が近い。天蓋に飲まれんぞ」
はい、と。少しばかり慌てた声が返ってくる。これは、俺が手綱握ってないと危ないかもしれない。こいつ、落ち着いてるように見せかけて、高揚すると周りが見えなくなるっぽいな。
「あの、ゲイル」
ゆるやかに『エアリエル』を降下させながら、セレスが言う。
「行きたいところがあります。よいですか?」
「制限時間内に行って帰ってこれるなら、ご自由に」
セレスは「すぐそこです」と言って『エアリエル』を加速させる。
確かにそれは「すぐそこ」だった。セレスが『エアリエル』を減速させ、空中で静止させたのは――。
「……迷霧の帳、か」
迷霧の帳。サードカーテン基地の西方に存在する霧の壁。女王国の最西端を意味するその霧の壁は、物言わず俺たちの前に立ちはだかっている。
この壁の先を、人の目で見通すことは不可能だ。否、「人の目」でなくともその向こう側を見通すことは叶わない。|魄霧《はくむ》を透かして、遥か彼方まで「見る」ことができるはずの『エアリエル』の目にも、それはただ白い塊としてしか映らない。今まで魂魄を通して聞こえていた風の歌も止み、完全な静寂に満たされている。
あまりにも濃い霧は、何もかもを拒絶する。何しろ人は|魄霧《はくむ》なしには生きていけないが、濃すぎる|魄霧《はくむ》には耐えられない。|翅翼艇《エリトラ》がいつか必ず乗り手を殺すように、肉体には|魄霧《はくむ》の許容限界がある。
だから、帳の向こう側は、未だ謎に包まれている。何があるのか、それとも何もないのか。何もかもが霧に包まれたままなのだ。
「で、こんな何も無いとこに、何の用だ?」
「……ゲイルには、お話ししておきたいと思ったんです」
ぽつり、と。セレスが言葉を放つ。青い波紋が広がるイメージと共に。
「わたしの、本来の運用目的を」
「本来の?」
「はい。元々、人工|霧航士《ミストノート》は戦闘用に開発されたわけではありません。戦闘用という触れ込みは、あくまで製作者が軍から開発許可と資金を得るための『建前』なのだそうです」
|翅翼艇《エリトラ》は女王国の決戦兵器であり、それを操る|霧航士《ミストノート》も戦闘用であってしかるべきだ。だが、それが「建前」だとしたら、一体、何のために?
いや、あえて問うまでもないのだと、一拍遅れて気づく。俺の目の前に立ちはだかっているものは何だ。誰一人としてその先を知らない、迷霧の帳じゃないか。
「……まさか、『探査用』なのか」
それならば「|魄霧《はくむ》への抵抗力を持つ」「替えの利く」肉体の意味も変わる。セレスのあり方は試行なのだ。前人未到の、迷霧の帳を越えるための。
「はい。今はまだ争いが完全には終結していないため、戦闘行動を命じられていますが」
俺の意識の内側で、セレスが、瑠璃色の瞳で帳を見据えているのが、ありありと感じ取れる。
「戦争が終わったら、わたしは帳の向こうに行くのです」
帳を見据えるセレスが何を思っているのか、何を感じているのか、俺には伝わらない。恐れているのか、喜んでいるのか、全く別の感慨を抱いているのか、それとも何も感じていないのか。何一つとしてわからない。
わからない、けれど。
「いいな」
「え?」
「いいなあ。うらやましい」
本当は、こんなこと言ってはならないのもわかっている。言ったところで、セレスとは違う、単なる人の身では到底叶わない。
それでも――、それでも。言わずにはいられなかった。
「俺も、見たいと思ってたんだ。帳の向こう側」
セレスが、俺を振り返る。もちろん俺の目にセレスの姿が見えていたわけではない。ただ、そういう「気配」があった。
「ゲイルは、向こう側に、何があると思いますか?」
その問いに対し、真っ先に浮かんだイメージを条件反射的に言葉にしていた。
「青い、空」
たどたどしく繰り返すセレスに小さく頷いて返す。
「誰かさんが、言ってたんだ。この世界のどこかには霧が晴れた場所があって、青空が、広がってるって」
つい、いつもの癖で誤魔化すような言い方をしたけれど、セレスには伝わってしまったのだと思う。一呼吸分の間をおいて、問いかけの声が投げかけられる。
「オズワルド・フォーサイス?」
「まあな」
「知っています。彼が夢に見た、天空の青も」
ぞくり、とした。
天空の青。それが一枚の絵の名前であることを、俺は、知っている。記憶にちらつく無数の青い絵の中で、唯一、名づけられたものであったことも。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、セレスは、あくまで淡々と、青い声を焼き付けてゆく。
「わたしの製作者、アニタ・シェイクスピア博士は、わたしに一枚の絵を見せて言いました。かつて、霧の晴れた場所を夢見る人物がいた。しかし、夢見た風景を『天空の青』と呼び、カンヴァスに描いた彼は、今はもうどこにもいない。誰も彼の言葉の真偽を確かめられない。それが、何よりももどかしいのだと」
そうだ、どこにもいない。いるわけがない。他でもない俺が葬ったのだから。
だが、何もかもをこの手で葬り去ったはずの俺の前に現れたセレスは。
「故に、その場所をこの目に焼き付けることが、製作者がわたしに課した役割であり、そこにあるかもしれない空の色が、わたしの名の由来なのです」
俺が捨てたはずのものを、いくつも、そのちいさな体に抱え込んでいたのだ。
胸の奥で、何かが軋むような音がする。鈍い痛みと、それ以上の熱を感じながら、こみ上げるものを飲み下す。気づいてはならない。意識してはならない。俺は俺自身の意志で葬り去ることを選んだんだ、それ以上を願っては、ならない。
ああ、今の俺は、どれだけ上手く笑えてるだろう。そんなことを思いながら、かろうじて、言葉をひねり出す。
「……あの頃の絵は、全部、燃やしたはずだったんだけどな」
とは言っても、あれが「全部」でなかったことくらいはわかっていた。オズ某は青い世界を描くことに固執しながら、完成したものには頓着しなかった。だから気づいた時にはあちこちに散逸してしまっていて、俺が火をつけたのはそのうちのいくつかに過ぎない。
「ゲイルが、彼の絵を処分したという話も伺っています。……何故、処分したのです?」
「見るのが辛かったから。それだけだ」
これは、嘘でも何でもない。
あの頃、毎日向き合っていた青い絵は、俺の、俺たちの飛ぶ理由そのものだった。だからこそ、二度と叶わないとわかっているそれを、目の当たりにするのは辛い、というだけの話。
セレスは、もう一度、俺たちの前に立ちはだかる帳に目を戻す。その向こう側を透かし見るように。
「彼には見えていたのでしょうか。あの帳の向こう側も」
「……さあな」
本当に、青い空が見えていたのか。それがこの向こう側にあるのか。
俺にはわからない。わからないのだ。
それきり、俺たちの間に言葉は絶えて。
残された時間が尽きるまで、『エアリエル』の駆動音を聞きながら、今はまだ越えることのできない場所を見つめていた。