1-10:空の夢を見る
そんなこんなで薬だけ預かって医務室を出ると、いつの間にかセレスが一人きりで、ぽつんと立ち尽くしていた。
「あれ、ジェムは?」
「ケネット少尉は訓練に戻りました」
俺と違ってあいつはクソ真面目だからな。本当に、俺に対する一癖も二癖もある態度さえどうにかなるなら、俺だってここまでジェムをこき下ろすこともないのだが。
そんな風に思っていると、大きな目を見開いてこちらをじっと見上げていたセレスが、口を開く。
「それと、一つ質問があるのですが」
「おう」
「ケネット少尉が言っていましたが、イワミネ医師は、ゲイルの恋人なのですか」
本当に、あいつは余計なことしか言えないのだろうか。実は俺に恨みがあって、わざとやっているのではなかろうか。ろくでなし|霧航士《ミストノート》ランキング期待の新人にろくでなしポイントを積み増しながら、首を横に振る。
「昔の話だ。とっくに関係は解消してる」
確かにセレスの言っていることは、事実ではあった。とはいえ、|霧航士《ミストノート》の恋は長続きなんてしない。すれ違いからの破局か、片方が蒸発して消えてなくなってしまうことがほとんどだ。ろくなもんじゃない。
サヨとの関係性なんて、その最たるものと言える。
つい、過去のあれこれを思い出して苦いものを噛み締めてしまう俺を、セレスは無表情で見上げ続けている。が、どうしてだろうか、その目はいやにきらきらしているように見える。ジェムの輝きが感染してしまったかのように。
「っていうか、お前、そういうの気になるタイプ?」
「恋人、というものの定義がよくわからないため、ゲイルの感覚に興味があります」
「……ああ、なるほど」
恋とか愛とか下世話な興味とか、そういうのとはごくごく無縁の「知的好奇心」というやつか。その感覚には覚えがある。遠い日に死んだ馬鹿野郎が、まさしく「好奇心に殺された猫」であったから。
「何か、お前との付き合い方がわかってきた気がするよ」
「そうですか。ありがとうございます」
セレスはどこまでも真顔でぺこりと頭を下げる。
何も知らない人の形は、いつか、己の好奇心に殺される日が来るのだろうか。
そんな未来が来なければいい、とは思うのだが、そもそも俺がその未来にまで存在していられるかどうかを思うと、鈍い頭の痛みがそれ以上考えることを邪魔する。
だから、何も考えないようにして、長い廊下を行く。
セレスのてちてちというちいさな足音が、俺の背中を追いかけていた。
梯子の上から見上げた空はどこまでも白い、いつもと何一つ変わらない空だった。
青空を見に行こう。そう言ったあいつに連れられ、仕事道具の梯子を抱えて、下町では一番高かった建物にこっそり忍び込んだ。屋根の上に梯子をかけて、てっぺんまで登ったところで、もちろん青空なんて見えなかった。
その頃の俺たちはあまりにもガキで、この世の道理も知らなくて、俺たちが見上げた先にある白濁の空が「魄霧の天蓋」と呼ばれていて、現在に至っても誰一人その果てを見たことのない、高度限界だったことも知らなかった。
知らなかったからこそ、俺たちは見えもしないその向こう側に目を凝らして。
「嘘つきって、言わない?」
「言うわけねーだろ。お前が嘘なんてつかねーのは、俺様が一番よく知ってる。だから」
約束を、交わしたのだ。
俺たちの、二度と叶わない約束。
それが――。
「おはようございます、ゲイル」
瞼を開けば、いつぞやの約束とよく似た色をした顔が、すぐ目の前にあった。
「……おう、おはよう、セレス」
一拍遅れて、昨日のどたばたが頭の中に蘇る。
幸か不幸か、あれは俺の魂魄が生み出した夢ではなかったらしい。まさしく俺にとっては「夢のような」色をしたつくりものの|霧航士《ミストノート》、セレスは青い睫毛を持つ瞼で一つ、ぱちりと瞬きしてから言う。
「よく眠れましたか?」
「うーん……びみょー……」
寝つきが悪いのはいつものことだ、眠りが酷く浅いのも。そして、見たくもない夢を延々と見せられることも。だが、それを知らないセレスは、ちいさな顎に指を添えて言う。
「睡眠の質は大事です。やはり、ゲイルがベッドで寝た方が体力と疲労の回復になるのではないでしょうか」
「馬鹿、んなこと気にすんなっつーの。これからはお前の方が働くことになるしな、きちんと休んでもらわにゃ、俺様の気分が悪いしゆっくり寝るどころじゃねえよ」
「しかし」
「いいんだ。それよりも」
はい、と横になったままの俺の顔を覗き込むセレスが、生真面目な顔で言う。そんなセレスにこんなことを言うのは気が引けるのだが、それでも、どうしても言わずにはいられなかった。
「服を! 着ろ!」
セレスは、全裸だった。
またか、またなのか。鈍い頭痛を感じながらも、セレスから目を逸らす。下着姿ならまだ許容してもよかったのだが、一瞬目に入った姿は間違いなく全裸だった。それはもう、言葉通り一糸まとわぬ姿だった。
「お前は何ですぐ脱ぐんだ……」
セレスは俺の質問に対し、不思議そうな――そう、何故か不思議そうな顔をして、淡々と答える。
「被服によって各部の可動が制限され、各種行動に支障が出ると考えています」
「でーまーせーんー! 服着ただけで支障出るなら、俺ら全員全裸なはずだろ!」
想像してみろ、めっちゃシュールだぞその光景。
「っていうか製作者はお前に何を教えてきたんだ!」
「『そもそも生物として被服を必要とすること自体が不完全な証。つまり完全な被造物である君は服を着る必要などない』と。つまり、被服は基本的に不要であると」
――次に時計台に戻ることがあったら、奴を正座させることから始めよう。今決めた。
だが、その言葉を愚直に遂行するセレスに罪は無い。噛んで含めるように、しかし妙な勘違いはされないように、慎重に言葉を選びながら説明する。
「お前が服を必要としなくとも、残念ながらここは人間による人間のための社会だ。で、人間社会の必須条件は衣食住、被服は社会で生きていくために必要不可欠なんだ。オーケイ?」
「オーケイ。被服の必要性を理解しました。只今より着用します」
「頼む」
話せばわかってくれるのはありがたい。同期とかジェムとか、俺が何を言ってもわかってくれない連中ばかりだから、その点めちゃくちゃ気は楽だ。
俺の顔を覗き込むのをやめて、部屋の隅でもぞもぞ着替え始めたセレスを薄目で確認する。
「着替えたら、飯食ってロイドんとこに行くぞ。朝のミーティングだ」
はい、という声を背中で聞きながら、俺も何とか起き上がる。セレスが起きて着替えているのに、俺が下着とシャツ姿で転がったままというのも無いだろうし。体がばきばき言ってるのは、床の上に慣れないマットで寝たからだろう。数日で慣れてくれることを祈るばかりだ。
不思議なルームメイトに、奇妙な命令。何から何まで、変なことだらけだ――と思いながらも、別に、それを嫌だとは思っていない、どころか少しばかり楽しいとすら感じている俺自身が、一番不思議ではあった。