1-02:青色の声

 救援要請。
 ちらつく青い影を瞼の力で追い払い、一拍置いて、その言葉の意味を理解する。
 誰かが、何者かに、襲われている。女王国の端っこも端っこである海上で。
 そんなこと、俺がこの基地に逃げ込んでから一度もなかった。毎日のように海をほっつき歩いているにもかかわらず、だ。巻き込まれたら十中八九死に至る迷霧の帳の側を好き好んで飛ぶのは、それこそ基地の観測隊か、海を飛んでないと息苦しくて死にたくなる変人、つまり俺くらいだ。
 とはいえ、要請された以上駆けつけない理由はない。今、この海を飛んでるのが俺しかいないなら、尚更。
「頼むぜ、『エアリエル』」
 俺の半身ともいえる『エアリエル』は中身を半分欠いたまま、通信が発生した座標に向けて真っ直ぐに飛ぶ。
 目標は、すぐに見つかった。『エアリエル』の霧を広く見通す視界に探査記術を走らせれば、それがうちの船籍の船であることはすぐにわかる。時計台時代に世話になった、河豚に似た形の小型輸送艇だ。
 それに加えて、輸送艇の周囲を舞う、丸々とした船にも見覚えがあった。
『レディバード』。
 天道虫という雑な名前の通り、丸い真っ赤な船体に透き通った飛行翅を覆う、これまた赤い鞘翅が特徴の、量産型|翅翼艇《エリトラ》だ。俺が訓練生時代に散々乗せられた、因縁の船でもある。
「こりゃまた、随分懐かしい船が出たな」
 つい、舌打ちと一緒に独り言が口をついて出るのは、悲しい条件反射のようなもんだ。魂魄回線を開いてなきゃ誰にも聞かれないのだから、構うことでもないんだが。
 ただ、俺はあんな飛び方をする『レディバード』を知らない。|翅翼艇《エリトラ》の飛行翅を自在に操るには、ある程度の技術と、それ以上の同調適性が要る。新米|霧航士《ミストノート》の訓練艇でもある『レディバード』は適性の制約がゆるく設定されているが、反面操縦性能はすこぶる悪い。そんな『レディバード』を、風も重力も感じさせず舞うように操る|霧航士《ミストノート》なんて、俺は知らない。
 そう、一人しか、知らない。
 先ほど響いた「青い」声も、きっと、あの『レディバード』に乗る|霧航士《ミストノート》だ、と。気づいた途端、激しい喉の渇きと、胸の鼓動が跳ね上がるのを感じた。『エアリエル』が俺の異常を察して警告を投げかけてくる。
 ――何でもない、大丈夫だ。
 意識して呼吸を整えながら、『レディバード』から意識を引き剥がす。今は状況の把握が先だ。
「それと、あれは……」
 霧を見通す目は、輸送艇と『レディバード』を追う小型飛行艇を三隻捉えていた。『エアリエル』の探査記術は、それらが船籍不明の偵察用と思しき複葉飛行艇一隻と、それを護衛する重武装の単葉戦闘艇二隻であることを告げている。
 とはいえ、あえて『エアリエル』に言われるまでもなく、その船には見覚えがあった。
「教団の……、幽霊船?」
 幽霊船。自分で言っておきながら、酷い頭痛を覚える。
 まさか、教団は、三年前に解体されたはずで、連中の船だって一つ残らず接収しただろう。そう思いたかったのだが、俺の視界に映る小型艇は、かつて全世界を恐怖に陥れた『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』が操っていたそれと完全に一致していた。
 何故、今になって教団が? という戸惑いの間に、輸送船を守るように弾むように飛び回っていた『レディバード』の機関銃が、突出した戦闘艇の腹をぶち抜いていた。
 ――操縦だけじゃなく、砲撃の腕もいいときた。
 つい舌を巻いてしまうが、俺の記憶が正しければ『レディバード』の武装は基本的にそれ一つ。しかも物理兵装である以上、弾数にも限界がある。
 案の定『レディバード』はその連射を最後に逃げに徹し始めたが、向こうさんは『レディバード』も輸送艇も逃がす気はないらしく、執拗に『レディバード』に張り付いている。
 これは、のんびり観戦している場合でもなさそうだ。
 女王国海軍に共通の帯域を指定して、『エアリエル』を通して通信記術を展開する。
『聞こえるか。こちらサードカーテン基地所属、|翅翼艇《エリトラ》第五番「エアリエル」|正操縦士《プライマリ》、ゲイル・ウインドワードだ』
 決まりきった口上を早口に吐き出す。まずは事情がわからないと話にならない。続けて話を聞こうとした、その時。
 あの「青い」声が、頭の片隅で囁いた。
『ゲイル・ウインドワード』
 ゲイル。名前を呼ばれただけで背筋がぞくりとする。嫌な感覚ではない。むしろ、それとは正反対の。
 だが、その感覚の正体を確かめる前に、船団からの通信が割り込んでくる。
『ウインドワード大尉! 青き翅の|霧航士《ミストノート》、救国の英雄か!』
 ――救国の英雄。
 その空虚な響きに、高揚はさっぱり消え失せて、苦虫を噛み潰すような心持ちになる。どうせ向こうには見えてないのだから、どれだけ渋い顔をしても許されると信じている。
 俺は「英雄」なんて肩書きが欲しくて飛んでるわけじゃない。結果として、そうなってしまっただけだ。どれだけ高く、どれだけ速く飛んでも、本当に欲しいものは永遠に手に入らないってのに。
 つい頭の中を支配する余計な思考を振り払い、向こうからの声に集中する。
『こちら時計台の輸送艇「ホワイトカーゴ」! サードカーテン基地への備品輸送の途中に、船籍不明の武装艇に襲撃を受けている! 救援を願う!』
「うちに輸送艇が来るなんて聞いてねーぞ」
 念のため通信の外で呟く。今日が特別な日だと知っていれば、近くまで迎えに行くくらいはしたぞ。何せ暇なんだから。普段あまりにも何も起こらないせいで、今日も何も起こるまいと信じていたあたり、俺自身の平和ボケを自覚させられたが。
『で、そっちの「レディバード」は? 護衛か?』
 たかが物資の護衛に、訓練生っぽいとはいえ|霧航士《ミストノート》をつけるのも大盤振る舞いすぎる。それとも、運ばれてくるものがそれほど重要なもんなのか。平和なだけが売りのうちに厄介なもんを持ち込むのは、正直勘弁してほしいんだが――。
『それが「備品」だ、死守してくれ!』
 うん? 今、何て言った?
 俺の耳が悪いのか。音声でなく魂魄レベルの通信だから、そうそう聞き間違えることもないと思うんだが。
 向こうさんの意図が気にはなるが、聞き返している暇もない。死守すべき対象が『レディバード』である以上、とにかく動いてから考えるしかない。
 ふわふわ弾むように飛ぶ『レディバード』とそれを追う戦闘艇の間が開いた瞬間を見計らって、飛行翅を一つ打ち鳴らし、その空隙に滑り込む。
『あ』
『何だかよくわかんねーけど助太刀する。下がってろ』
 戸惑うような声を上げる知らない|霧航士《ミストノート》に声をかけるのと、ほぼ同時に。
『ゲイル・ウインドワード……。本当に、こんな辺境にいるとはな』
『ああ? いちゃ悪ぃかよ』
 頭ん中に割り込んできた憎々しげな野郎の声に、因縁をつけ返す。通信の出所は目の前の戦闘艇だ。|魄霧《はくむ》を喰いながら滞空する『エアリエル』に対し、奴さんは水平に旋回しながら、ぎりぎり『エアリエル』の武装の間合いの外で距離を測っている。案外冷静だな、こいつ。
 それだけ、俺と『エアリエル』の手の内がバレてるってことでもあるんだが。有名人って辛いよな、ほんと。
『つーか気安く呼ぶんじゃねーよクソ野郎。手前、何様だ?』
『答える筋合いはない』
 そりゃそうだ。俺も、もしお前の立場だったらそう言うだろうよ。
 さて、ここからどう出るべきか。というか、俺は勝手に散歩してただけだから、当然交戦許可も降りてないわけなんだが、これ、撃ったら絶対後で怒られるパターンじゃねーか。でも不可抗力っていい言葉もあるし撃っていいかな、とかなんとか思っていると、
『……「エアリエル」、こちらサードカーテン基地。聞こえてる?』
 やっと、聞きなれた声が聞こえてきて、ほっと息をつかずにはいられない。
 予想外の事態が立て続けに起きすぎて、そろそろ考えることを諦めかけていたのだ。意識だけは戦闘艇――そして、その一方で反転して逃げに入っている偵察艇へと向けたまま、相手を絞って言葉を投げる。
『よう、おはようさん、ロイド。何かうちの船籍の連中が、件の教団の船に襲われてたんだが、一体どうなってんだ?』
 我らが基地司令ロイド・グレンフェル大佐は、教官時代から何一つ変わらない、やたら癖の強い女言葉で言う。
『ええ、こちらも確認してる。まあ、朝のミーティングにも参加せず、勝手に飛び出した馬鹿にしてやる説明はないけど』
『おおっと薮蛇』
 どうやら、今日の全体予定も聞かずにふらっと『エアリエル』で飛んでしまった俺が悪いっぽい。何となく予想はしてたけど。いやほら、飛びたかったんだからしゃーないよね。押さえきれない本能ってあるじゃない。
 ロイドも俺のこの持病は嫌ってほどわかってるはずで、それ故だろう、俺にだってわかる呆れと諦めを含んだ溜息をついて、投げやりに言う。
『ま、出撃指示の手間が省けたと思うことにしましょ。さて――|翅翼艇《エリトラ》第五番「エアリエル」|正操縦士《プライマリ》、ゲイル・ウインドワード大尉』
 ロイドの口調ががらりと変わる。サードカーテン基地司令として、そして基地で唯一、俺たち|霧航士《ミストノート》に直接命令を下せる上司として。低く、しかしよく通る声で宣言する。
『説明は後だ、所属不明の船舶を漏らさず撃滅しろ。三分だ』
『は、馬鹿言え』
 三分。それは、俺が『エアリエル』で戦闘可能な時間に他ならない。それ以上の戦闘行動を禁じる、という釘刺しであり、同時に、それだけの時間があれば十分であろう、という信頼でもある。
 だが、この俺が。「飛行狂」ゲイル・ウインドワードが。そんな生ぬるい飛び方をする気は、さらさら無い。
『三十秒だ』