003:永久
ラビットは、重い痛みを感じる頭を上げた。窓からはカーテン越しに淡く光が差し込んでいる。
朝。
それに気づいて、腕に力を込めてゆっくりと身体を起こそうとする。
腕に伝わるひやりとした感触に、彼は自分が寝ていた場所がいつものベッドではなく天体望遠鏡の下の床であることを思い出した。
ただ、起き抜けの思考回路では、何故自分がこんな所に寝ていたのかが思い出せない。
しばらく、ラビットの赤い瞳は灰色の天井と真上にある古ぼけた望遠鏡を見つめていた。いや、見つめていたというよりかは大体その辺に目線を彷徨わせていたという方が正しい。
ラビットはほとんど目が利かない。光に弱いのもそうだが、左目は盲目であり、右目の視力も著しく低下している。視力補助装置を常に身に付けていなければ外もまともに歩けない状態だ。流石に寝るときは装置も外しているが。
やっとのことで彼は起き上がると、側に置いてあったはずの視力補助装置のコードを手で探る。手に触れたとわかると自分の元に引き寄せて頭の右側に取り付ける。脳に直接送り込まれる情報で視界が急に明るくなった。この装置の弱点といえば、視界が本来の視界から多少ずれてしまうこと。しかしラビットにとってはあまり関係の無いことだ。
視界を確保すると、その場に座ったまま何かを思い出そうとして思考回路を働かせようとした。
昨日何があったのか。
そう、昨日は軍に追われていた少女をそのままここに連れ帰ってきたような気がする。何をすれば良いかわからなくなって戸惑っていたとはいえ、軽率な判断だったとラビットは思う。どんな理由があっても、地球において星団連邦軍の権力は絶対だ。変な揉め事を起こしても後で困るだけだ。
その少女はどうしたのか。
それがどうも思い出せないまま、ラビットは立ち上がって部屋を出て、自室に向かった。何とも昨日の記憶が曖昧になっていた。
――もしかすると、全て夢だったのではないか?
ラビットの頭の中にそんな考えがよぎる。何とも馬鹿らしい考えではあったが、そう考えると納得はいく。少なくとも、下らない夢ばかり見ている自分にとっては。
ラビットは自室のドアを開けた。窓のカーテンは開いていて、それほど強くもない光がラビットの目を焼く。とっさに目を手で覆いつつも、彼の視線は窓の下のベッドに向けられていた。
――やはり、夢ではなかった。
真っ白なベッドに寝ていたのは一人の少女。昨日、ラビットが連れて帰ってきた少女だった。記憶は定かではなかったが、おそらく少女が憔悴しきっていたからそのまま寝かせたのだろう。
少女は深い眠りについていて、規則正しい寝息が聞こえてくる。ラビットは机の上に置いておいた黒硝子の嵌められた眼鏡をかけると、改めて少女の方を見た。
少女の青色がかった銀の髪が窓の隙間から吹き込む風に揺れる。ゆっくりと眠っているところを起こしても悪いと思い、ラビットは自室を後にした。
『おはようございます、現地時間で朝六時丁度をお知らせいたします』
その時、小さな天文台中に澄んだ女の声が響き渡った。天文台に仕掛けられていた主電脳が動き出したのだ。
「おはよう、龍飛(タツヒ)」
ラビットは廊下を歩きながらどこに向かってでもなく、声を発した。すると、女の声が返ってきた。
『おはようございます、ラビット。昨夜はよく眠れなかったのですか? 疲れた顔をしておいでです』
この人工知能は、名を龍飛という。ラビットがここにやってくるよりも昔からこの天文台の機能を支配する管理電脳だ。前の住人が設定したらしい、古びた天文台には似合わぬ高性能な人工知能であり、ほとんど人間と変わりない感情機能を有している。
ラビットは鈍く痛むこめかみを押さえながら、小さく呟く。
「そうかもしれないな……」
『お気をつけ下さい、ラビット。今は貴方がワタシの主人なのですから。貴方が居なくなったらワタシはまた長い間独りきりです』
「ああ、わかっている」
ラビットは階段を下りながら言う。そして、下の階のキッチンに向かい、棚の中のコーヒーカップを手にとった。
「龍飛、珈琲を沸かしてくれ」
『朝食はよろしいのですか?』
「ああ、食べる気にならない」
そう、ラビットが言うと、台所の中に仕込まれた装置が動き始める音がした。カップを装置の上に置くと、ラビットは椅子に座り、テーブルの上に置いてある小型の立体映像映写機を見た。そこには蜻蛉の羽を生やした一人の美しい女性の映像が浮かび上がっていた。これが、龍飛の仮想映像だった。
「何か、夜のうちに変わったことはあったか?」
ラビットが龍飛に向かって話し掛ける。龍飛は優しげな笑みを浮かべて答える。
『一件通信がありました』
「珍しいな。誰からだ?」
『識別番号、一○六四八九-A六九八……クロウ・ミラージュ様からです』
「ミラージュ女史? 今更何の用だ」
『確認後、連絡を求むということでした』
「わかった」
ラビットはそう言って、装置の上に置いておいたコーヒーカップを手に取る。何時の間にか、カップの中には熱いコーヒーが注がれていた。
『飲料用水の残量が残り僅かになっているようです。至急、追加を勧めます』
「水はここでは高いんだ」
ぶつぶつと言いつつも、ラビットはコーヒーをすすりつつ、立体映像映写機の前に置かれたキーボードを叩く。すると、映し出されていた龍飛の姿が消え、黒い画面が浮かび上がる。ラビットが情報を打ち込み終えると、『接続中』という文字が浮かび上がり、点滅した。しばらくその状態が続いた後、画面が急に明るくなって、一人の少女の顔が映し出された。
「ミラージュ、私だ」
『………』
映し出された黒髪の少女は、眠そうな目でラビットを見つめた。
「連絡を寄越してきたようだったが、何の用だ?」
『……トワ……話す』
普通の人間なら明らかに苛立つであろう口調で、画面の少女……ミラージュは言った。
「トワ?」
『貴方……昨日、トワ……』
断片的な言葉しか紡ごうとしないミラージュを押しのけるようにして、画面にもう一人の人物が現れた。今度は赤い髪が特徴的な、軍服を身に纏った男だった。
『すいません、クロウがどうしてもあの子と話したいって言うから……』
この男は、ミラージュの相棒であるレオン・フラットという軍人だった。ラビットもミラージュ同様面識がある。
「フラット少佐、『トワ』というのは?」
『貴方が昨日、軍に追われていた少女をここに連れてきたでしょう? その少女です』
ラビットは驚いた。既に、軍にはここの場所……そして少女の行方が伝わっていたということに。
当然ながらこのミラージュもフラット少佐も軍の人間だ。元々ミラージュとは時折連絡を取り合っていたが、少女のことなど、昨日出会った自分でもよく覚えていなかったのに、ミラージュが知るわけないと思っていたのだ。
「軍は、私がその少女をここに連れてきたことを知っているのか?」
『いえ、知るわけないですよ。我々が知っているのは、クロウの能力で、です』
「何か関係があるのか?」
ラビットがそう言ったとき、背後で物音がして、ラビットは振り返った。後ろでは、あの少女が階段の柱の後ろからこちらを見ていた。
「……起きたのか?」
少女は頷く。そして、ゆっくりとした足取りでラビットと画面の方に向かう。画面のフラットは安堵の笑みを浮かべつつ、言った。
『丁度良かった、クロウ、あの子だ』
少女は画面と向き合うと、再び画面に現れたミラージュに向かって話し掛けた。
「クロウ、ひさしぶり」
その声は、どこか不思議な響きがあった。ラビットは一瞬その声が誰かに似ているような気がして、不思議な懐かしさを覚えた。
『ひさし……ぶり』
「迷惑かけてごめんなさい」
『ううん、メイワク……な、わけない』
とてもスローペースな会話。ラビットはその様子をじっと見つめていた。観察していた、と言ってもいい。少女は真っ青な瞳で画面のミラージュの黒い目を覗き込んでいた。
『よかった、安心……』
「うん、ありがとう」
そう、言って少女は画面から目を離し、ラビットの方を見た。ラビットは少女の横でミラージュに向かって言った。
「もういいのか」
『……あ』
「?」
『気をつけて……軍、動き……』
「動き出した?」
『トワ、追って』
そこで、通信が途切れた。画面がパッと黒くなる。ラビットは溜息をついて椅子にもたれかかる。今度は少女がその大きな青の瞳でラビットを覗き込む。
「……トワって、名前なのか?」
ラビットは少女に向かって言った。
「うん」
少女は頷く。
「変わった名前だな。どういう意味だ?」
ラビットが問う。
「……『永久』って書いて、『トワ』って読むの」
少女が答える。
「永久……か。いい名前だ」
ラビットは少女、トワに向かってテーブルの横にある椅子を指差した。
「立っていたら疲れるだろう。座ればいい」
「うん」
トワは椅子に座る。少女にとっては大きな椅子で、小さな足が床から浮いていた。
一瞬の間を置いて、ラビットは話しはじめた。
「軍に、追われているのだな」
「うん」
「何故、追われているのか、話す気はあるか?」
「……ううん」
「そうか」
ラビットは黙り込んだ。何を話せばいいか迷っている様子でもあった。何しろ、話したくないものを無理やり聞く気もなかった。その間もトワはじっとラビットを見ていた。
「聞いてもいい?」
トワはラビットに向かって言った。
「ああ」
「貴方の名前は?」
ラビットは逡巡してから答えた。
「……ラビット」
「兎さん?」
「そう。そのラビット」
トワは自分自身に確かめるように何度か頷いてから、もう一度ラビットに向かって言った。
「もう一つ、聞いてもいい?」
「ああ」
「ここはどこの星?」
「ここは地球だ。それも知らなかったのか?」
「ううん、でも、そうじゃなかったらどうしようかと思って」
ラビットは首を傾げた。トワはずっとラビットを見つめていた。ラビットは急に気恥ずかしくなってきて目を逸らしてから、トワに話し掛けた。
「ここの人間ではないのだろう? 地球に来て、何をする気だ?」
そういえば、似たことを昨日問われた気がするとラビットは思う。トワは少し考え込むような仕草をしてから、答えた。
「わたし、この星が見たかったの」
「こんな灰色の何もない星が?」
「何もなくないよ。だから、クロウにも手伝ってもらったの」
「クロウ・ミラージュとは知り合いだったのか?」
「うん、友達」
トワは少し笑顔になって答えた。
それから、二人ともしばらく無言だった。ラビットは何を言っていいかわからず、トワは何か言おうとして言葉を選んでいるようだった。
少し経って、トワが口を開いた。
「あのね、ラビット、お願いがあるの」
ラビットはそらしていた目をトワの方に戻した。トワの表情は昔ラビットが見た誰かにとてもよく似ていた。
「何だ?」
ラビットはトワの言葉に少し当惑した。だが、この後の言葉にはもっと当惑させられることになる。
「……わたし、ラビットと一緒にこの星を見たいの」