はらわたの六花

『先生』カーム・リーワードの行動は、担当のネイト・ソレイルからすればいつも突然で。
 今日も原稿をほっぽりだして、どこに行くのかと思えば「墓参り」なんて嘯くのです。今まで先生が誰かの墓参りに出かけたことなど一度もなかったので、ネイトは思わず問い返してしまったものでした。
「それを口実にサボろうという魂胆ですか?」
「流石に死人を理由にするのは後ろめたいですよ。知り合いの命日が今日だと思い出したんで、挨拶の一つくらいはしようか、って程度です。すぐ帰りますよ」
 先生の色眼鏡越しの視線は、カレンダーに向けられていました。過ぎ去った日をバツ印で潰しながら、日々の予定をそれはもう微に入り細に入り書き込んでいるそれで、先生はかろうじて「自分が生きている日」を把握するのです。
 先生は白髪混じりの長い金髪を結いなおし、大事な手帳に今日のペンを手挟んでネイトに向き直ります。
「で、ネイトはどうします?」
「もちろん、お供しますよ」
「ですよねぇ」
 何せこの困った作家先生は、下手に目を離すと大変なことになってしまいますから。
 
 
 先生の目的地は、鈍鱗通りのミスティア教会の裏手に位置する墓地でした。ここはネイトもよく知っています。出版社に雇われる前は、随分ここの墓守にお世話になったものです。
 と言っても、今日は墓守の老人は不在のようで、見知った見習いの少年が霧深い墓場を案内してくれました。
 先生の知り合いの墓は小さなものでしたが、墓石は綺麗に磨かれ、花が供えられていました。おそらくは家族がいるのでしょう。命日には欠かさず挨拶に来て、花を供えてくれる家族が。
 先生は道中で買ってきた白い花を手向け、右手を胸に当てて黙祷を捧げます。ネイトも名前と生没年しかわからないその人の魂魄が無事ミスティアの元に還っていることを祈ります。
 先生の過去を、ネイトは正確には知りません。戦時は時計台(女王国軍本部)に属していたというくらいで、それ以上のことは――想定はできても、先生の口から語られることはありません。時折、泡のように吐き出される断片的な思い出話と、先生の綴る「作品」そのものだけが、先生の過去を思わせるものでした。
 やがて黙祷を終えた先生が顔を上げて、ネイトを振り返りました。
「さて、用事も終わったことですし、飯屋にでも寄って帰りますか?」
「すぐ帰るって言ってました、よね?」
 ネイトは先生を睨みつけます。これは先生の常套手段で、一度でも外に出てしまうと、適当な理由をつけて結局なかなか家に帰ってくれないのです。そんなに原稿が嫌なら作家など辞めてしまえばいいのに、と思ったことは一度や二度ではありません。が、今日も先生はあくまで作家先生カーム・リーワードなのでした。
 かくして先生は「はいはーい」というとぼけた返事をネイトに投げかけて、存外素直に踵を返してくれそう、だったの、ですが。
「おやぁ?」
 一度は家の方向を向いた足が、何故か墓地の奥へと向けられてしまいます。ネイトは慌ててその後を追いかけます。と言っても、普段より一段と深く感じられる霧の中で先生の目を引いたのは、すぐそこにあった……、無数の花が捧げられた区画でした。
 ――共同墓地。
 身寄りのない、もしくは誰かもわからない人々が葬られた場所。特に、戦時から戦後にかけての混乱に際しては、この小さな鈍鱗通りの墓地にも、何人もの名も知らぬ人が葬られたといいます。ネイトがこの通りにやってきたのは戦後のことですから、当時の混乱はあくまで墓守づてに聞いた話ではありましたが。
 しかし、先生の興味を引いたのは墓地そのものではなく手向けられた花のようでした。服や靴が汚れるのにも構う様子もなく、土の上に膝をついてひとつの花を眺めているようでした。
「先生! 何してるんですか!」
「何って、だってネイト、こんな花、見たことあります?」
 声音には、墓地という場には似合わない好奇心が満ち満ちていました。この人はいつだってそうなのです。ネイトも仕方なく先生の横にしゃがみこんで、先生の言う「花」に目をやって――思わず、声を上げました。
「透明な……、花?」
 そう、それは、喩えるならば硝子細工のような花でした。茎や葉には微かに白い色がついていますが、それも半分透けていて、花は完全な透明。複雑な形状の六枚の花弁がまるで雪の結晶のように、霧明かりを浴びてきらきらと輝いているのでした。
「触るのははばかられますけど、作り物、にも見えないから不思議ですね」
 先生は姿勢を変え、手帳に何かを書き込みながら、いくつもの方向からその花を眺めます。図鑑でもこんな花は見たことがありませんよ、とぶつぶつ言いながら、完全にその花に意識を持っていかれているようでした。これは、力ずくでも引きずって帰らなければならないだろうか、とネイトが思いかけた時、横合いから声がかかりました。
「それは『獣のはらわた』にだけ咲く花なんですよ。一度摘むと三日もしないうちに霧に溶けてしまうそうです」
 見れば、鍔の広い帽子を目深に被った墓守見習いの少年が、いつの間にか側に立っていました。先生はその声でやっと我に返ったらしく、服のあちこちについた泥にも構わずに言います。
「『獣のはらわた』? あんなとこに花とか咲くんですか」
『獣のはらわた』。それは、この女王国首都の地下に存在する巨大な迷宮です。
 はるか昔、この島を荒らしていた巨大な鉱物獣を、初代の精霊女王エリアが討伐した際のこと。女王の力で獣の姿形は大地へと還りましたが、ねじくれた腸だけは地中深くの迷宮と化したといいます。もちろん記録すらも定かでない建国時代のお話ですから、真実かどうかを確かめる術はネイトにも、それに先生にもないでしょう。
 ただ、『獣のはらわた』が現在も前人未到の迷宮として首都の地下に存在している、ということだけは事実でした。
「『はらわた』には地上では見られない植物が多く見られるそうですよ。俺も詳しくは知らないんですが」
 少年は帽子の鍔を下げて言います。……ネイトは、この少年とはほとんど言葉を交わしたことがなかったことを思い出していました。寡黙で、自分から話をするということが少ない少年でした。
 そんなことも知らない先生は、「へえ」と嬉しそうに言いました。
「そりゃあ俄然『はらわた』にも行ってみたくなりますねぇ」
「ダメですよ、先生。法律で立ち入りが禁止されてるんですから。っていうか、入り口知ってるんですか?」
「知りませんけど、上層は家なしの住処になってるって話ですし。探せば案外簡単に見つかると思いますよ」
 それはネイトも噂として知っていました。地上に家を持てない人がいることも。そのような人の一部は、雨風をしのぐために地下で肩を寄せ合って暮らしているのだということも。
「多分、見つかると思います。俺も、そこから来ましたから」
 ぽつりと、墓守の少年が呟いた言葉に、ネイトは思わず「え?」と聞き返してしまいました。それはネイトも初耳でした。
「俺、親も家もなくして、『はらわた』に逃げ込んだんです。でも、そこで出会った人に教会に連れて来てもらって、ここで仕事させてもらってるんです」
 この花は、ここに連れて来てくれた人が手向けた花なのだそうです。と言っても、その人が直接手向けたものではなく、人づてに託されたらしいのですが。
「ここには、その人がとても大切にしてた人が、眠ってて。だから、俺の手で眠りを守ることが、その人への感謝と……、になると、思ってます」
 ネイトには、少年の声は一部聞き取れませんでしたが、先生は「なるほど」と頷いて、少年に向かって言いました。
「オタクも若い身空で大変な思いをしたんですね。ま、人生これからですからね。精々頑張ってくださいよ」
 先生には珍しく茶化した様子もなく、ぽんぽんと少年の帽子を叩き、ついでとばかりに問いを投げかけます。
「ちなみに『その人』はどうして直接来ないんです? 人づてに渡せるってことは、自分で来てもよさそうなもんですけど。『はらわた』住みの連中だって、地上に買出しに来るって話じゃないですか」
「その人だけは『はらわた』から出ようとしないんです。俺の時が例外だっただけで。俺もあれ以来、その人の姿を見たことは、ないです」
 出られない、ではなく、出ようとしない。
 その言葉を聞いて、ネイトの脳裏には闇にぼんやりと照らされた横顔が浮かびます。
 実は、ネイトも先生と出会う前に『獣のはらわた』に潜ったことがあるのです。そこで、不思議な男の人と出会ったことがあったのでした。
 少年の言う「その人」とネイトが出会ったその人が同一かはわかりませんが、外に出ようとしない、という姿勢は同じでした。あの人は今も『はらわた』に暮らしているのでしょうか。ランタンの頼りない灯りを頼りに、この花を丁寧に摘み取っていたのでしょうか。
「奇特な奴もいるもんですねえ。ああ、お話ありがとうございました、いいもんを見せてもらいました」
「いえ。お役に立てたなら幸いです」
 少年は帽子の鍔に手をかけて一礼しました。墓守は決して帽子を外さないものです。曰く「女神様に顔向けできる仕事ではないから」。ともあれネイトは先生と一緒に会釈を返して、帰路につきます。
 墓地を出るまで、先生は妙に静かでした。あの花のことを考えているのだろうか、と思っていると、墓地を出たところで不意に口を開きました。
「感謝と、贖罪。事情は知りませんけど、あの子は背負って生きてくんでしょうね」
 ――その贖罪に、終わりがなくとも。
 誰にともなく呟かれたその言葉を、ネイトは胸に刻み込みます。ネイトは先生ではありませんから、先生の言葉の意味全てを理解できるわけではありませんでしたが。
 それでも、三日と少しの後には必ず忘れてしまう、先生のために。