壁の暗号

 ――お引越しをすることになりました。
 そもそものきっかけは、ネイト・ソレイルが暮らしているプラーンシール社のおんぼろ社員宿舎の改築作業でした。その話を聞いた先生がネイトに「どうせ毎日オレの『監視』してるんですから、いっそここに暮らします?」と提案し、その言葉に大家兼管理人のマシューさんが同意した上で、更に「住人が増えるなら、これを機にお屋敷に引っ越さない?」と言い出したのです。
 この「お屋敷」、元々はここ鈍鱗通りでも「幽霊屋敷」と呼ばれていた、奇妙な噂が絶えない無人のお屋敷だったのですが、色々な巡り会わせの結果、マシューさんが買い取ったものなのです。この度やっと人が暮らせるくらいには修繕が済んで、ついにお引越しが始まった、というわけです。
 先生がマシューさんのところにお世話になるようになってから、大体二年とちょっとだと聞きますが、それにしては妙に膨らんでしまった荷物をより分け、不要なものを処分し――この時、めちゃくちゃ先生が抵抗しましたが、ネイトは頑張って無視を決め込みました――、必要なもののほとんどをなんとかかんとかお屋敷に運び込んで。
 かくして、元の部屋に残されたものといえば、壁一面に貼られたメモだけになりました。
 先生はその日の出来事をつぶさに手帳に記す他に、「これから必要なこと」は壁にメモとして残すようにしています。ですから、壁を埋め尽くすメモも随分と膨大になりました。
 それに、「先生のものでない」メモも随分増えた、とネイトは思っています。
 マシューさんの筆跡で書かれた、手近なお店や酒場への地図。ご飯の献立に、庭の手入れのお手伝いに関するお願い。そのうち、引越し先でも必要そうなものをより分けて、剥がして、手元の箱の中へ。いらなさそうなものは、ゴミ袋へ。
 それから、もちろんネイトの筆跡によるものも。〆切までのカウントダウン、勝手に仕入れたお酒をお酢に変えておいたというアナウンス、それに書き加えられた先生の手による罵倒。更にそこにネイトのツッコミと先生の言い訳が追加されて、それはもう酷い有様になっていました。これはひとまずゴミ袋の中へ。きっとまた、お屋敷に暮らすようになっても同じやり取りが繰り返されるのが目に見えていましたが、それはそれ。
 ついでに、「先生からネイトへの伝言」もいくつかあります。「床にものを置かない。あと、ネイトは足元に気をつけること!」だとか、「足元に気をつけろと言ったけど、頭上を疎かにしろとは言ってない!!」だとか。余計なお世話、と言いたいところですが、自分の普段の行動を顧みると言い訳できないのが困ったものでした。
 そんな新しいメモの下には、黄ばんだ古いメモ。これは、先生自身の手によるもので、ネイトには全く読めないもの。元より先生は悪筆で、先生の原稿に慣れたネイトですら時々読み間違えるくらいなのですが、そういうことではなく。先生は「自分にだけ読めればいい」メモを、暗号で残す癖があるのです。意味不明な数字と文字の組み合わせがいくつもいくつも並んでいる光景を初めて目にした時は、少なからず不気味に思ったものです。近頃は、それがすっかり当たり前の光景になっていた、わけですが。
 これに関してはどれが必要でどれが不要かはネイトにはわかりませんから、ひとまず全て引っ越し先に持って行くことにします。
 そうして、いくつものメモを剥がしては選り分け、剥がしては選り分けしているうちに、ネイトの目の前には、一際大きなメモが一枚残されることになりました。メモの中でも相当古いもの。おそらくは二年とちょっと前くらいから、ずっと貼られている、もの。
 もちろん、それもまた、奇妙な文字列で記されていて、ネイトには読み解くことができません。できません、が。
 ネイトの横で淡々とメモを剥がしていた先生が、いつもの調子で声をかけてきます。
「ネイト、とっととそいつも剥がして持っていきますよ」
「あ、はいっ」
 慌ててそのメモを剥がして、改めて手の中に収まったそれを見下ろします。
 そう、解読こそ出来なくても、今のネイトになら、そこに書かれている内容がわかるような気がしました。
 ――そこに書かれている内容は、きっと。
 
 
『オレの記憶は、三日とすこし(262143sec)しか保たない』