冷たい君のこえ
「話すことといっても、そう大した話はないんだけどな、刑事さん」
「そりゃあ、あなたにとってはそうかもしれないけど」
「それでもよければ、……喜んでお話しするよ。僕と、コノハのこと」
公園のベンチに腰掛けた若き刑事は、ひとつ隣に座る木野下弘行に、「聞かせてもらいましょうか」と話を促した。木野下は小さく頷いて、刑事から視線を切って、公園の広々とした芝生に目を向ける。
「ここは、僕がコノハと初めて出会った場所なんだ」
「何だ、覚えてたの。すっかり忘れられてると思ってた」
「忘れられるはずもない。刑事さんには惚気を聞かせるようで申し訳ないけれど、初めて出会った時、本当に驚いたんだ。こんなに綺麗なひとが存在するのかって」
「ほんと、あなたってばいつもそんなこと言って。……悪い気はしなかったけどね」
刑事はその言葉を聞いて、ほんの少し口の端に笑みを浮かべる。このような場で笑ってみせるのは不謹慎かもしれないが、率直に、ほほえましいと思ったのだ。
「そう、悪い気はしなかったし、わたしだって嬉しかったの。あなたのような人に出会えてよかったって、その時には本当に、本当にそう思ってた」
「僕はね。幸せ者だと思ったよ。コノハにも気に入ってもらえて、それからお付き合いが始まったんだ」
「あなたってば、蓋を開けてみれば本当におっちょこちょいで、注意力散漫で、わたしがいないと何にもできないんだから」
「そう、僕は色々と足らないところが多くて、よく怒らせてしまったね」
「怒ったんじゃないわよ。確かに、ちょっときついことは言っちゃったかもしれないけど……」
「勘違いしないでほしいのは、……そういうところも、好きってことなんだ」
「…………っ」
「怒ってるときに口を尖らせるところとか、僕に投げかけてくる言葉の一つ一つとか、そういうものが愛しくてたまらなかった。刑事さんにはわかるかな、そういう気持ち」
刑事は「わかる気はするね」と相槌を打つ。人を好きになったことがないわけではないし、好きになればちょっとした挙動の一つ一つに愛しさを感じることも、まあ、わからなくはないのだ。
「恥ずかしいこと言わないでよね」
「恥ずかしいことかもしれないけど、……僕にとっては、大切なことさ」
言葉を切って、木野下は刑事に視線を戻した。木野下の、切れ長の目に宿っている陰りがにわかに色を増す。
「だから、どうして」
「なら、どうして」
「コノハが殺されなきゃいけなかった」
「あなたに殺されなきゃいけなかったの?」
「僕は本当に何も知らないんだ。どうしてこの場所でコノハが死んでいたのか、何も、何も」
「嘘ばっかり。あなたがここに呼び出したのよ。話があるって言ったのに、その手で、突然わたしの首を絞めて!」
「苦しかっただろうな、辛かっただろうな、冷たくなったコノハを見たとき、本当に……、やるせなくて」
「ええ、とても苦しかった! 苦しくて、必死にもがいて、でもあなたは手を緩めなかった! わたしが冷たくなるまで、ずっと!」
刑事はじっと木野下を見つめる。木野下は両手で顔を押さえて、ゆるゆると首を振った。これ以上は語ることも辛いとばかりに。刑事の唇から、そっと息が漏れる。
「うん、キノシタさんの言いたいことはわかった」
「わかってもらえてよかった」
「……っ、わかってない! 刑事さんは何もわかってない!」
ベンチから腰を浮かせながら、刑事は「それじゃあ」と呑気な口調で言う。
「あと一つだけ、聞かせてもらえるかな」
「何かな?」
木野下が顔を上げる。刑事はそんな木野下の顔を見ることなく、冬の訪れを前にところどころが枯れ気味の芝生を眺めながら言う。
「オガサワラ・コノハさんの死について。関係しそうな出来事に、心当たりあるかな」
「だめ、その人の言うことは全部嘘よ」
「心当たりなんてあるはずないですよ。僕にも、コノハにも」
「そんなの嘘! ねえ、わたしの話を聞いてよ! 刑事さん!」
刑事は高い位置から木野下を見下ろして、鷹揚に笑ってみせる。
「ありがとう、キノシタさん。また後で何かお話聞かせてもらうと思うけど、その時は悪いけどよろしくね。これも俺たちのお仕事だからさ」
「……はい」
木野下もゆるりと立ち上がり、「それでは」と深々と頭を下げて、その場から立ち去っていった。
刑事は、語り手が去るのを見届けて。
そして、「もう一人の語り手」に眼鏡越しの視線を向ける。
「いやあ、末恐ろしいねえ、君の恋人は」
「……聞こえて、いたの?」
「聞こえてるよ。だからそんなに耳元で叫ばないでね。痛いから」
もう一人の語り手――小笠原木葉は、きょとんとして刑事を見た。
刑事はあっちこっちに毛先が跳ねた茶色みの強い髪を掻きながら、改めて木野下弘行が去っていった方向を見やる。
「果たしてどこからどこまでがでまかせなのかわかったもんじゃないな」
昨日、小笠原木葉がこの公園で死んでいるのが発見された。死体の様子から扼殺と断定。犯行時間は前日の夜と見られているが、目撃者はなく、捜査は難航しそうだというのが警察の現在の見立てであった。
同棲相手である木野下弘行が怪しまれているのは確かだが、誰に対してもあの調子らしいというのがこの刑事が聞かされていた内容であった。
「ねえ、どうしてキノシタさんが君を殺したのかはわかる?」
「わからない。……そんなの、わたしにはわからないよ」
すとんとベンチに腰掛けなおした木葉は透けた両腕で己の体を抱く。ぼやけた輪郭ではあるが、刑事の目は確かにそれを捉えている。木葉は戸惑いを隠せないといった様子で刑事を見上げていたが、不意に声を上げた。
「でも、でも! わたしがヒロユキに殺されたのは間違いないの! 刑事さん、お願い! ヒロユキを捕まえて! あの人の真意が聞きたいの!」
「とはいってもだね、君の言うことは調書に載せられないし、俺の妄言と言われてしまえばそれまでだ。実際、こうして喋っている君も俺の妄想かもしれないわけでね」
「わたし、妄想なんかじゃ……」
「君の声が俺以外に届かない以上、誰も君の実在を保証はしてくれないってことさ」
刑事は大げさに手をひらひらさせてみせる。その様子をどう捉えたのか、木葉はしゅんと肩を落としてしまう。それでも、それでも、じっと、涙ぐんだ目で刑事を見上げるのだ。
「わたし。諦めないから。わたしの声を聞き届けてもらえるまで、絶対に諦めない」
「そうだね。俺も、諦めたつもりはないよ」
「……え?」
「俺が君の言葉を信じて捜査するのは自由だからね」
その言葉に、木葉の表情が明るくなる。ただ、それと同時に不思議そうに首を傾げるのだ。
「でも、どうやって信じてもらうの?」
「なーに、色々やりようはあるさ。今までもそうやって仕事してきたからね、俺は」
その言葉を木葉が信じるか信じないかは関係ない。刑事はそんなことを思い、朽葉色の目を細めて笑ってみせながらも。
「そう、起こってしまった事件をなかったことにはできないけれど」
コートの裾を翻し、厳かに、宣言する。
「君のような人をなかったことにしないために、|警察《俺たち》はいるのさ」