なんてことない夜の話
ビールをいっぱいに注いだグラスを手に取る。
「みんな、飲み物は持ったかー!」
「おーう」
「ばっちりですよ!」
「ではでは、乾杯!」
乾杯の音頭に合わせて、そっとグラスを持ち上げる。グラスを打ち合わせる相手はいないけれど、歓声は確かにディスプレイの横に備え付けられた小さなスピーカーから聞こえてくる。
ディスプレイに映し出された、黒猫のアイコンがちかちかと光る。その光に合わせて、聞きなれない女の声が聞こえてくる。
「誘ってくださってありがとうございます」
「いいってことよ。こうやって皆でわいわいする時間も、たまには必要だろ」
俺は言いながら、ビールをぐいっと飲み干して、手酌で缶からグラスへとビールを移す。
オンライン飲み会をしようと言い出したのが誰だったのか、俺ははっきりと思い出すことができない。ただ、このコロナ禍において誰もが鬱屈していたのは確かで、とんとん拍子に話が進み、いつもの面子で予定をあわせて、そして今日に至ったということだ。
いつもの面子というのは、そう、いつもSNSやらゲームやら、とにかくオンラインでつるんでいる連中だ。住んでる場所も性別も職業もばらばらであるし、そもそも知らないことも多い。知る必要もないと思っている。
もちろん顔も本名も知らなくて、ディスプレイに映し出されているのはそれぞれが設定したアイコンとハンドルネーム。
これだけあれば、俺たちにとっては十分だ。
「今日のおつまみは何だい?」
「ふふーん、今日は奮発してピザを頼んじゃいました!」
「俺、柿の種しか用意してねーや」
話す内容は、本当に他愛のないこと。それこそ、いつもSNS上で話していることとそう変わりはしない。
ただ、それが「声」としてやり取りされるのは少し新鮮だ。ゲームでボイスチャットを使うことはあるが、こうしていつもの面子を集めて通話をするということは、今まで一度もなかったはずだったから。
「そっちこそ、最近仕事忙しそうだったけど、大丈夫?」
「全然大丈夫じゃねーですけど、今日が楽しみで定時で帰ってきました。明日行くの怖いな……」
「こんな状況なのに電車めっちゃ混んでて嫌んなっちゃう」
「わかるわかる。全然減らないですよね」
……本当に。本当に他愛ない話だけれども。
こうして、いつもの面子で「他愛ない話」ができるということ自体を喜びたい。この息苦しい状況下でもなんとかかんとかやっていっているということ。そのことを冗談交じりで話せるような相手といえば、俺にとってはこいつらくらいしかいないのだから。
ビールの缶が一つ空き、二つ空き。断って席をはずして、冷凍庫から氷を出してグラスに放り込み、とっておきのウイスキーを注いでやる。ついでにつまみを一つ追加して席に戻っても、連中は変わらず話をしている。それでいい。
「やっぱりこういう話ができるっていいね。職場と家を往復するだけになっちゃってるし」
「僕もですよ。誰とも話さない日もよくありますよ」
「これからもちょくちょくこういう会開くのがいいんじゃないですかね?」
さんせーい、と何人かが声を合わせる。俺ももちろん賛成だ。この世間の混乱が収まらない以上はこういう機会はあった方がいいし、仮に収まったとしても、こういう機会はあっていいと思う。
「コロナが収まったら、オフ会もいいですよね!」
「お、オフ会やります? 場所取りならやりますよ」
「皆と会えるなら遠出してもいいかもしれないですね」
なるほど、オフ会という手もあったか。とはいえ。
「うらやましいなあ。俺はちょっと遠すぎんだよなあ」
残念ながら俺が住んでいる場所は辺境も辺境なわけで。なかなか人が集まれるような場所に出て行くのも難しい。ただ、可能であるなら顔を合わせるのもやぶさかではない。こうやって話のできる相手なら、面と向かってもきっと上手くやれるだろう。
ウイスキーを一口舐めたところで、不意に、スピーカーから少し低めの声が聞こえてきた。
「楽しんでる、……さん?」
言葉の後ろに微かにかすれて聞こえたのは、ひとりのハンドルネームだ。名前を呼ばれたのは黒猫のアイコンの彼女。「はえっ」とちょっと間の抜けた声を上げた彼女は、すぐにはきはきとした声で答えた。
「もちろんですよ。皆さんとおしゃべりできて、楽しいです」
そういえば、彼女がいつからか話に加わっていなかったことに今更ながら気づいた。すぐに返事をしたことから、席を外していたわけでもないだろうに。
「ならよかった。さっきから黙ってるみたいだったから」
「皆さんのお話を聞いてたんです」
「あ、オフ会やるなら来る?」
「もちろん今の状態じゃいつになるかはわかんないけどさ」
「このメンバーなら誰が来ても楽しくやれそうだよね」
「そうそう! 上手い飯屋知ってるからさあ」
そのまま、ぽんぽんとあちこちから言葉が飛んでくる。だから、誰も気づかなかったのかもしれない。黒猫の彼女が、問いかけに答えていなかったことを。
やがて、夜も更けてきて、ウイスキーのグラスも空になった頃、「それじゃあお開きにしようか」と誰かが言った。
「それじゃあ、おやすみー」
「まあ、僕はこのままゲームしてると思うけどね」
「いえてる」
そんな、挨拶だかなんだか判断のつかない言葉を残してひとつ、またひとつとディスプレイの画面からアイコンが消えていく。俺は、そのまま画面をぼんやりと眺めていた。
別に、名残惜しくなったつもりはない。何せSNSではいつも話をしている相手たちだ、覗いてみれば変わらずそこにいるだろうし、声をかければこんな集まりだってすぐにできる。
ただ、何となく……、そう、何となく、そうしていると。
最後に残ったのは、俺と、黒猫のアイコンの彼女だった。
彼女を飲み会に誘ったのは俺だ。いつもの面子の一人ではあるけれど、少し引っ込み思案なところのある彼女は「参加する」とは言っていなくて、それを俺が口説き落とした形になる。
だから、少し心配だったのだ。彼女が本当に楽しんでいたかどうか。
けれど、その思いは杞憂だったようで、彼女は弾んだ声で俺に話しかけてきた。
「とても楽しかったです。ありがとうございました」
「いや。また一緒に飲もうな」
「はいっ」
嬉しそうな声に、俺は心底ほっとする。ほっとしながら、ひとつ、聞いてみることにした。
「なあ、もしオフやるなら、来るかい?」
さっき俺自身が遠すぎるからと渋っておきながら、何となく引っかかっていたのだ。彼女はあの時、問いに答えてはいなかった。
そして、黒猫のアイコンは少しの沈黙の後、ちかちかと光った。
「私は、無理ですよ」
「そんなに遠くに住んでるのか?」
「あ、いえ、そうじゃないんです。そうじゃ、なくて」
それから、ぴたりと声が止んで、俺は不安になる。もしかして、顔を合わせるのが嫌とか、そういうことだったのならば申し訳ないことを聞いたと思う。言いづらいのも当然だ。
しかし、俺の想像に反して、彼女は言った。
「もし、もしもですよ」
ちかちかと。黒猫のアイコンが、光る。
「今、話しているそのひとが。本当は存在しないとしたら、どうしますか?」
「え?」
何を言われたのかと思った。存在しない? それは……。
「声と文字列で、まるで『いる』ように見えるけれど。ウェブ上を漂う幽霊のようなもので。本当は、人として存在などしていないとしたら」
どうしますか、と。彼女は言う。
荒唐無稽な話だ。ウェブ上の幽霊? どこぞのアニメじゃあるまいし。
だけど、そうだ。
俺にとってのいつもの面子は、住んでる場所も性別も職業もばらばらであるし、そもそも知らないことも多い。知る必要もないと思っている。
もちろん顔も本名も知らなくて、ディスプレイに映し出されているのはそれぞれが設定したアイコンとハンドルネーム。
これだけあれば、俺たちにとっては十分だ。
……十分だと、思っている、けれど。
その向こう側の顔を、肉体を、俺は今まで一度も認識したことが、ない。
もちろん、今喋っている彼女だって。
果たして沈黙した俺を、彼女はどう捉えたのだろう。しばし、俺と彼女の間に沈黙が流れ、やがて「ふふ」と小さな笑い声が聞こえてきた。
「なんて。冗談ですよ」
そう、冗談だと彼女は笑う。なのに、何故だろう、その声に微かなノイズが混ざって聞こえたような気がして仕方ないのだ。
「また、誘ってくださいね。それじゃあ、」
――おやすみなさい。
その声を残して、黒猫のアイコンもディスプレイから消えた。唯一残された俺も、ボイスチャットからログアウトする。そして、椅子の背もたれに深々と寄りかかる。
ウェブ上を漂う幽霊、と彼女は言った。冗談だと言われながらも、何故だろう、広々とした空間の中に漂う、形も定かでない女の姿が頭の中に焼きついてしまった。
ただ、その一方で、彼女はこうも言っていたじゃないか。「楽しかった」と。ならば、きっと、それでいいのだと思うことにする。
結局のところ、彼女の言葉が本当に冗談なのかを確かめる手段は、俺にはないのだから。
グラスの底に一滴だけ残ったウイスキーを舐めて。
その風味をウェブ上の幽霊が知りえることはあるのか、なんてことを、考えた。