幕間:船長と歌姫

「なーにやってんの、アンタらは……」
 空賊船『紅姫号』の船長シエラは頭を抱えていた。
 シエラの前には、神妙な顔をした船員と、その船員に猫掴みされたシュンランがいた。シュンランは掴まれたままきゃあきゃあ何かを喚いているが、どれもがシエラの聞いた事の無い言葉だったため何を言っているのかはさっぱりわからない。
 そんなシュンランの声をBGMに、船員が重々しく口を開く。
「この嬢ちゃん、可愛い顔してとんでもないじゃじゃ馬だ、お頭……部屋を抜け出そうとしたの、もう三度目だよ」
「部屋に鍵はかけたんじゃなかったの?」
「確かに鍵はかけた。なのに何故か外に出てんだよ。ブラン博士の言うとおり、変わった術を使うみたいだ」
「で……その顔は?」
 シエラは船員の顔を見て、眉を顰める。よく見なくとも、酷い顔だった。頬は腫れ、唇は切れて血が滲んでしまっている。船員は情けない表情で溜息をつく。
「捕まえようとしたら、思いっきり殴られたんで」
 まあ、そりゃそうよね。
 シエラは諦めたように息をつき、シュンランに視線を合わせる。シュンランは喚くのをやめ、大きなすみれ色の瞳でシエラを睨んだ。可愛い顔をしているのに、なかなか堂に入ったガンのつけっぷりだ。目の前にいるシエラに負けやしないという意志が、怯えや不安に勝っているのだろう。シエラを真っ直ぐに見据えるその瞳に、曇りはない。
 ブランの言葉だけ聞く限りただの箱入り娘かと思っていたが、どうやらその認識は改めなければならないようだ。
「離してあげなさい」
「し、しかし、また逃げられるんじゃ」
「ここは風の海。これ以上何処にも行きようはないわよ」
 船員は渋々といった表情でシュンランを離す。シュンランは床に足をつき、すっかり乱れてしまったスカートの裾を整える。それから、もう一度シエラを見上げて、言った。
「あなたが、ここの『おかしら』さんですか。偉い人、ですね」
「そうよ。言っておくけど、『降ろして』って言っても無駄だからね。痛い目遭いたくなければ、大人しくしておくこと。アタシたちも、女の子相手だからって黙ってはいないからね」
 一応釘を刺してみると、シュンランはむっとした表情で眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。「降ろして」と言うつもりだったのだろうが、出鼻を挫かれてしまったのだろう。シエラはやれやれと肩を竦めて、シュンランを手招きする。
「おいで。狭い部屋に閉じ込められるのも飽きたでしょ」
 シュンランは一体シエラが何を言い出したのかわからないという様子で首を傾げたが、大人しくシエラの後についてくる。何という態度の違いだ、と船員が後ろで嘆く声が聞こえたけれど、とりあえず無視することにした。
 無理やり何かしようとしない限りは、シュンランも抵抗する気はないようだ。外からしか開けられない鍵を開けて抜け出した、というのは気になるが、今はまずこの不思議な少女を落ち着かせるのが先だろう。いちいち逃げ出して、船員たちの顔に手形をこさえられても困る。
 シエラはいくつかの階段を上り、船長室の扉を乱暴に開ける。
 そして、扉の向こうを見て……シュンランが「わあ」と声を上げた。
 目の前に広がっていたのが、淡い桃色の壁紙を基調にして、所狭しとふかふかのぬいぐるみが並べられた部屋だったからだろう。まさか、これが空賊船の船長室だとは誰も思うまい。ただし、部屋の主であるシエラはこれが当然だと思っているので「まさか」も何も無いのだが。
 シュンランはきょろきょろと辺りを見渡して、シエラにはわからない言葉で何かを呟いていたが、やがてシエラを見上げてふわりと微笑んだ。その表情があまりに無邪気で、シエラは呆気に取られてしまった。
 自分を捕まえた空賊船の船長を前に、そんな風に笑えるものなのか。戸惑うシエラをよそに、シュンランは鈴の鳴るような声で言う。
「可愛い、ですね。えと、あなたのお部屋ですか」
「ん、そうよ。気に入ってくれたならいいんだけど」
「はい。素敵なお部屋です。あの子、触ってよいですか?」
 ベッドの上に座っていた大きなクマのぬいぐるみを指差すシュンランに、「別に構わないよ」とシエラはぬいぐるみを取ってやる。元々小さなシュンランが持つと、白い体の半分くらいがふかふかの毛の中に埋まってしまって、何とも微笑ましい。
 シエラはぎゅっとぬいぐるみを抱きしめるシュンランを横目に、ベッドの上に腰掛ける。こうしてぬいぐるみを抱きしめている姿は、ただの少女にしか見えないけれど……
「ねえ、アンタ、名前は? アタシはシエラっていうんだけど」
「わたしはシュンランです。春に咲く、花の名前なのです」
 ぬいぐるみの頭に顎を乗せる形で、シュンランが答える。だが、シエラはそんな花の名前は知らない。花の名前には詳しくないが、それ以前に楽園では聞かないような音の並びだ。
 ただ、今はそこを気にしていても仕方ない。シエラは頭の中で言葉を組み立てながら、紅を引いた唇を動かす。
「シュンラン、アンタ、何で捕まったかわかってる?」
 すると、シュンランはこくりとぬいぐるみと一緒に頷いた。
「あなたたちも、『鍵』とわたしの『歌』が、必要ですか」
「そ。と言っても、アタシはアンタが何者なのかなんて、興味ないんだけどね」
「どういうこと、ですか?」
 シエラはひらひらと手を振って言う。
「アンタに興味があるのは、アタシじゃなくてブランの方。まあ、アンタが追われてるのは知ってるから、上手く使えば金になると思って協力してんだけど……」
 「使う」気にもなれないな、とシエラは嘆息する。金と財宝を求めてあちこちを荒らし回る空賊シエラ一味だが、ナマモノは専門外だ。それに、この少女に見つめられているうちに、この少女を利用する気などさっぱり失せてしまっていた。
 全く、ブランの奴が、変なものを捕まえさせたものだ。
 ぶつぶつ呟くシエラに、シュンランはかくりと首を傾げる。
「ブラン、誰ですか」
「アンタはまだ会ってなかったっけ。うちの船に乗ってる、一人だけ赤い服着てない奴。目つき悪くて、ニヤニヤ笑ってばかりの変態さん」
 シエラが言った途端、今までふわふわとした微笑を浮かべていたシュンランが目を見開いた。そして、不安げな顔つきでぎゅっと一際強くぬいぐるみを握りしめる。
「わたし、一度見ました。とても、怖い人です」
「怖い? 確かに、得体の知れない奴だけど」
 だが、ブランの人となりをよく知るシエラは、何故シュンランがそんなに怯えるのかわからず訝しむ。シュンランは首を小さく横に振って、俯きながらも何とか言葉を放った。
「……あの人は、笑ってるのに、笑ってないです。あの人は、怖いです」
 ――この子、よく見ている。
 シエラは内心舌を巻く思いだった。長年付き合ってきたシエラがやっとわかってきたことを、この少女は「一度見た」だけでそこまで言い当ててみせたのだ。
 確かに、長らく『紅姫号』に乗り合わせるあの男は、いつも笑っているように見えるが酷く冷え込んだ目をしている。どんなに陽気に振る舞ってみせても、何処かしらに凍りついた感情が宿っているような錯覚を抱かせる。「笑ってるのに、笑ってない」とは言いえて妙だ。
 けれど――
 不安がるシュンランの頭を、シエラは優しく撫でてやる。
「ね、シュンラン。アンタ、ブラン博士に何か言われた?」
「え……と、『悪いようにはしない。誰も悲しませないから』と」
 あの男らしい大げさな口ぶりだとシエラはおかしくなる。もちろん、不安でいっぱいのシュンランの前ではそれを表に出さず、その代わりにシュンランの髪に指を通す。光を透かして、微かに緑の煌きを抱く白い髪はさらりと指の間をすり抜ける。「なら、アイツはアンタには絶対に危害を加えないよ。アイツは、胡散臭いけど嘘はつかないから」
「そう、なのですか?」
「そ。だからそこは心配要らない。アタシたちもアンタには危害を加える気はない。ただ……アンタと一緒にいたあの空色の子は、どうしたものかなあ」
「セイル! セイルは、無事なのですか!」
 シュンランはぱっと顔を上げて、シエラを睨むように見据える。シエラは「大丈夫よ」とシュンランの頭をぽんぽんと叩いてみせた。
「あの子は無事。暴れられたら困るから、船倉に閉じ込めてあるけど……」
「セイルに会わせてください! わたし、セイルと約束したです。一緒じゃないと、嫌です」
 今までの従順さが嘘のように、シュンランは噛みつかんばかりの勢いでシエラに迫る。シエラは微かに眉を寄せて、何かを言おうと唇を開こうとして、
「ダーメ。あのガキには帰ってもらわにゃならねえ」
 横から割り込んできた声に、遮られた。
 シュンランははっとしてそちらに視線を向け、あからさまに怯えの表情を浮かべた。シエラは声だけでそこに誰が立っているのか理解し、視線を向けることもせず溜息をつく。
「博士。レディの部屋にはノックして入りなさい」
 いつの間にか部屋の中に入り込んでいたブランは、壁を背にして「悪い悪い」と手を振る。その上で、シュンランに向かってさらりと言った。
「悪いが、必要とされてるのは『鍵』とお前さんだけ。関係ない奴を巻き込むわけにはいかねえ。実際、それはお前さんの本意でもないはずだ、シュンランとやら」
 シュンランははっと息を飲み、言葉を失ったようだった。ブランは笑顔ながら「いつも通りの」冷ややかな目つきでシュンランを見下ろしている。否、冷ややかというよりは、シュンランの動きや息遣い全てを観察しているようで。
 しばし、沈黙が流れる。
 シエラはその空気の重さに耐え切れなくなって口を挟もうとしたが、その前に俯いていたシュンランがぱっとブランを見上げた。思わず目を見開くブランに対し、シュンランはきっぱりと言い切った。
「それでも、セイルと約束しました。わたしは、セイルと一緒に行きます」
 「行きたい」でなく「行きます」、か。
 シエラは一瞬しかセイルの姿を見ていない。綺麗な空色の髪をした、不思議な少年だとは思ったけれど、それだけだ。だが、シュンランにそこまで言わせる「セイル」がどんな人物なのかは気になった。
 そして、ブランは。
「……はは、ったく、ワガママなお嬢さんで」
 珍しくあからさまな苦笑を浮かべ、シエラに視線をやった。
「シエラちゃん、俺様、ちょっとあのガキんとこ行ってくるわ」
「何する気?」
「ふふ、秘密よん」
 女のように口元に手を当てるブランに対し、気色悪いよ、とシエラは投げやりに言った。ブランはそれには何も言葉を返さず、無骨な手をひらひらと振って部屋から出て行った。一体、あの男は何がしたかったのだろうか――という思いが脳裏を掠めるが、あの男に関して言えばそれこそ「いつものこと」なので気にするにも値しないだろうと思いなおす。
「セイル……」
 すみれ色の瞳にいっぱいの不安と焦燥を篭めて、シュンランが呟く。シエラはくしゃくしゃとシュンランの頭を撫でてやって、立ち上がる。
「心配しないの。アンタの大切なセイル君の無事はアタシが保障する。それよりさ」
 呆然とするシュンランの姿を見下ろして、にっと笑う。
「そんな薄汚れた格好じゃ可哀相でしょ。ちょっと付き合いなさい」
 
 
 そして――
 機巧の鳥と共に墜ち行く『紅姫号』の中。シエラは窓の外に見える純白の『凧』に指を伸ばす。
 そこに乗る少女に、届くことはないと知っていても……シエラは指の先を見据え、口を笑みに歪めた。
 
「……絶対に捕まるんじゃないよ、可愛い歌姫様」