03:空を泳ぐ紅の魚(2)

『……うがああぁぁぁぁっ!』
 唐突に、『ディスコード』が頭の中で吠えた。
「わあっ!」
 あまりに突然で、しかもとんでもない大声だったのでセイルはひっくり返らんばかりの驚きだった。柱に縛られてなかったら、間違いなくその場に尻餅をついていたことだろう。
 しかし『ディスコード』はそんなセイルに構わず言葉を放つ。
『マジありえねえ何だあの野郎絶対頭おかしいだろ!』
「な、何が?」
『想像してたが斜め上すぎるだろあのキジルシ何で俺の使い手ってろくなのいねえんだ一番まともなのがこのガキってどういうことだよああもうこの先もマジでノーグに期待できねえぇ』
 人生……もとい剣生全てを儚むかのような大げさな口振りに、ただただセイルは呆気に取られるしかなかった。よく喋る剣ではあるが、これほどまで人の言葉を聞かずに一方的に喋り続けるというのは初めてだ。
「って……ブランもディスの使い手なの?」
『そうだよ! ああもうお前だけが良心だよ役立たずでも何でも今この瞬間一番安心したんだけどホント!』
 必死に言葉を並べ立てる『ディスコード』。セイルが「ディス」と呼んでも反発しないところを見るに、相当参ってしまっているようだ。
 「お、落ち着いて」と必死になだめながら、なおもべらべら言葉を垂れ流す『ディスコード』に問いを投げかける。
「その、使い手って兄貴と俺以外にもいるものなんだ?」
 セイルがそう問いかけたところで、『ディスコード』はぴたりと喋るのを止めた。セイルはびくりとして『ディスコード』の刀身を見つめてしまう。
 その沈黙は何故かとても不気味だった。言葉にならない、ほんの微かに伝わってくる『ディスコード』の感情は、苛立ちのような、苦しみのような、どうも不可解なものだった。
「ディス?」
『……ああ、使い手な』
 セイルが不安になって問うと、『ディスコード』はぽつりと言葉を落とした。そこに、もはや今までのおかしな気分の高ぶりは見えなかった。そして、一瞬伝わってきた不可解な感情も、セイルの勘違いであったかのように消え去っていた。
『俺の使い手ってのはんなほいほいいるもんじゃねえよ。けど、全くいないってわけでもねえ……要は「血」だ』
「血?」
『そうだ。俺を使える血統ってのがいくつかいてだな、俺の使い手は大体その末裔とか、どっかでその血を引いてる奴らで、あの男もそうなんだろ。手前とノーグが使い手なのも、別段おかしなことじゃねえ。兄弟だしな』
 『ディスコード』は当たり前のように言ったが、セイルは首を傾げずにはいられなかった。
「……なら、ちょっとおかしいかも」
『あん?』
「俺と兄貴、血は繋がってないんだ。俺、拾われた子だから」
 あ、と『ディスコード』が声を出した。明らかに「まずいことを言った」という意味合いの声なのはいくら鈍いセイルでもわかった。
『その……悪いこと言ったか』
「ううん。むしろ、そんな風に言ってくれたの、ディスが初めてかも。俺、こんな見た目だからさ、誰も実の兄弟なんて思ってくれなかったし」
 セイルが拾われた子供であることは、町の人間なら皆知っていた。空色の髪に銀色の瞳を持つ子供だ、きっと不気味に思った実の母親に捨てられてたのだ、と陰口を叩く者も多かった。
 だが、母はその全てを笑い飛ばして、周囲の白い目なんかものともせずに今の今まで自分を育ててくれた。むしろ、ちょっと溺愛しすぎなくらいに。父も、家にいることは多くないけれど優しくセイルを見守っていてくれた。
 もちろん、兄だって。
「別に、血が繋がってないこと自体は全然気にしてないから、ディスが気に病むことはないよ」
『いや、なんつーか……悪い』
 本当に気にしてはいないのだけれど。セイルは思ったが、『ディスコード』はいつも偉そうな彼には珍しく本気で謝っているようだった。
「何でそんなに謝るんだよ。何か変だよ、ディス」
『う、うるせえ。とにかく、この話は終わりだ! で、これからどうすんだよ』
 何だか無理矢理話を変えられた気もするが、確かに今はこんな話をしている場合ではない。
 本当は、このまま待っているだけでいい。待ってさえいれば、自分は無事に解放される。あの男が嘘をついていないという証拠は無かったが、何となく嘘だとは思えなかった。
 けれど。
 目を閉じれば、浮かぶのはこちらを見つめるすみれ色の瞳。耳の中には今もシュンランが歌う歌が響き続けていて……
「あのさ、俺」
『聞かずとも明らかか。行くんだろ』
 『ディスコード』はセイルの言葉を遮って、断言した。セイルは一瞬呆気にとられたけれど、すぐに力強くうなずいた。
「……うん!」
『ならとっとと行くぞ。手は貸してやる』
 『ディスコード』がそう言ってくれるなら、力強い。単純かもしれないが、それだけで何とかなるような気がした。
 何とか手を『ディスコード』の柄のところまで持っていくと、『ディスコード』は勝手に手の中に潜り込みセイルの体と同化する。そして、次の瞬間には刃と貸した右手がセイルの体を拘束していた紐をやすやすと切り裂いていた。
 鈍い痛みを訴える体を伸ばし、立ち上がる。殴られたような痕は一つもない、むしろこの痛みは関節からくるものだった。もしかすると、このところシュンランを連れて逃げ回ったり、鎧の男やゴーレム相手に立ち回ったりと、普段ならば絶対に使わない体の使い方をしていたからかもしれない。
 軽く伸びをして、先ほど薄く皮が切れてしまった喉に触れつつ、セイルは体の中に潜り込んだ『ディスコード』に微笑む。
「でも」
『何だよ』
「ディスは、止めると思った」
 『ディスコード』は、何だかんだといちいちうるさいが、無理難題をふっかけてくるような剣ではない。これまでも一般人のセイルをなるべく戦いから遠ざけるような判断を下していたし、今回もそうだとばかり思っていた。
 その『ディスコード』が、迷いなく「行く」と宣言したのだ。セイルが不思議に思うのも当然である。しかし、『ディスコード』は当然のこととばかりに言う。
『そうしないと俺の目的は達成できねえからな。目的のためには手前を散々利用させてもらうって言っただろ』
「う……うん」
 何だろう、さっぱり嬉しくない。ちょっと複雑な気分になっていると、『ディスコード』は『それに』と言葉を付け加える。
『個人的に、奴は気に食わねえんだ。俺と手前で、奴をぎゃふんと言わせてやろうじゃねえか』
 セイルにしてみれば気に食う、食わないの問題ではなかったが、「奴をぎゃふんと言わせる」という点でセイルも力強く頷く。
 あの男は、まるでセイルが自分の元にたどり着くのが不可能であるかのような口振りだった。だからこそ、笑いながらあんな不可解な条件を出したのかもしれない。ただの子供であるセイルに、自分の無力を突きつける為に。
 けれど、ここで負けてやるわけにはいかない。
 自分と『ディスコード』で、必ずシュンランを取り返すのだ。
「うん。行こう、ディス!」
 力強く一歩を踏み出したところで、不意に『ディスコード』が言った。
『もう一つ』
「何?」
『勝手に略すな、俺の銘は「ディスコード」だってあれだけ言っただろ!』
「だ、だって長いし慣れないし呼びづらいし! それに今までディスだって否定しなかったじゃないか」
『ぐ……』
 自分からは言えないだろうし、セイルもあえて言わなかったが……今まですっかり忘れていたに違いない。その証拠に、『ディスコード』はしばらく『うー、あー』と唸った挙げ句にやけくそ気味に叫んだ。
『くそっ、わかったよ何とでも呼べばいいさ!』
「い、いや、そんなに嫌ならいいんだけど」
『別に、嫌ってわけじゃねえよ。ただ、人みたいに呼ばれるのが気に入らないだけだ』
 それが「嫌」というのではないだろうか。
 しかし、何故そんなに人扱いされるのが嫌なのだろうか。セイルは不思議に思うが、『ディスコード』――ディスはそれ以上を語らずに『とっとと行くぞ』とセイルを促す。
 何故、ディスがそういう言い方をしたのか、気にならないわけではなかったけれど。今真っ先に考えるべきなのはシュンランのことだ。すぐに横道に逸れそうになる意識を目の前の扉に戻し……右手を振り上げる。
 そこに、言葉など必要なかった。
 右手が刃に変化したと思った次の瞬間には、扉にかかっていた鍵がまっぷたつに切断されていた。
『さあ、セイル。せいぜい大暴れしてやろうじゃねえか?』
 頭の中でディスが囁く。セイルは無言ながらも頷きでそれに応えて、扉を勢いよく蹴破り飛び出した。
「何だ……っ!」
 声に振り向けば、赤い飛行服に身を包んだ髭面の男が、目を丸くしてこちらを見つめていた。一体、何が起こったのかさっぱりわかっていない顔だったが……すぐにセイルが「逃げ出した」のだと気づいて、大声を上げる。
「おおい! 空色のガキが逃げ」
「黙りやがれっ」
 その声を遮って、セイルは情け容赦ない蹴りを男の鳩尾に叩きこむ。否、悶絶しへたりこむ男を見下ろすのはセイルではなく、男が声を上げた瞬間にセイルの体を乗っ取ったディスだ。
 ディスの判断の速さにはセイルも素直に感嘆する。ただ、体を借りるなら借りると一言言ってほしいところであったが。
 ディスは男を踏みつけながら眉を寄せ、露骨に舌打ちする。
「ち……今の声も聞きつけられたか。来るぞ」
 あちこちから響いてくる足音は、セイルにも聞き取ることが出来た。苦虫を噛みつぶしたような表情で左手に生やした刃を構えるディスに対し、セイルは頭の中から恐る恐る問う。
『斬るの?』
「相手は悪い空賊さんだぞ。斬って何が悪い」
『だけど、この人だって武器は持ってないし』
 事実、足下に丸くなっている髭面の男の手には、武器らしいものは一つもなかった。魔法を強化する装飾品すら見あたらない。見張る相手が丸腰の少年一人とみて油断していたのだろう。
 セイルの言葉に、ディスは頭に手を当て大げさに溜息をつく。
「あのなあ……んなこと言ってたら命がいくつあっても足らねえ。俺はともかく手前のな」
『う、でも』
「うるせえなあ、要は武器を使わなきゃいいんだろ」
 セイルの反論を遮って、ディスは諦めたように肩を竦め、これまたあっさりと左手の刃を体の中に引っ込めた。ディスがここまで素直にセイルの意を汲むとは思わず、セイルは『いいの?』と聞き返してしまう。
 ディスは仏頂面で虚空に、正確には頭の中のセイルに向かって言い放つ。
「そうしろって言ったのは手前じゃねえか」
『そうだけど、ディス、武器無しでも戦えるの?』
 体の中に潜り込みその形を自由に変えるとはいえ、『ディスコード』は基本的に剣の形をした武器だ。その中に宿る存在であるディスが剣を操ることに長けているならわかるが、武器を持たない戦いを知るとも思えなかった。
 しかし、ディスは腰に手を当て胸を張って言い放つ。
「『ディスコード』様を舐めんな。それに、今回は『倒す』ことが目的じゃねえからな」
 乾いた唇を舐め、廊下の向こうから駆けてくる男たちを見据える。船の廊下は狭いため、武器を振るえるスペースもないこともあるのだろう、やはり男たちも素手だった。
 そして、背後からも男たちの罵声が響く。ちょうど、挟み撃ちの形だ。
 前回もこんな状態だった気がする。前回は動くに動けない状態になってしまったディスを思い出し、セイルは思わず叫ぶ。
『来てるよ、ディス!』
「わかってら」
 ディスはいたって軽い口調でセイルに応じ、迷わず近くにまで迫ってきていた男たちの方へと駆け出す。まさか、セイルが真っ直ぐに向かってくるとは思わなかったのか、男たちに一瞬動揺の色が走ったのがセイルにもわかった。
 当然それを、ディスが見逃すはずもない。
 迷いつつもセイルの体を掴もうとした男の腕を軽くかわすと、男の肩に手を乗せ力を掛ける。そのままとん、と床を蹴ると、自分の手を軸にしてくるりと空中に回転し、勢い余ってつんのめり、床に倒れ込む男の背後に降り立った。
 それは、ほんの一瞬のこと。
 だが、セイルにはまるで全てがスローモーションのように感じられていた。
 呆気にとられた男たちを置きざりに、ディスはさっさと廊下を駆け抜けようとする。そこに至ってさすがに男たちも色めきたった。
「お、追え! あのガキ、ただ者じゃねえ!」
 やっと気づいたか、とディスはぺろりと舌を出す。前から後ろから迫ってくる男たちの間をすり抜け、時にはその頭上に跳び上がって蹴りを入れる。曲芸を思わせる軽やかな動きに、完全に飛行服の男たちは翻弄されていた。
 ただ、それでも男たちは執拗にセイルを追い続ける。「きりがないな」とぼやいて、ディスは角を曲がったところにある部屋に飛び込んで扉を背にして息を殺した。
 賊の追撃をかわしても息一つ切らしていないディスに、セイルも感嘆するしかなかった。
『すごいや、ディス』
 騒ぎ立てる男たちの気配が部屋の前を行き過ぎたのを確認して、ディスはぱんぱん、と手を叩く。
「はっ、本気になりゃこんなもんだ。今回は後ろを気にしなくてもいいしな」
『あ、そっか。この前は、シュンランを守りながらだったから』
 そゆこと、とディスは肩を竦めてセイルの言葉を肯定する。
 ディスの身軽な戦い方は、人を庇うには向かない。後ろを気にせずに済むこの場所に来て、初めて本領を発揮できたということなのだろう。
「それに……すごいのは手前かもな」
『え? どういうこと?』
「俺は技術を記憶してはいるが、どれだけ動けるのかは使い手の実力に依存する。実際に動くのは剣じゃなくて人だからな」
『ええと、ごめん、どういうことなのかよくわからないんだけど』
「だーかーらー! 手前の身体能力が半端ねえんだよ! 俺が飛んだり跳ねたりできんのは、手前の体が無茶な動きに耐えられるからだ。お前さ、何か訓練とかしてた?」
『まさか!』
 そんな記憶はない。何しろセイルは林の中の屋敷で生まれ育ち、林の中で一人で遊ぶか、おつかいとして町と屋敷を行き来するだけの生活を送っていたのだから。ディスの華麗な体さばきに耐えられるような訓練をしたことなどあるはずもない。
 ただ、一つだけ。
 引っかかったことが、あるとすれば……
『だけど、兄貴はよく言ってたっけ。俺って人より丈夫で力持ちなんだってさ。関係あるかどうかはわからないけど……』
 今まで、比べる相手がいなかったからそれが事実なのかは知らない。それに、兄は加えてこうも言っていた。
『ただし、その恵まれた力を決して暴力にしてはいけない。自分で考えて、その力が本当に必要だと思った場所で振るうべきだ』
 ――と。
 セイルは今までその言葉を守って、決して人に向かって拳を振り上げたことはない。何を言われても、指差されても、歯を食いしばって手を握りしめて、それ以上は何もしなかった。
 それが正しかったのかどうかは、今もわからないけれど。
 黙ってセイルの話を聞いていたディスは、ぽつりと言葉を落とす。
「なーるほどなあ……」
『ディス?』
「ま、要は元から性能がいいってわけか。性能がよい上に自由に使える手前は、つまるところ俺にとってとても都合のよい存在ってことだな」
『酷い!』
 事実かもしれないが、もう少し言い方というものがあるのではないだろうか。頭の中でむくれるセイルに構わず、ディスはふと部屋の中を見渡す。今までセイルも気にしていなかったが、偶然飛び込んだこの部屋は他の船の中の部屋とは全く趣を異にしていた。
『機関室……?』