1-43:「また一緒に」

 発着場に降り立った俺たちを待っていたのは、『エアリエル』の知覚越しにも明らかな、どこか奇妙な面持ちのサードカーテン基地の面々だった。
 微妙な既視感を覚えながらも、『エアリエル』との同調を切る。自分自身の肉体を自覚した途端に、割れるような頭痛と全身の重さ、それに呼吸の不自由さを理解する。
 ――ああ、これは、もしかしなくても、やっちまったか。
 魂魄レベルでは意識していなかったが、脳を含めた肉体の方が『エアリエル』からの情報や『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の応答に晒されて極度に疲弊していたとみえる。
 初めて『エアリエル』で飛んだ時や長期戦、短期であっても膨大な情報を必要とするといつもこうだ。いくら『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』が反則的な能力であろうとも、俺の肉体の脆さはいかんともしがたい。特にここしばらく衰えていただけに、その反動は大きかったとみえる。
 とはいえ、これが初めての経験じゃないこともあって、内心は冷静だ。ただ、問題は――、
『ゲイル!? 大丈夫ですか!?』
 この状態から、全く、動けないってことだ。
 反応のない俺に気づいたらしいセレスが、周りで固唾を呑んで見守っているらしい連中に慌てた様子で呼びかける。
『ゲイルからの応答がないのです、救助をお願いします!』
 その声を聞いた瞬間、にわかに周囲が騒がしくなる。整備隊の面々が副操縦席の扉に取り付く気配がするが、一方でそこの昔馴染み二人。サヨとロイド。
『ああ、いつものやつだね……』
『おそらくね……』
 お前ら、いくらなんでも落ち着きすぎだろ。緊張感ってものがまるで感じられないぞ。
 とはいえ、ロイドも慣れたもので、扉を開こうとする整備隊の連中に対して素早く指示を飛ばす。
『いいか、慎重に、しかし迅速に運び出せ』
『了解っす』
 緊張に満ちた声はゴードンのものだろう。重たい扉が開く音と共に、うっすらと開けたままだった目に、急に光が差し込んで反射的に瞼を閉じる。次の瞬間、ゴードンの声が今度は直接耳に届いた。
「うわあ」
 うわあ、じゃねーよ馬鹿。と言いたいところだが、呼吸が浅すぎて喋るのも辛い。めっちゃ血の味する辺り、多分思った以上に出血してるなこれ。
「こ、この血なんなんすか? これ、どこから出血してるんすか?」
「鼻腔からの出血。いつも無茶するとそうなるんだよそいつ」
「えっ、鼻血にしてはやばい量出てません!?」
「頭に負担がかかるから、ちょうどそのあたりの血管が切れやすいんだ。ただ、今回ばかりは脳もやってるかもしれないから、動かすときは気をつけて」
 サヨがあくまで冷静に、というか冷ややかに解説を加えてくれる。まずいな、これは怒っている。
 血まみれになってしまったヘルメットを外し、体を固定していたベルトも外してもらって、やっと息がつけるようになった。喉に詰まった血を軽く咳をして吐き出したところで、揺らぐ視界の中、ゴードンが俺の顔を覗き込んだ。
「あっ、生きてるっす!」
「死んで、ねーよ……」
 折角ここまで戻ってきたってのに、死んでたまるか。
 ぐらつく頭では上手く外界を認識することはできないが、整備隊の連中が何とか俺の体を操縦席から引きずり出したのは察する。『エアリエル』の外の空気を吸って、吐き出す。大丈夫、まだ、この体は呼吸を覚えている。
『エアリエル』から降ろされてすぐに、俺の体は何かの上に横たえられる。感触からすると担架か何かだろうか。全く、何から何までお世話になります。後でありとあらゆる方向から文句を言われる気がするから既にちょっと逃げたいけど、この体じゃ逃げるも何もない。
 いやに重たく、自然と垂れ下がろうとする瞼を無理にこじ開けて、置かれた状況を把握しようとしていると、不意に影がさした。
 サヨが、俺を睨みつけていた。これは予想通り怒っている。絶対に怒っている。
「意識はありそうだね。聞こえてる?」
「……ああ」
 何とか答えると、険しかったサヨの表情が、少しだけ和らいだ。……これは、もしかして、怒っていたのではなくて、心配してくれていたのだろうか。無理しないと帰って来れなかったとはいえ、悪いとは思っているのだ。
 だから、せめて。
 痛みに強張る顔の筋肉を少し緩めて、何とか、笑って。
「ただいま。約束は、守ったぞ」
「馬鹿」
 サヨの手が、俺の額の辺りを軽く叩いた、のだと思う。ほとんど触れる程度の叩き方だったのは、俺の体を案じてのことだろう。
 すると、サヨの後ろの辺りから、ぴょこりと青いものが顔を覗かせた。と思った次の瞬間には俺の横に飛び出してきたセレスが、いつものぼんやりとした表情とは打って変わって、今にも泣き出しそうなくしゃくしゃの顔で俺にすがりつく。
「ゲイル! 死ぬのですか! こんなところで死んでしまうのですか!」
「死なない死なないから揺らすなめっちゃ頭痛い」
 誰かセレスのこと押さえとけよ、折角整備隊の連中が慎重に運んでくれたのに台無しじゃねーか。流石に、サヨや整備隊の連中も慌てた様子でセレスを俺から引き剥がす。いつものセレスは絶対にこんな突拍子もない行動を起こしたりしない分、予測がつかなかったんだろうな。俺も正直びっくりした。
 セレスが整備隊の連中の腕の中でじたばたしているのを横目に、サヨが、一際疲れた顔で俺を見下ろす。
「……ねえ」
「ん」
「この子、あんたに似たんじゃない? 真面目に見えて全然人の話聞かないとことか」
「あー、否定できねー……」
 なるほど、言いえて妙というやつだ。サヨが常日頃から俺のことをどう思っていたかは、改めて問いただしたいところではあるが。
 しばし拘束から逃れようともがいていたセレスだったが、俺とサヨの様子が落ち着いているのを見て、冷静さを取り戻したらしい。抵抗をやめ、きょとんと首を傾げて問いかけてくる。
「ゲイルは、死なないのですか?」
「意外と元気そうだし、この様子なら命には別状ないと思うよ。精密検査は必要だけどね」
 セレスに説明しながら、器用に俺だけを睨んでくるサヨ。だから悪かったとは思ってるって。本当だって。
 セレスはじっと俺を見下ろして、それからそっと手を伸ばしてきた。今度は、無理に俺を動かそうとする様子が見えなかったからだろう、俺を囲む連中もセレスの動きを止めることはしなかった。
 セレスの手が、俺の、動かない手を握る。確かな温もりが、触れ合った肌を通して伝わってくる。『エアリエル』を通して、霧の海を二人で踊ったあの瞬間のように。
 セレスは、俺の手の感触を確かめるように握るだけで、何も言わなかった。言葉が、出てこなかったのかもしれない。それはそれでありがたかった。俺も、セレスに何を言えばいいのか、さっぱりわからなかったから。
 そうしているうちに、少しばかり、意識もはっきりしてきた。ぐらぐら揺らいでいた視界も少しずつ安定してきたところで、人の垣根が割れた。その向こう側から近づいてくるのは、車椅子に乗った男――我らが基地司令ロイド先生だ。
 ロイドはミラーシェード越しに俺を見下ろして、低い声で言う。
「よく逃げずに戻ってきたな、フォーサイス」
「……逃げ場なんてないですしね。命令には従いましたよ」
「わかっている」
 俺たちは、長らく所在不明だった『|原書教団《オリジナル・スクリプチャ》』の要塞母艦を落とし、教団に雇われていた――と、本人は欠片も思っていなかっただろうが――トレヴァーをも落とした。|翅翼艇《エリトラ》第六番『ロビン・グッドフェロー』と共に。
 これで全てが終わりというわけでもないだろうが、ここまでこてんぱんに伸したんだ、しばらくは教団が大規模な襲撃をかけてくることもないだろう。
 沈黙が流れる。あれだけ騒がしかった周りの連中も、いつしか、固唾を呑んで俺とロイドを見つめていた。発着場に漂う張り詰めた空気の中。
 よくやった、と。
 ロイドは、唇だけでそう言った。それが、俺――オズワルド・フォーサイスに対して、基地司令としてのロイド・グレンフェル大佐が言える、唯一だったのだと思う。だから、俺もあえて言葉にすることはなく、小さな頷きだけでそれに応えた。
 そして、ゆるりと首を振ったロイドは、静かにこう告げた。
「今は、体を癒せ。……全ては、その後だ」
 その後。
 そう言ったロイドの真意を、俺は知らない。基地司令として告げるロイドの口元は引き締められ、その目はいつも通りのミラーシェードの奥に隠されて、どうにも表情を読み取ることができなかったから。
 ただ、その後に待つものが何なのかは、言うまでもない。
 俺は、オズワルド・フォーサイスとして、世界の敵として裁かれることになる。
 納得などできない。どうしようもなく理不尽だ。だからこそ、俺は戦う。俺の声がどれだけ無力であろうとも、生きることを諦めないと決めたのだから。
 ロイドは、しばし俺の顔を見つめた後に、ふ、と微笑んだ。
「いい顔になったな、フォーサイス」
「そりゃどうも」
 一体どこがそう見えたのか知らないが、ロイドに褒められるのは、悪い気分じゃなかったから。俺も、ほんの少しだけ口元を緩めた。上手く笑えたかどうかは、わからないけれど。
 ロイドは、俺から視線を外し、傍らに立っていたジェムに声をかける。
「ケネット少尉」
「はっ」
「セレスティアを拘束しろ」
 え、と。ジェムが固まる。もちろん、俺の手を握っていたセレスも、弾かれたように顔を上げた。
 だが、当然の措置だろう。セレスはともかく、ジェムがその命令に驚く方が不思議だ。
「セレスティアは、オズワルド・フォーサイスの脱走に関与し、なおかつ本来は戦闘行動を許されていないフォーサイスを『エアリエル』に搭乗させた。その責任を問う必要がある」
 ジェムは数秒の間硬直したままではあったが、次の瞬間には「すみません」と小さく呟きながらも、容赦なくセレスを拘束しにかかった。セレスは全力でジェムに抵抗するも、相手が素人ならともかく、同じ|霧航士《ミストノート》でしかもめちゃくちゃ真面目に訓練を積んでるジェムに拘束されては勝ち目はない。
 それでも、振り回した足はジェムの脛の辺りをがんがん打ち付けてるし、爪も手の甲に食い込んでいる。ジェムが涙目になっているのは、見間違いではないだろう。
 やっぱり俺の教育が悪かったのかなこれ。今更だが、セレスのこれからが心配になる。
「こらこら、やめてあげなさい。ジェムがかわいそうだろ」
 俺が声をかけると、セレスと、何故かジェムまでぎっと俺を睨む。
 ……これは「かわいそう」って部分が気に障ったかな。繊細すぎだろ。
 セレスは一応抵抗こそやめたが、身を乗り出すようにして、声を上げる。
「しかし、ゲイルは!」
「俺は大丈夫だ。言っただろ、最後の最後まで足掻いてやるって」
 もちろん、足掻いたところで状況がよくなるとは思えない。思えないけれど、セレスを誤魔化したつもりもない。これが、今の、俺の本心であることは、間違いないのだ。
 セレスは、唇を噛む。溢れそうになるものを、喉の奥に押し込めるように。その代わりに、潤んだ青色の目でじっと俺を見据えて――たった一つの言葉を、放つ。
「また一緒に飛びましょう、ゲイル!」
 また、一緒に。
 それが実現する可能性は、極めて低い。
 だが、今だけは信じても許されるだろう。セレスの言葉を。俺の胸の内から湧き上がる思いを。
 いつか、きっと。
 必ず、もう一度二人で飛ぶその日を信じて。
 ――俺は、笑う。
 
「ああ。またな、セレス」