1-41:君がための六十秒
さあ、本番はここからだ。血の味のする唇を舌で湿し、魂魄で声を上げる。
「セレス!」
「はい」
「ここからは好きに飛べ、全力だ!」
――大博打の始まりだ。
俺の声に応えたセレスは『エアリエル』との同調率を一気に引き上げ、まさしく『エアリエル』そのものとして翅翼を振るう。
その細くもしなやかな体躯と、その背に伸びた大きく長い青の翅翼は、煙の尾を引きながらも高く、高く、上り詰めていく。
|翅翼艇《エリトラ》の高度限界は通常の戦艦より遥かに高い。他の連中に手を出されない位置、|魄霧《はくむ》の天蓋ぎりぎりまで一息で駆け上ったセレスは、見えない『ロビン・グッドフェロー』を相手取り、踊り始める。
水面を蹴るような、弾むような動きで針を回避。即座に、俺が弓を引き絞るイメージから光の矢を放つ。計算は正しかったはずだが、トレヴァーは更に俺の思考を先読みして、矢が穿つはずだった場所からぎりぎり逃れていたらしい。矢は虚空を穿って霧散する。
――次だ。
一回、二回。交錯のうちに『ロビン・グッドフェロー』を狙うチャンスは来るが、そのことごとくをかわされる。計算で位置情報を求めるとはいえ、撃つタイミングや入力する弾道の癖は、俺自身に依存する。そして、俺の癖はトレヴァーが一番よく知っている。俺が、トレヴァーの癖を知るように。
ただ、闇雲に撃つだけじゃ当たるはずもない。俺は一度も、トレヴァーを本当の意味で捉えられたことはないのだから。
セレスは青い波紋を霧の海に広げながら、『エアリエル』を駆る。いつ、どこから、その胴体を穿たれるかもわからない。そんな極限に近い状態に置かれながら、セレスの動きには少しの乱れもない。この前のような焦りも感じられない。
右も左も、それどころか上下すらも曖昧なミルク色の海に、セレス自身の色でもある青い軌跡を描いて。
ただ、ただ、伸びやかに、翅翼を広げて舞い踊る。
そうだよ、トレヴァー。ゲイルの飛ぶ姿を愛したお前なら、焦がれて仕方ないであろう飛び方だ。
お前のそういうところを、俺は、信じているんだ。
お前はセレスを愛してくれる。セレスから目を離せなくなる。
――だから、きっと。
がつん、という音と共に船体が揺さぶられる。ついに針が掠めて、その衝撃で爆発した爆風に巻き込まれたに違いない。だが、この感覚と『エアリエル』からの報告を見るに、刺さってはいない。内側まで壊されてはいない。
まだです、と。セレスは静かに言う。撃たれた痛みを押し殺し、虚空を蹴ってひらりと宙返りをして、一瞬にして体勢を立て直す。
残り時間は、あと四十五秒。
なおもセレスとの同調を深めていく『エアリエル』は、周囲の|魄霧《はくむ》をがんがん喰らいながら青い翅翼を震わせる。もっと高く、もっと速く。内燃機関の咆哮は、セレスの声には表れない、内側の猛る心をそのまま表しているように感じられる。
だが、それはトレヴァーも同じことだ。奴のセレスに対する興奮は、目には見えていないにも関わらず周囲の空間全てから伝わってくる。圧倒的な、プレッシャーとして。
少しでも気を緩めれば、この四方八方から伝わる熱が襲い掛かってくるのだ。次の瞬間には、トレヴァーの激情に喰い尽されて、海の藻屑となるだろう。
だが――。
「……? 気温が」
急に、がくんと下がる。『エアリエル』が数値としての温度を叩き出し、警告を発する。
ミルク色をしていた海が、にわかに灰色を帯び、霧を見通して見上げれば「雨雲」が俺たちの上だけを覆っている。
いつの間にか、そう、いつの間にか。
晴れていたはずの海は、今にも泣き出しそうな気配に包まれていた。
俺たちの周囲をちらちらと舞う、金色の鱗粉と共に。
「『オベロン』の、鱗粉……?」
セレスの疑問の声と同時に、ざあっ、と一気に雨が降り出した。『エアリエル』は表面で雨を弾きながら、ぼんやりと青い光を投げかける。翅翼は雨を透かし、雨の中に煌く金色の鱗粉を舞い上げる。
その突然の冷たい雨の中で、俺は、その下から俺を見上げる『オベロン』の姿を見た。俺が口を開こうとしたところで、
『……言われなくても、わかってる。自分は冷静じゃなかった』
ぽつり、と。ジェムの声が、響いた。
金色の光を帯びた雨の中、きっと、あいつは、俺を――『エアリエル』を、真っ向から見据えているに違いない。それを察して、思わず口元が緩む。
第八番|翅翼艇《エリトラ》『オベロン』の鱗粉は、何も、爆破だけに特化したものではない。基本の命令を「爆破」に設定しているというだけで、鱗粉の性質は、操縦者の命令で自由に変化する。
|魄霧《はくむ》を変換した翅翼の一部である金色の鱗粉には、そのままでは実体がない。だが、それに実体を与えるという命令を加えた場合、どうなるか。
|魄霧《はくむ》から複雑な「もの」を作ることは難しいものの、つくりが簡単な「もの」であれば、『オベロン』の翅翼と解析機関、そしてそこに指示を与えるジェムのよく出来た頭脳があれば十分生成可能だ。
例えば――「水」だとか。
突如として空気中に発生した水蒸気は、上空の冷たい大気に飲まれ、ひときわ濃い|魄霧《はくむ》と反応しあって雲へと変化する。そして、この一帯に、激しい雨を降らせたのだ。
『……天候兵器!?』
ここに来て、初めて、聴覚に響くトレヴァーの声に焦りが混じった。
『本来の「オベロン」の設計理念は「戦場の掌握」だ。戦場を思うがままに書き換える、金色の蝶』
ジェムの、押し殺した声が戦場一帯に降る。金色の雨そのものであるかのように。
『「ロビン・グッドフェロー」の|隠密《ステルス》性能は、|魄霧《はくむ》を纏って周囲の霧と同化し、知覚を「騙す」ことに特化している。ならば、騙せないくらい大きな「差」を生み出してやればいい!』
そうだ、それこそが『ロビン・グッドフェロー』の唯一にして最大の弱点。
周囲の環境と同化するという性能上、外界の急激な「変化」に対しては|隠密《ステルス》性が鈍るのだ。新たな状況に同化するまで、一瞬、必ず、隙ができる。
例えば、激しい雨に晒されて、その空間にぽっかりと船の形の穴が生まれる――とか。
それでも、トレヴァーは雨を浴びて輪郭を現した『ロビン・グッドフェロー』の鞘翅とその下の飛行翅を閃かせて、雨の中に舞う。諦めた様子はない――というより、ここからが、トレヴァーの本領だ。
『エアリエル』よりも遥かに性能の劣る船であるにもかかわらず、その動きはあまりにも素早く、一瞬俺が見失いそうになるほどだった。ゴキブリ、と俺が称する理由もわかるというものだ、こいつは、どんな逆境の状況下でも、その超絶技巧による気持ちの悪い機動でしぶとく生き残る。
セレスが全力で『エアリエル』を飛ばしていながら、その後ろにぴったりとくっついて、必殺の一撃を加えようと針をつがえているのが、俺の知覚に焼きつく。
――それでも。
そのしぶとさが通用するのは、お前をよく知らない奴だけだ、トレヴァー。
最初から――、俺は、この瞬間ただ一度を狙ってたんだから。
『なあ、トレヴァー。知ってるだろ』
弓を引き絞るイメージ。そして、
『俺は、勝てない戦いなんて、仕掛けない主義だって』
矢を、放つ。
見えてさえいれば、狙うのはたやすい。トレヴァーの取りうる回避行動の全てを予測した上で、最大の効果を発揮するように、続けざまに撃ちかける。
そのうち二本は空を切ったが、確かな手ごたえはあった。見れば、俺の放った矢のことごとくが、『ロビン・グッドフェロー』の鞘翅に突き刺さり、一本は目――視覚部を穿っていた。
だが。
『……っ、まだ、まだボクは落ちてないよ、オズ!』
一瞬虚空に硬直しながら、すぐに首をもたげた『ロビン・グッドフェロー』は、大きく全身を揺らしながらも旋回する。確かに、今の攻撃は機関部を穿ってはいない。もう、こちらなどほとんど見えていないはずなのに、必殺の一撃を撃ちこもうと、極めて正確に『エアリエル』に狙いを定めてくる。
撃たれる、と判断したセレスが叫ぶ。
「来ます、ゲイル!」
そして、更に加速しようとするのを、そっと、押しとどめる。
「いや、もういい」
「何故」
セレスの問いに、首を横に振る。
――カウントを開始してから、ジャスト六十秒。
「|時間切れ《リミット》だ」
がくん、と。『ロビン・グッドフェロー』の船体が、一際大きく揺れて、虚空に静止する。
その動きの意味を悟ったセレスが、呆然、といった様子で口を開く。
「まさか」
本当に俺が狙っていたのは、この瞬間だった。
――だってさ、トレヴァー。
「|魄霧《はくむ》許容限界。蒸発だ」
ゲイルと同じくらいお前を楽しませてくれる奴を前にして、お前が蒸発を恐れるはずもないなんて、わかりきってんだよ。
元々、トレヴァーの汚染状態が限界に近いのは、町で話を聞いた時からわかっていた。俺が人前から姿を消した七年前には、まだトレヴァーに汚染の特徴は出ていなかったから、あれからずっと海を飛び続けて、許容限界ぎりぎりまで|魄霧《はくむ》を溜め込んだのだと察したのだ。
だから、俺は六十秒「全力で逃げ切る」ことを選んだ。トレヴァーが全力を出して、蒸発するよう仕向けた。
確実に、トレヴァーに勝つために。それと、もう一つ、理由はあったけれど。
『甘いね、オズ』
ノイズ交じりの声が、響く。消えゆく肉体を眺めながら、トレヴァーが何を思ってるのかなんて、俺にはわからない。いくら俺がトレヴァーをよく知っていても、蒸発する瞬間にこいつが何を思うかなんて、流石に想像もつかない。
ただ、その声が、笑っていることだけは、わかる。
『本当は、撃ち落とせただろう』
『……まあ、な』
ジェムが雨を降らせてくれるかどうかは賭けだった。賭けに負けた場合、セレスの腕でぎりぎり六十秒もたられるか否か、だと思っていたのだが、賭けが成功した時点で、勝利は確定していた。
連続で一点に撃ちこめば、鞘翅を貫いて、機関部や操縦席を撃ち抜くことだってできたはずなのだ。
ただ――。
『撃ち落としたら、お前の質問に答えられないだろ。答えを知らないまま死んだお前に、化けて出られても面倒くさい』
一瞬、沈黙が流れた。それから、トレヴァーは大声で笑い出した。腹を抱えて、という形容がよく似合う笑い方。抱える腹ももう無いのかもしれないが、それでもトレヴァーは笑っていた。そういえば、こいつが、声を上げて笑ったところを初めて聞いた気がする。
『ははは、相変わらず律儀だね、君は! でも確かに、このままじゃ死ぬに死に切れない!』
更に一段、ノイズを深めながら。トレヴァーはふと笑うのをやめて。
『じゃあ、改めて問おうか。――どうしてここにいるんだい、オズ?』
あの時俺が答えられなかった問いを、もう一度、投げかけてくる。
トレヴァーは、本当に、知りたかったのだと思っている。こいつは、言葉の選び方にはいくらか問題はあるが、余計なことを何一つとして言わない男だったから。その言葉の全ては、この男の心からの言葉であると、信じられたから。
だから、俺も。
今度こそ、心からの答えを、伝える。
『夢を、諦められなかったからに決まってんだろ。お前と同じだよ、トレヴァー』
俺が|霧航士《ミストノート》になった理由はたった一つ。
俺の頭の中に広がる、青い空をこの目に焼き付けるためだ。
諦められない。諦められるはずもない。俺は一人では飛べないけれど、俺の「翼」がここにある限り、飛ばずにはいられないのだ。あるかもわからない、けれど決して忘れることのできない夢目掛けて。
ゲイルと――自分を楽しませてくれる奴と共に飛ぶ、という夢を追い、それゆえに俺たちの前に立ちはだかったトレヴァーは、くすりと笑って、言った。
『それでこそだよ、頭でっかち。その答えが、欲しかったんだ』
ノイズが。今度こそ、トレヴァーの声を侵蝕していく。
『ああ、……ってきた……、ねえ』
俺の聴覚を狂わせる激しいノイズの中でも、何故か、はっきりと。
『……決着を、オズ』
その、望みだけは、聞こえた。
『ああ。セレス』
ふわり、と。セレスは雨に濡れる『ロビン・グッドフェロー』の目の前に降り立つ。もう、奴の目はセレスの姿を映しちゃいなかっただろうけれど。それでも、きっと、そこに俺たちがいるのだということは、わかったのだと思う。
小さな笑い声が、聞こえたから。
俺は、弓を引いて、正確に狙いをつけて、放つ。
鞘翅の下、飛行翅をすり抜け、その下の機関部を正確に貫くように。
青い光の矢は『ロビン・グッドフェロー』の内側に吸い込まれ、そして――。
『 』
ノイズと共に爆発したかと思うと、そのまま落下し、霧に飲まれて見えなくなった。
その気配が完全に失われたことを『エアリエル』の知覚で確認し、俺は『ゼファー』から手を離して、
『……じゃあな、トレヴァー』
奴の最期の言葉に、応えた。