1-26:空言の英雄

 発着場に降り立った俺を待っていたのは、『エアリエル』の知覚越しにも明らかな、殺気立った基地の面々だった。
 |通信記術《コム・スクリプト》によるトレヴァーと俺の会話は、基地にも筒抜けだった。なら、俺が「何」であるのかも知られてしまったということだ。
 ――当然の帰結だ。
 俺が「ゲイル」として生きると決めた時から、この結末は、常に予感はしていた。ただ俺に、それを受け入れる覚悟がなかっただけで。
 
『どうして君がそこにいるんだい、オズ?』
 
 あの時、トレヴァーが投げかけた問いに、俺は、結局最後まで答えられなかった。
 だって――、どうして、ここに、なんて。
『俺の方が、聞きたいよ……』
 そんな、うわ言を漏らしてしまったのは、意識が朦朧としていたこともある。否、朦朧としていたからこそ、今まで「ゲイル」のポーズに覆い隠せていた本音が、言葉になってしまったとも言えた。
 トレヴァーは、棒立ちの俺を撃たなかった。ただ、露骨な舌打ちと共に『ロビン・グッドフェロー』を転回させる。
『興を削がれたよ。ボクは帰る』
 でも、と。
 今までの高揚が嘘のような、低い、霧の海の底から湧きあがる声が響く。
『そう遠くないうちに、また来るよ。その時に、そんなつまらないことを言ったら、今度こそ、海の底に落としてやるよ。それとも――』
 実際にその姿が「見えて」いるわけでもないのに、トレヴァーの目が、俺を冷ややかに見据えているのが、はっきりとわかる。
『それこそが君の望みなのかな、オズ?』
 俺は、答えなかった。
 ただ、トレヴァーの指摘が、胸を抉ったことだけは、間違いない。
 ――ゲイル、と。
 同調する船体の内側から、セレスの声がする。ほとんど聞き取れないほどに薄れた声に、我に返る。そう、俺は帰らなければならない。セレスを、帰さなければならない。
 酷い頭痛と倦怠感をかろうじて残されていた意志の力でねじ伏せ、『エアリエル』の飛行翅を廻らせて、基地を目指す。
 もう一度、姿の無いセレスが名前を呼ぶ。
 俺のものではない、名前を。
 基地の姿が霧の海に浮かんで見えるその時まで、セレスの声を聞きながら、応えることはできずにいた。
 
 
 同調を切り、ヘルメットとベルトを外して『エアリエル』の扉を開けた瞬間に、肩を掴まれて無理やり引き摺り下ろされた。ほとんど叩きつけるように地面に投げ出されると同時に、腕を捻り上げられる。
 そこまで大げさな扱いをしなくとも抵抗する気なんて全く無いのだが、ことここに至っては、そんな言い訳が通用しないことくらいは、わかる。
 この基地で一年を過ごした俺は、「英雄」ゲイル・ウインドワードなどではない、真っ赤な偽者だった。
 それどころか、そのゲイル・ウインドワードに討たれたはずのオズワルド・フォーサイス――『原書教団』の教主、女王国どころか全世界に混乱を振りまいた世界の敵そのものであった。
 客観的に見れば、警戒してしかるべきだろう。俺がもしオズ某本人でなければそうする、ってのもあまりに空しい仮定だが。
 地面に顔をぶつけた衝撃で切れたのか、それともいつもの鼻血か、口の中に鉄っぽい味が広がる。だが、そんなことはどうだってよかった。戻れば必ずこうなることがわかっていても、俺がこの場に戻ってきた理由はただ一つだ。
 強く押さえつけられる頭を、それでも無理やりに持ち上げて。せめて誰か一人にでも聞こえることを信じて、声の限りに叫ぶ。
「お前ら、聞いてただろう!? セレスを助けてくれ! このままじゃ、セレスが本当に死んじまう!」
 基地に降り立つ瞬間まで、セレスは確かに「生きて」いた。今ならまだ間に合うはずだ。
 だが、俺の言葉に応えたのは、真っ直ぐに向けられる銃口だった。
 俺が愛用する玩具みたいな記術銃じゃない、相応の重みと威力を持つ、女王国海軍の基本装備である軍用実弾銃だ。
 その引き金に指を添えているのは、お手本のような構えを見せる、ジェムだった。
「そんなことを言っている場合か?」
 今まで聞いたこともない、ジェムの低く暗い声が、鼓膜に響く。
 ジェムの見開かれた目には、周りの連中よりも更に一段苛烈な感情が宿っている。それが、オズワルド・フォーサイスに対する恐怖や嫌悪とはまた違う、俺という個人に対する怒りだってことくらいは、流石にわかる。
 ジェム――ジェレミー・ケネットにとって、ゲイル・ウインドワードは英雄だった。目の前に現れた「憧れ」そのものだった。俺は、そんなジェムをずっと欺いてきたし、ゲイルに殺されたはずの俺がここにいること自体が、最強にして絶対不敗を誇ったゲイルの「英雄性」を否定する。
 そりゃあ、許しちゃおけないだろう。引き金を引きたいだろう。
 引きたければどうぞ、引けばいい。だが、明らかに優先順位を誤っている!
「『そんなこと』じゃねーよ馬鹿! 今まさに人が一人死のうとしてんだ、そっちの方が重要に決まってんだろ! とっとと助けろよ!」
 ジェムは何故か鼻白んだ。俺はそんなに変なことを言っただろうか、と思っていると、今度こそ聞き慣れた声が割り込んできた。
「整備隊、衛生隊と協力してセレスティアの救助に入れ」
 ざわり、と。俺を囲んでいた連中が動揺を見せるが、その人の輪を割って、車椅子が音も無く現れる。車椅子に座った軍服の男、基地司令ロイド・グレンフェル大佐は感情の伺えない、けれどよく響く声で宣言する。
「もう一度言う。整備隊と衛生隊はセレスティアの救助に入れ」
 その一言で、俺を囲んでいた連中のうち、整備隊と衛生隊の連中が忙しなく動き始めた。その中にサヨの姿が見えなかったことが頭の隅に引っかかったけれど、その疑問を言葉にするよりも先に、ロイドがするすると俺に近寄ってくる。
 銃口を俺に向けたままだったジェムが、慌ててロイドに声をかける。
「グレンフェル大佐! 危険です、下がってください!」
「この状態からは抵抗できないだろう。おい、顔を上げろ」
 言葉の後半は、俺に向けられたものだった。命令に従うまでもなく、俺の体を拘束してる連中の一人が、俺の髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。だからこの髪抜けやすいんでやめていただけませんかね。
 見れば、ロイドが車椅子の上から俺を見下ろしていた。ミラーシェードの奥でどんな目をしているのかは定かではないが、その仮面のような面構えから、何かしらの感情を押し殺していることは、想像がついた。
 長い長い一呼吸を置いて、ロイドの薄い色の唇が開かれる。
「お前は、本当にオズワルド・フォーサイスなのか?」
 言われてみれば、聞かれてはいなかったな。ここまで来て人違いもあり得ないだろうとは思うが、基地司令として確認しないわけにはいかないのだろう。
 だが、まさかロイドにそんなことを聞かれる羽目になろうとは。少しばかり気が抜けて、つい口元を緩めてしまう。
「俺がゲイルじゃないってのは、さっきのログでわかるでしょう、先生」
「そうだな。あんな無様な飛び方をする|霧航士《ミストノート》は、お前だけだ」
 ロイドは溜息混じりに言う。無様って言い方は酷くねーかな、事実だけど。俺がゲイルのように飛べないということは、教官であったロイドが一番よく知っているから、何一つ否定できない。
 未だざわめきが支配する中で、ロイドはあくまで淡々と言葉を重ねていく。
「では、フォーサイス。教団は何故、今になって再び動き出した? 教主であるお前が知らないわけはあるまい」
 これもまた、当然の質問だろう。俺がオズワルド・フォーサイスである限り。
 だが、俺はその問いに対して、首を横に振る。
「知りません」
「……何?」
「知りません。何も」
 ふざけるな、とジェムが叫んだのを、どこか遠くのものとして認める。
 ふざけてなんかいないけれど、きっと、そう見えるに違いない。その程度には「オズワルド・フォーサイス」は罪を重ねすぎている。どうしてこんなことになってしまったのかわからないまま、当の本人を置き去りにして、俺は、世界の敵になっていたのだ。
 ロイドは、諦めたように息を一つついて、地面に這いつくばる俺から視線を外す。
「詳細は、後ほど聞かせてもらおう。連れて行け」
「はっ」
 俺を拘束していた観測隊の連中が、俺の腕を抱えて地面から引き剥がす。抵抗する気力も理由もないので、全身の力を抜いて連中の動きに身を委ねる。何より、頭が痛かった。地面にしたたかぶつけられたこともあるし、それ以前に久々に『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』を覗いてしまった反動が、今になってぶり返している。
 徐々にぼやける視界の中で、ジェムが何かを喚いている。せめてきちんと話を聞いてやらなければ、とは思うのだが、どうしても耳に入ってこない。
 ただ、散々に罵倒しているのだろうな、というのが状況から判断できるくらいで。
 このまま目を閉じれば、少しは楽になるだろうか。流石に、今ここで目を閉じて、次が無いなんてことはないはずだ。その方が幾分マシだと思わなくもないが。
 ――ああ、だが、その前にもう一つだけ。
 重たい瞼をこじ開けて、まだロイドがそこにいることを確かめる。ミラーシェードがこちらに向けられたのを認めて、頭の中に浮かんだ質問を投げかける。
「……サヨは、どうしました?」
 本来、サヨがここに居合わせないわけがない。セレスの体の管理を担当していたのはサヨなのだ。それに、俺がこうなった以上、むしろここに現れなければサヨに不都合が生じる。それがわからないサヨでもない、と思っていたのだが――。
 ロイドの表情が、ここに来て初めて歪められた。その意味を問うまでもなく、答えはすぐに与えられた。
「イワミネ医師は先ほど、我ら女王国への反逆の意志ありとして自分が拘束した」
 俺の問いに答えたのはロイドではなく。ジェムの声が、今度こそ、はっきりと俺の意識の中に割り込んでくる。
 見れば、ジェムはぎらぎらと目を輝かせて、俺を見下ろしていた。敵意、憤怒、その他諸々の負の感情を、視線と声とで叩きつけてくる。
「だって、おかしいだろう? 誰もがお前に騙されていたと知った中で、あの女だけが何一つ動揺を見せなかった! 自分が問い詰めれば、何もかもを知っていたと供述した! お前がウインドワード大尉を演じていたことも、お前が、世界の敵であったことも!」
 ああ。
 馬鹿じゃねーか、サヨ。
「それどころか、お前の存在を秘匿し続けた協力者だと証言した! なのに、あの女は己のしたことを認めながらも開き直って自分に食って掛かった!」
 そんな下らない理由で炙り出されたのか。俺に構わず、周りに合わせて知らぬ存ぜぬを貫き通せばよかったのに。ほんと馬鹿だろ、ゲイルを殺した俺を恨んでるはずのお前が、どうして一緒に捕まらなきゃならないんだよ。
「そうだ、イワミネ医師は撃たれて当然だ! 世界の敵を匿うどころか、|空言《むなごと》の英雄として祭り上げたという大罪を犯しながら、それが罪だと認識すらしていない者相手に持ち合わせる慈悲などない!」
 ああ、本当に馬鹿だ。サヨも、こんなとこでぼんやりしてる俺も。
 だが、それはそれ、これはこれだ。
 ――ジェムは今、聞き捨てならないことを言った。
「撃ったのか?」
「え?」
「サヨを、撃ったのか?」
 俺の問いに、ジェムは一瞬だけ息を呑んだが、次の瞬間には俺を憎々しげに睨み付けて、きっぱりと一つ、頷いた。
 それを合図に『|虚空書庫《ノーウェア・アーカイブ》』の扉を開く。要求は、この拘束を解く方法。瞬き一つのうちに投げ返された応答に従って、腕を捻る。一瞬緩んだ拘束を引き剥がし、力の入らない足で地面を踏みしめる。
 明らかな狼狽を顔に貼り付けたジェムが、俺に向けた銃の引き金を引いたのが、いやにゆっくりと、見えた。
 左の肩辺りが弾かれるような感覚。多分、当たったのだろう。痛みなど、認識する前にねじ伏せた。俺だって腐っても|霧航士《ミストノート》だ、その程度は無意識下で制御できる。
「ひっ!?」
 ジェムの驚愕の面が迫る。次の一発を撃ち込まれるよりは、俺の方が速い。
 振り上げた右の拳がジェムの頬に吸い込まれ、そのまま迷わず振りぬく。俺の腕だから大した力じゃないはずだが、不意を打ったからだろう、ジェムはその勢いのまま地面に仰向けに倒れこむ。
 畜生。こんなことしたところで、何も変わらないってのに。倒れこんだまま、歯を食いしばって俺を睨めつけるジェムを見下ろし、心が冷え込むのを自覚する。無駄なことをするなと、俺の一欠け残された理性が囁く。
 それでも、それでも、許せなかった。ジェムが、というよりも、俺のせいでサヨが傷ついた、という事実そのものが。
 しん、と。あれだけざわついていた空間が、重たい沈黙に支配される。時間が止まったような錯覚は、しかしロイドの一声で打ち破られた。
「捕らえろ!」
 我に返った観測隊の連中が、口々に声を上げながら、その場に突っ立っていた俺を殴り飛ばす。今度こそ、闇の中に落ち込む意識の中、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「……だから、それは俺の名前じゃないんだ、セレス」
 口の中で呟いて。
 瞼を、閉じる。